2016年7月7日木曜日

高塚謙太郎詩集『Sound & Color』について





 高塚謙太郎・新詩集「Sound & color」(七月堂)
  詩集タイトルが「Sound & color」であるのに、タイトル詩はなくて、本文の内容にも英文は出てこない。裏から始る目次の次に、本人からの9行のメッセージがある。「言葉がもつ幾重もの意味の層が常に揺れ続けることで色がひろがり、私たちの脳である種のリズムが生まれてくることも確かで、韻律といった場合、単なる音韻上のリズムをさすわけではなさそうです。」とあり、タイトルは彼の詩の思想〈幾重もの意味の層が常に揺れ続けることで色がひろがり〉を現した文字と意味なのだろう。

 それにしても、本文の前の扉には「やすらいはなや
/やすらいはなや」とある。これは、なんだろう。検索すると、「やすらい祭(やすらいまつり)は、京都市北区で行われる祭の一つである。特に、今宮神社で行われる大祭として知られる。踊りを奉納する。桜の花を背景に神前へ向かい、激しく飛び跳ねるように、そしてまた緩やかに、「やすらい花や」の声に合わせて踊る。」とある。これから始る日本語の平仮名詩四十一篇の前に「やすらいはなや/やすらいはなや」と掛け声をかけて始る詩集。なんとも、古い時代に死んだ人々が飛び跳ねてこちらがわへ蘇ってくるようではないか。

 それなのに、表紙画は電車のつり革がぶらさがり、明るい黄土色の日差しが射している。どんな、声がこちらがわへ蘇り、どんな声があちらがわへ行こうとしているのか。詩集全体に充ちているのは、日本語の平仮名の柔らかさと、哀切である。それは、愁いと述べてもよく、桜の花が散るのを惜しむような、古い時代からの憂愁という感情だと思う。

 人は死ぬ、戦争が始って戦地で命を落とさなくても必ず死ぬ運命にあるのが、人の命というもの。だからこそ、「すこしくちびるをとがらすだけで
/あなたはわたしにあたたかい/あたたかい戦争が終わりなく窓からまどへ/つたっていったさきに本がとじられる/もうよむものなどどこにもない/こんな安楽なこともない/こころやすらかにわたしたちは/しあわせにのびおよんでいる気ぶんで/いまあなたからくちびるをはなす(わたしたちはのびている)」のだろう。〈しあわせにのびおよんでいる気ぶん〉という感情には、必ずやってくる死の意味に立ったうえでの、生きることをやり過ごす日常の、人間のやるせなさの言葉の芯が現されているし、その奥底に隠されているのは、現実の日本社会への批判があると私は感じる。

 政治的な言葉で批評するのではなくて、作品「わたしは本ののどになりたい」で書いているように、「書くという血」が「書くという知」を動かして、愚かさを「ころすためにうごく」という、そんな現代詩を書く詩人でありたいと思う。もう少し、時間をおいて纏まった詩集評を書きたいと思う。この国の平和と安全を、作品「かみさま」みたいに、芽吹かせていきたいものです。



2016年7月3日日曜日

広瀬大志作品×小島きみ子

広瀬大志作品×小島きみ子
この作品は、2016・7・23~7・24小島きみ子フラワーアート「エデンの東」展で発表します。







広瀬大志
薔薇静か



眼差しの先の鳥
時間を結うかんざしの
ようにさえずっている

茜色に空は落ちていき
このまま夜になるという

薔薇はいっさいの色をひき
人の眠りへ
彩りの層を積んでいく






「薔薇静か」の小箱。





小箱の蓋を開ける。

詩の行に沿って、
薔薇の葉、
ばらいろの薔薇、
茜色の薔薇、
ばらいろと茜色を分断する、
オレンジ色の薔薇、
そして、闇の始まりのヒオウギ〈ヌバタマ〉の実、
ばらは一切の色を退いて、
漆黒の闇が訪れる。





ヒオウギ〈ヌバタマ〉の漆黒の実。
つややかな黒い実は、二〇〇九年の秋にドライフラワーにしたものです。
ヒオウギは、オレンジ色のとても可愛い花で、万葉集に「ヌバタマ」で現される
表現は、夜の闇、女性の黒髪にかかる掛詞です。

