2014年8月17日日曜日

平林敏彦詩集論 『舟歌(Barcarolle)』


 平林敏彦氏には、2014年6月の「日本の詩祭」でお目にかかった。そのとき「新しい詩集がもうじき出るんです。送りますよ」と仰っていた新詩集『ツィゴイネルワイゼンの水邊』が届いた。
 平林敏彦の「戦後詩という詩法」は「はかない詩」を書くという意志です。それは、非戦への誓いと言ってもよく、現在の日本の危うい暗黒な状況において、無力なはかない詩を書くという詩人の決意は、第二次世界大戦の敗戦のときから、いまもなお同じ決意なのです。誰にも、何にも傾かずに、独りで闘い続けた「無力な物質=詩」は、あらゆる時代を生き抜く武器でした。このことは、新詩集『ツィゴイネルワイゼンの水邊』にも流れている詩への意思です。三浦雅士氏の栞文が平林さんの『廃墟』と『種子と破片』を詳しく述べている。 平林さんとは、長野県松本市に移住していた1998年ころに初めてお逢いした。小型ジープを運転して小諸まで来てくださった。今も素敵にお洒落な方ですが、あのころは本当にお元気だったなあと思う。新詩集は、これから、ゆっくり、じっくり拝読しまして、感想を述べたいと思います。








 以前に書いた詩論を転載しますのでお読みください。詩誌『エウメニデス』第24号(二〇〇五年六月二十日発行)より転載しました。

詩集論・平林敏彦詩集『舟歌(Barcarolle)』
「はかない詩」という無力な物質を武器のように携えて
                                                                    小島きみ子


1.Barcarolle(バルカローレ)を聴く

 はげしい夜来の雨があがった朝、路地に散り敷く薄紅色の花びらは、樹にあるときよりも静かで美しい。週末になると、ショパンのピアノ曲を繰り返し聞いてきた。ピアノの詩人と言われたフレデリック・ショパン(1810ー1849)の音楽は、ピアノという楽器の音だけでなく、演奏者の技術を必要とする。ショパンの独特の暗い甘さはポーランドに生まれ、ドイツ古典主義の音楽教育をうけたことと、母親がポーランド人であった民族性によるのかもしれない。また、洗練された音の使い方は、後にパリで暮らし華やかにデビューしたこと。ジョルジュ・サンドと恋に落ちたことも音楽の音のうえに、幻想的な言葉を顕している。ピアノの独奏曲ばかりを作曲したことも、結核を病み病弱で繊細なショパンならではのことだろう。
 平林敏彦さんの詩集『舟歌(Barcarolle)』は後書きを読むと、二〇〇三年の初夏に聴いたピアニスト大久保雅子さんのバルカローレによって詩集をまとめようと思い立ったとあり、このピアノ曲の演奏によって喚起されたものの素晴らしさとは、いったいどんな演奏が詩人平林敏彦の(言葉)を誘ったのだろうか。
 ショパンのバルカローレは形式、和声、ポリフォニーにおいて全て完璧なのだという。哀愁を帯びたショパンのピアノ曲バルカローレと平林敏彦さんの詩集『舟歌(Barcarolle)』に漂う、過去から現在を突き抜けて未来を予見する「哀しさ」をもっともよく感じ取れるのは、「いつも目を細めて」「港町で」「小さな窓」「行く手」という作品ではないかと思う。巻頭の作品「いつも目を細めて」にはこの詩集の主調音でもある、「きょうは死ぬのにうってつけという日が来るまで 船底でじっと目を細めて」という詩の言葉がある。この言葉は、バルカローレの漣のように別の作品のうえにも響き、展開し、巻末の作品「今日あなたはどこで」の最終行において「今日あなたはどこで だれのために死んでゆくのか」と結ばれている。詩人の渾身の力が込められている。
 音楽の楽譜の上にある「音符」は時間の形式の美学であるという。それでは、思想を表現する現代詩の「言葉」による美の追求とはどういうことだろうか。

  詩集『舟歌』から「小さな窓」の全行をひく。(七連三十行の構成となっている)詩人が「待ちわびたもの」とは、「探していたもの」は、何だったのか、「待っていた人は誰
だったのか」を考えていく。ここには、限りない愛を手渡そうとする気配がある。

