2017年12月20日水曜日

2008年12月13日に読んだ詩集のこと。

20081213日に読んだ詩集のこと。
吉野令子詩集『その冬闇のなかのウェーブの細肩の雪片』より(無歴の墓地から)を紹介したいと思います。ザレマという名詞が出てくるのですが、どうなんでしょう、わかりません。読んでみましょうか。・・23行目で「とはいえザレマの羽はうとましと隣接し」とありますから、蝶のようです。・・・・この詩のいちばん凄い行は、52行目なのです。そこだけ出しては、と思い前半を引用したのです・・・52行目は (麻の袋に入れて記憶する 指) とあります。「記憶する指」は麻袋に入っています。切断されているのでしょうか。ザレマは人を殺すためのスイッチを押すことを拒んだのでした。けれども「鎖の腕にばくはつぶつをうばわれておおくの歩行者のいのちがうしなわれた」のです。その指ですね。これは、今年の6月の秋葉原の無差別殺傷事件の光景とも重なります。この作品は2007年8月に「ガニメデ」に発表したものです。社会事象を預言したような場面です。
・・・人は絶望のなかで、きょうの命を延ばしているだけなのでしょうか。希望を、明日の光を、どのように見出していけばよいのでしょうか。雪降る冬闇は、深くて、神さまはどこを歩いているのでしょうか。

(無歴の墓地から)       100Pより引用
1(あのひととの出会いをねがっていたあなた
 あなたとの出会いをねがっていたあのひと

2(――ところでこのときはたちのザレマは
 どこにもどのような居場所がなかった
 おりしも通りかかった幼児が質問をした
 なぜ寒い庭にいるのと静にいった
 働く場所がないからと仄かな声でこたえた
 そこは世界の底で足元に冷たい淵があった
 ――ところでこのとき疲労していたザレマは
 錆びたビデオテープを手にしていて
 そこには 狂言的で 悲惨な
 満月の下での 集団の テロ活動が
 丹念に細部まで映し出されていたが と
 このとき凍てたほのぐらいひかりに
 かこまれた画面の上を
 ざらついた ヴェールの
 うすあおい テロップが 流れた
 あなたはわたしの心のなかにいる
 このことを記憶していてほしいという
 とおい線のこえ 死をはばむ木の葉
 だからこのとき疲れた蝶のザレマの心に
 肯定へと裏返ってゆくものがあった
 とはいえザレマの羽はうとましと隣接し
 とはいえ憑かれた触覚の重量の減少はなく
 だからふるびた舗石のうえに立って
 宙に浮く目を残して

 ひとりで 耐えていた

2017年11月28日火曜日

(あれは詩だったかもしれないのに)




(あれは詩だったのかもしれないのに…)


叔父は死ぬ前に《日常的絶望は曲がりくねった千曲川(チューマガワ)に呑まれ、
黒いユーモア詩集は、「移ろい行く相のもと」バロックな森の腐葉土に埋められた》と、手紙をよこした。


そんなことをSとも話しながら、枯れ草のうえに舞い落ちた桜の葉っぱの写真を撮る。雑誌の表紙に使うのだ。彼と、ダンテの煉獄の話をする。研究の進み具合も尋ねる。


近いの?あのニュースの場所。
そうね、行ってみたい?
…いや。内容があまりに猟奇的だったからね。
でもね。川端康成の散文を読めば、安部定だって、すごく普通な人だったわけでしょ。
純粋な愛情って、「単純な」って意味ではないもの。
「詩」ってどこに在ったのだと思う?
ねえ、S、黒いユーモア詩集のこと覚えている?
ここはね、叔父の手紙を燃やした場所よ…



あれは「詩」だったのかもしれないのに…
腐葉土の下にいくつもの言葉を埋めた…
叔母の薬指にはめられていた指輪も心臓に埋められていた小さな機械も。

2017年11月19日日曜日

冬の形見

























冬の形見          

小島きみ子



白い
ノートを開く
と、
(そこ)は
叔母の家
あなたがつけた家計簿を読む四十九日

桐の箪笥の前に、明日から使うかのように投げ出されていた
手編みの藤色のショール
東窓から射し込む木漏れ日に
ススキの穂波のように揺れる、モヘア糸
見覚えのある、それは母とお揃いで
長男の妻であった人が、長い冬の陽を受けて
病床で編んで、二人の義妹に贈った形見の品
そして、いままた新しく人は逝いていった