現代詩文庫223『水田宗子詩集』(思潮社)について

   水田宗子は、尊敬する女性詩人のひとりです。彼女を始めて知ったのは『エドガー・アラン・ポオの世界 罪と夢(1982/南雲堂)』を読んでだった。エドガー・アラン・ポーを新鮮に思った始まり。この本を契機にポーのことを探求して短いエッセイを書いた。
   その次に読んだのは、『鏡の中の錯乱 シルヴィア・プラス詩選・水田宗子訳(1981/静地社)』だった。

 現代詩文庫の帯に、「フェミニズム文学批評の第一人者として」とある。女性学の初めのひとりとして認識しているが、詩を書くものとしての核にあるのは「フェミニズム文学批評の第一人者として」ということなのだろうと思う。

 




 さて、今回の現代詩文庫は、表紙に始まって、表紙裏から扉にかけての詩は、なんて力強いのだろうと思う。その強さは、生命の強さであって、「生む」ということや「有る」ということを、原始の母の感覚で包んでいる。人間は考える葦であるから有るとか、精液が命を芽生えさせるとか、そんなことはどうでもいいことで、生まれたものが有るのだし、生きて成っていくのだし、それだけで在るということは充ちていると、わたしは思う。

「小枝のように真っすぐで細い
/太古のペニスが/想像の小窗を貫くとき/両翼を押しあてて/かがみこんだわたしの脳裡から/何滴の血が/底無しの大地へ滴り落ちたであろうか/やがて季節が変わり/嘴も神話も生まぬ/わたしの暗闇のなかへ/雄鶏の叫びの記憶にかわる/何をむかえ入れるのだろうか」

 この現代詩文庫に所収されている詩は、引用しないが、後半に評論があり、「山姥の夢 序論として」と、作品論・詩人論に「対話 やわらかいフェミニズムへ」で大庭みな子との対論があって、水田はアメリカ文学が好きになったのは「フォークナーからだった」と述べている。近代文学における、作家の自我について、水田が述べているのもとても興味深い。私は彼女の『ヒロインからヒーローへ』を読んでいない。この著書を大庭みな子がたいへん誉めているので、読んでみようと思う。シャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』の批評もきょうみ深かった。


2016年7月1日金曜日

詩の心とは


わたしは、日本で生まれたので、日本語を使って詩を書いています。日本語で詩を表現するとは、どういうことなのでしょう。現在の言葉の持っている現われとは、どういう意味や感情や、言葉の雰囲気を、読むものに伝えていると思いますか?
 2007年に送付された山本萠さんの「雲の戸」から、彼女の「星の水」を紹介します。山本萌の魅力が、控えめにそして存分に伝わってくる、大変に個性的な個人誌です。詩の中に閉じ込められている言葉と漢字は、日本語の言葉の響きや、漢字と音のなりたちをあらたに創造させる、すぐれた「ことば」たちです。技法や詩法などにとらわれず、言葉というものが言葉の力で現す、詩の心に触れてみてください。


星の水     山本萠

泡(あぶく)みたいにとめどなく
人が現われて
巨石の林立する影で 話している
だが 暗黒星雲のように
不透明
というのだ
割れかけたり
貝殻のように摩滅したり
ひりひりと爛れたりして どれも
光忘れた光 のように疼いている
それを 歴史といってもいい
平でない平地の
とわに続いて行く
乾いた影
濃い群青色の ひとすじの淵を
きっと 誰も知らなかった水が溢れてたんだ
ない水を
鏡のようにかかげて
どこまでもとどろいて行く
溢れる
という その
熾烈な過去 を
蝶は
翅をとじるのも忘れ 顫えながら
憶っている
いつまでも 尖った角のある
距離をはかるものたち
ときに 沈思する人影のような化石を
掘り当てることもあった
空では
景色が徐々に後退しながら 青ざめた
紫陽花の花を咲かせている
どんなふうに煌いてしまうのか
水流の まぼろしの 激しい澄みを 
湛えたままで
(山本萠:「星の水」全行引用)