「待ちわびたものは何であったか 火にあぶられる遠い空から 縄梯子の切れはしが降ってくる 集落はダムの底にうずくまり バス停で膝を抱いていたあの少年は もう化石になりかけている 暮れなずむ一日のか細い影 雑草におおわれた道は閉ざされ せせらぎの音も絶えてひさしい あらがうすべもない空白の壁が見える あのとき誰を待っていたのか 冬のさなかの水に透けて もう一度生まれてきたらと ゆらめく声が夕映えの雲にとどくまで どれほどの時が引き裂かれることか いつか霧の彼方から現れるもの 風が連れ去った祭りのほとぼりを追って 野の果てに蝶の途が浮かびあがる 待つほど遠くなるひとつの名前 まだ砂にまみれている夜明けの記憶 そして漂流する意志が出会う岸辺へある日どこかでその場所を見つけるまで 探していたものは何だったか 待っていた人は誰だったかのか 明けてゆく世界の小さな窓から はるかな沖に浮かぶみどりの島影が見え いま海辺で生まれたばかりの子が まぶしそうに空を仰いでいる 渚にあふれるひかりのなか まだ愛らしい産声をあげることも知らないで」

 「詩」というものが、直感という感性によってのみ書かれると思っている人がいたら、その人は自分の身体の中にある「書誌」を誤読している。直感は、言葉を扱う素材の一つではあるけれど、高次の詩的言語そのものではない。完全主義者と言われるショパンを聞いているうちに、平林敏彦さんの詩集「舟歌(Barcarolle)」のことを読み解こうと思った。けれども、詩人の戦後からの長い詩活動については、ほとんど何も知らないことに思い至った。
  詩人の若い日の作品は市立図書館へ行って調べてみることにした。公園を散歩していると、枯れ草のうえに点々と広がっている瑠璃色の群生を見つけた。いつも私の心のなかに在る瑠璃色の花、菫。気高い小さきもの。今年もこの花に会えたのだから、探す詩集にも会えるだろうと思った。山室静先生の記念文庫にそれは寄贈されてあり、ユリイカ版の『戦後詩人集』を一巻から四巻までを読むことができた。

2.安曇野・『月あかりの村で』

 横浜から長野県の松川村に引っ越されて、九十八年の八月十五日に『月あかりの村で』という「青猫座」の詩集が、黙祷する夏の一瞬の静寂さを伴って届けられた。闇に浮かぶオレンジいろの梯子から右手を伸ばして、平林さんの詩に出てくる中有の「シャイな月」を取ろうとしている表紙絵。小さなメモ用紙風のメッセージもその作品の根源に在る、「良心」というものを感じさせた。その文章は、「あの日から五十三年目の八月十五日、思い立ってささやかな詩の本をつくりましたので、おとどけいたします。身勝手をおゆるしくださいますよう・・。」とあり、八月十五日に到着するように発送することからにして、一九四五年のあの夏の日が、詩を書くこと、詩集を編集することに如何に深く心のなかにあるかを物語っていた。
 横浜に住んでいても、北安曇の村に住んでいてもその生活の場所が、詩を書く思念のレベルに影響を与えることはないだろう。現代詩は「空間」におけるドラマが、知性によって書かれるものであって、居住の場所によって思想が変化することはないと思う。
 九三年に思潮社から発行された『磔刑の夏』は、作品は安曇野以前のものである。「染みとおる雨を血の色に変える」ような(ひとつの秋の)、「人影がまったく絶え果てても/血は廃墟を濡らし続けるだろう」(果肉のひとかけらを餌に)何かに向かって駆け上がっていく激しさの詩の「事件」の空間がある。ここには、世界の危機的な空間が提示されている。それ以後、安曇野に暮らしてからの詩人の内部構造に影響を与えたとすれば、緑の芽吹きの中に聳え立つ白馬岳の美しさは、信州に暮らす者であっても心を奪われる。空が降ってくる、圧倒されるブルー、そして眼が眩むグリーン。色彩言語に吸い込まれていく。はかない人間の命がいとおしく思われる安曇野の夏の美しさは、時間と空間が融合した世界の「果て」の旋律を聴くときかもしれない。

 詩人は、二〇〇三年に穂高町のヘンリー・ミラー美術館で朗読のイベントを終えた後、静岡へ行ってしまった。二○○二年のこの作品は、安曇野との別れが、そして「待ちわびた」ものに「海辺の町」で出会おうとしているようにも思える。二○○二年十二月の詩誌「Eumenides(エウメニデス)」二十一号から平林敏彦さんの作品「海辺の町へ」の全行を引く。(五連二十八行)

「雪国にもう一度 遅い春がめぐってきたら この世の果てを映す月を眺めに 海辺の町へ行こう 別れることにはとっくに慣れすぎたし 気まぐれな風圧に逆らっては倒れた
まわりっこない横車をむりやり押しながら ありったけのあやまちを重ねる愚かさも知ったが まだ心のどこかで絵空事を追いかけていると 足元から枯葉色の小さな蝶が けなげに舞い上がった あの日 ぼくらはおなじ時代の回路で出会い なにかを信じるという
単純な行為に飢えていた みんな胸のポケットに野の花の種をそっとしのばせて ときには凍える夜ふけの部屋で快活によく笑い ジグザグなそれぞれの道に迷ってつまずいた
怖れを知らない野良犬の群れみたいだった 場末の溜まり場ではいまも誰かが皮を剥がれた木になって 降り積もる夢の重さに耐えているだろう もうこれっきりになるかもしれない 肌寒い秋のたそがれに染まってプラットホームに立つと 空も土も水もいちめんおぼろに霞み いつか繰り返し読んだネイティヴアメリカンの 「今日は死ぬのにもってこいの日」という詩を思いだす 薄闇の奥から近づいて来る車輪のきしる音 きみたちはまだ骨になれない若い兵士のまま 遠い夜明けの岬へ向かっているというのか 去年の春 
あふれる光を激しく震わせて雪が融けたら 終わらない時の終わりを教えに 海辺の町へ
行って暮らそう」

 「みんな胸のポケットに野の花の種をそっとしのばせて」、「ジグザグなそれぞれの道に迷ってつまずいた」、というようなナイーヴな感受性を漂わせる言葉に、はっとさせられる。一九五四年に発行された「戦後詩人集」第四巻に収められている二十五、六歳の詩人の若い写真とぴったり重なる。これらの言葉は、「荒地派」でも「列島派」でもない当時の詩人平林敏彦の詩活動のポジションを窺わせてもいると思う。そしてその表現の方向は、人としての柔らかなまなざしが立ち上がってくるような、言葉の仕草がある。その深い優しさをもって「今日は死ぬのにもってこいの日」を迎えるために「海辺の町へ行って暮らそう」と言うのだ。「今日は死ぬのにもってこいの日」というのは、北アメリカには「インディアンサマー」という言葉があり、小春日和あるいは、落ち着いた人生の晩年を喩えていう。これは、無念の死ではなく、満ち足りた日の穏やかな死をさしている。この言葉は、日常の中に存在する死を忘れるなという、タナトスの思想のようでありながら、
豊かな生の原理を顕している。

3.「はかない詩」を書く意志を貫いて・「戦後詩」とは何か

 二〇〇四年の晩秋に「舟歌(Barcarolle)」が届けられた。平林敏彦さんの美意識が結晶した、ため息がでるようなカッコイイ詩集だった。そしてここには、「練達は希望を生む」(ローマ人の手紙)という、困難のなかにあってこそ、人は強い意志で自己を超越する、その強い意志を感じさせる。その意志とは、「戦後詩」といわれた時代の詩人のゆるぎない決意であった言葉、「百の平和運動より、ぼくらは一遍のはかない詩を書くべきだ」という、潔さであると思う。人類の歴史というのは、戦争の歴史であって平和であった時代というのは数百年に過ぎないのだという。野性の生き物を野獣というが、この世界でもっとも野蛮な野獣は人類なのだ。人類が人として目覚めて「人らしく」進化を遂げてきたのは、言葉と文字の歴史を身体の記憶として肉と血に埋めてその「書誌」をDNAに乗せて人の身体に伝えてきたことによる。
 その内なる自然である「書誌」を読み解くこと、それは「生きること」即ち「詩とは何か」と重なる。人間の血と肉の輪郭に文字の輪郭が重なる、そこにいたる道程は「はかない詩」を書く意志を貫いて現代の「今日」において「(戦後詩という)現代詩」を差し出すことであったと思う。詩人平林敏彦にとって、戦後から現代までを貫いてきた詩への情熱とは、人としての良心とは、「戦争」や「兵士」を必要としない、人が生きることのうえで、おだやかな日常を守る「はかない詩」を表現することだった。戦争による無念の死ではなく、「今日は死ぬのにもってこいの日」といような「人の死」が穏やかにやってくるようなそういう世界を、詩作によって問い、応答する力によって予見することだった。
 
 現代詩というものの歴史の中で「平林敏彦」という詩人の名前は、「戦後詩を先行した詩人」と言われている。「戦後詩」とは何だったのだろう。「戦後詩」というものの考え方は、『荒地』と『列島』に所属した詩人たちの詩活動のみが多く書かれてきたように思う。だが、この両派に所属しなかった詩人たちのなかに平林敏彦は存在する。「荒地派」でも「列島派」でもなかった平林敏彦は、その両者に影響を与えながら、洗練された明るい都会的な無垢な魂の所有者だった。無垢な魂とは、無意識の層における自己の中に他者が存在する、応答する自己を指している。内的自己の存在による「応答する力」は現代社会と言葉とが切り結ぶ(場所)であり、詩人と読者とを結ぶ(場所)である。一九五四年に『種子と破片』を発表した後、沈黙し続けていた詩人が『水辺の光一九八七年冬』を発表したのは、一九八八年で三十四年後だった。この詩集にとても素敵な作品がある。日常の中に現れた輝き、難聴の右耳で「僕の低い声をよく聞きわける」その人のために「勇気という苗を植えたい」と。温かい愛情を見守る「シャイな月がのぼった」のだった。
「月影」全三十六行のうち二十一行目から終行まで。

「そんな君が突然現れたとき 僕はひどくうろたえて 引きずってきたぼろを窓から投げ捨て 座り心地よさそうな 椅子をさがしまわった 栗鼠のように働き 疲れてばたんと眠る嫁さんのために 狭い庭に勇気という苗を植えたいと思った そして歳月はぎこちなく過ぎたが いつか二人で ビートルズの神話を食べる旅に出よう 明日は新年というので 君は鍋の底をしっかり磨く 見てごらん 一年の塵をはきだした町の空に 僕たちの暮らしを映すシャイな月がのぼった」

 平林さんはとてもオシャレな方で、初めてお会いした時は、黒シャツの上にグリーンのジャケットを羽織って現われた。センスのよさは、詩集の装丁にとても良く現われている。このことは、言葉を扱ううえでも同じように思う。戦後に書かれた詩篇は、すでに現在の現代詩として言葉が洗練されていて、瑞々しさと若々しい気品に充ちている。言葉の標的として美しい物を目指して表現していた。言語芸術における美の追求とは、「モラルと人間関係の真実」を指している。思潮社現代詩文庫の「平林敏彦詩集」に詩人のエッセイがあり、一九五四年頃、「詩行動」での記述に「百の平和運動より、ぼくらは一遍のはかない詩を書くべきだ」とある。「はかない詩」というのは、前述のモラルと人間関係の真実、に重なってくる。この言葉は、詩人平林敏彦が戦後から二十一世紀の現在まで貫いてきた「美意識」に他ならない。

 戦争中、二十歳から一年半、兵隊の一人であった彼は、人々の無念の死のことを、戦争という異常な状況下において人間がどのように野蛮な生き物として変貌するかを、詩人の眼で凝視してきたのだった。日常のなかに横たわる死の存在、そのことを警告しないで詩を書き続けることはできなかった。これは、どの詩集にも流れている主調音であると思う。作品には人間への愛と畏怖が良心の形のうえに表現されている。
 言語芸術に限らず、芸術が表現する物質(マテリアル)は、有機的生命世界のなかで人という者が、人類として何であるかを考えていくことだと思う。初期の作品から現在まで貫かれているのは、横浜で生まれ育った洗練されたナイーヴな言葉使いと、暗くよどんだ運河の流れを凝視する眼の位置にある。戦争という非常な異常事態のとき、決定的な破壊力を持つ武器の前で、詩の言葉は何の役にも立たないのかもしれない。詩の言葉は「無力な武器(もの)」だと思い知っているが故に、平林敏彦の詩集には今日の見せかけの平和の時代にあってなおのこと、「革命」や「兵士」や「戦争」という言葉が、血液のように流れることを止めないのだと思う。それは、戦争を知っている者が生きている間中の「良心」なのだとでも言う様に、警告を発し続けてきたのだ。

 一九五四年に書肆ユリイカから発行された詩集『種子と破片』に「今日」という作品がある。この後半の三連と、五十年を経た『舟歌(Barcarolle)』に所収の「港町で」の二連目とが対峙し過去の空間が現在の時間に突出している。『種子と破片』所収の作品「今日」は思潮社現代詩文庫142平林敏彦詩集の32Pから引用。
「今日」十五行目から終行まで。

「堤防の風のなかで 少年はまだ泣きやもうとはしない ばくが訊いても返事もせずに
いくども紙きれを小さくちぎって捨てる 晴れた月曜日のくじける予感 河べりに下りれてみあげると 少年はもう細い声だけになって やさしく木の枝にからんでいる 下りてこいよ しろい蛇 ぼくはいちまいの海を地面にひろげる ところどころに血がにじみ ところどころは焦げくさい海 だが ぼくはもう誰を待つのでもない すこしかすれたこの声で 今日ゆくさきを告げるだけだ」

「今日」というこの「ゆくさきを告げる」日とはどういう日なのか。どういう日であり続けたのか。「戦後詩」というもの、「はかない詩」とうもの、現代詩とは知性で書かれる思想を表現したもの、というそれらのことと、日本の戦後と現代社会を切り結ぶ詩の言葉が応答する(場)がどこに、どのように存在するのかを考えさせられるのだ。詩人は、全力で「良心」というものの在り処を顕したのだから。それは、行為する道徳(エチカ)の在り処でもある。

 「港町で」から、全三十九行の十一行から十九行目まで。(二連目全体)

「夜の水辺にかがんでいると 霧にかすんだむこう岸で だれかがぼくと同じ厄介な物を そっと沈める気配がつたわってくる きのう港の公園で出会った少女はもう か細い声だけになって 木の小枝にからんでいるが 風がひろげた航海図のところどころに血が滲み ところどころにきな臭い海 天心に凍りつくあの沖合いの黒い月」

 そして、「港町で」の三連目の終行二行にこの詩集の主調音が再び現われる。「なべて眠れる者よ 死は夢のはざまにあふれている」と。詩集の巻頭に「いつも目を細めて」という作品があり、その終業二行にも「きょうは死ぬのにうってつけという日が来るまで 船底でじっと目を細めて」とある。さきに述べた、「インディアンサマー(Indian summer)」の概念とも重なるのだが、「なべて眠れる者よ」には、もうひとつタナトスの思想、メメン・ト・モリ(死を忘れるな)という意味も含まれているように思う。おぞましいことに人類の世界は、戦争という祝祭によって更新されてきた。その野蛮な野獣である人間という生き物が、何であるかを問い続けそれに応答する声が詩集から立ち上がっている。

4.詩という「世界」が立ち上がるとき

 安曇野における九十三年から二○○三年までの、村暮らしが、詩の「空間」において人間の有限な生の「時間」と融合している。見えない感覚の構造のなかに、詩集「舟歌(Barcarolle)」の主調音として応答されていると思う。詩と言う事件のなかへ、有限な生はとりこまれていく。
 詩人の強い意志を現代詩文庫のエッセイから詩人自らの言葉で引く。「ぼくたちの世代が自らの運命に対する反逆の意志として生み出した戦後詩の骨法は、現在もなおぼくの詩のモチーフと方法でありうる。一遍のはかない詩を書くために生きることを、ぼくは恥じない」。この言葉をしっかりと受け止めたい。思想が詩の表現に導かれていくのは、言葉という物質、それ自身が沈黙しているその深みから、私という事物のうちを切り裂いて、身体の裏側に私とは別の「詩」という物質を作り出すこと。そこに存在するのは知性による経験の変状である。未知の創造として、うちなる私が言葉との関係により裂かれるたび更新される「詩」という事件(ドラマ)。その空間における有限な人間の人生の事件(ドラマ)をナイーヴな言葉使いで、生き抜いた詩人が平林敏彦であるだろう。作曲家武満徹は、音楽の音は「沈黙と無限の音がある」と言った。詩の言葉もまた、過去から現在を越えて未来に突き抜ける、沈黙の言葉を聴くとき、言葉は無限の響きを奏でるだろう。

参考文献
属啓成著「名曲事典」・(株)音楽之友社・一九六九年六月十日発行
詩誌「Eumenides(エウメニデス)」21号・二○○二年十二月十五日発行
「戦後詩人全集」第四巻・書肆ユリイカ・一九五四年十二月十五日発行
平林敏彦著「磔刑の夏」・株式会社思潮社一九九三年八月三十日発行
「平林敏彦詩集・現代詩文庫142」株式会社思潮社一九九六年九月一日発行
平林敏彦著「月あかりの村で」青猫座・一九九八年八月十五日発行
平林敏彦著「舟歌(Barcarolle)」株式会社思潮社・二○○四年十月三十日発行
*1・一九五四年に発行された詩集「種子と破片」所収の作品である「今日」は思潮社現代詩文庫142「平林敏彦詩集」所収の32Pから引用した。また、詩人の言葉「はかない詩」、及び「モラルと人間関係の真実」についても現代詩文庫142所収のエッセイから引用した。128P,129P、137Pによる。
*2・ 作曲家武満徹の言葉「沈黙と無限の音がある」については属啓成著「名曲事典」(株)音楽之友社による。

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