滅んだ肉体が残していった、形見のそれは
水を含めば、再び蘇る種子のような物質の記憶となって
手渡された

病院の駐車場から屋上を見上げた霜月
白いシーツがはためくその前で叔母が手を振っていた
(ここから、見送るから)と、見送られたその夜

叔母は胸の上で家計簿をつけながら旅立った

小島きみ子詩集『その人の唇を襲った火は』










その人の唇を襲った火は                    小島きみ子


Ⅰ 変容と神秘

 真の哲学的な解釈とは、問いの背後にすでに潜んでいるある普遍の意味を探りあてることではなく、突然瞬間的に問いに点火し、同時にそれを食い尽くすことなのである」(「アドルノ」木田元訳)


ⅰ 
黄砂でマグノリアの木が煽られている。営巣まえの鳥の声が、子どもの泣き声のように聞こえる朝だった。なるほど、ちかごろの子どもの名前は、日本語の漢字の意味から離れて、鳥が鳴いているとしか思えないカタカナの音が連なっている。言葉は意味ではなく、「音」への反応だとしたら、いま、この朝の庭に来た鳥の鳴き声を理解できたろうか。鳥族の囀りは、歌のように聞こえるときもあるけれど、雑音でしかないときもある。季節を巡るどんな変容が彼らの羽毛の「内」に神秘を起こさせているのか。


ⅱ 
オリヴィエ・メシアンの「鳥のカタログ」の鳥たちはたとえば、あのポーの詩にあるレイブンも含まれていて、それは既に絶滅したと言われているワタリガラスだった。作曲は一九五六年の九月から十月にかけてで、モデルになった鳥たちは、フランスの各地方に棲息する鳥の名をタイトルにした、十三の曲(全七巻)からなる作品で、連作のような形を取っている。鳥の鳴き声は、「音」そのもので、音の意味を知ることはできない。耳をつんざく音の連なりの「音」の空間に存在するものは何か。鳥の声に点火されたものは、意味ではなく、人間という存在への「反応」だとしたら、この「音」は「誕生するもの」「現象するもの」が過去につけた光の跡であるかもしれない。「鳥のカタログ」が作曲され、ジョルジュ・ブラックが石版画を製作し、サン・ジョン・ペルスが「鳥」の詩を書いたこと。それらを連結したのは「ポエジー」だった。ジョルジュ・ブラックが絵画にとってのポエジーについて述べているそのことは、現代詩というものが詩であるための「言葉の強度」に言い及んでさえいる。ポエジーということばで、何を意味させるか? 『絵画にとってのポエジーとは、ちょうど人間にとっての人生の意味と同じである。私にとっては、それは調和であり関係であり、リズムであり、そして私自身の作品にとってこれが最も重要な点なのだが、変容(メタモルフォーシス)なのである』『一つのかたちが人によって異なった物を意味しようと、同時に多くの物を意味しようと、あるいは全く何物をも表さなかろうと、私には同じことだ。それは時として私が好んで自分の構図に取り入れる一つの出来事、あるいは『韻』の一つにすぎない』(現代世界美術全集15:「変容と神秘(豊住紘一訳)」)


Ⅱ その人の唇を襲った火は


ⅰ ツグミ
目の裏に、工事現場にいたツグミが飛んでいた。午前中は福祉施設の建物の改修工事を見て回り、午後はデスクワークに戻るという日が何ヶ月も続いていた。その朝は、八月十九日という福音書に記された出来事を記憶する日だった。


ⅱ 鳶
東の方角を目指して車を運転していくと、その高台にある養護施設の上空を番の鳶が飛んでいた。朝日がさし始めていた。駐車場に車を止めて歩き始めると、そこでお世話になっている少年がいつの間にか来て、手をつないでいる。その子が「ママ」と言うので「違うよ」と言うと、また「ママ」と言う。負ぶってやると、痩せている子は、背中でカサコソと紙袋みたいな音がする。理事長室まで行き、その子を下ろすと、その人は、生きていたときに一度だけ会ったことがある現在の理事長の父親だった。


ⅲ ルリビタキ
それは青いルリビタキで、ちょっと首を揺らすと、(もはや)と言って、その祠のなかへ入って行った。あの子どもは、出産障害で脳に損傷を受けていた。この児童養護施設で暮らす子は、ほとんどが都会からまるで学童疎開みたいに、村の高台に立つこの場所へやって来たのだ。理事長の父親が、戦時中にこの村へ疎開したことの縁によるのだった。私の背中から飛び降りた小さな老人は、礼拝堂の横に立っているハイマツの陰の中へ入っていくところだった。


ⅳ ヒヨドリ
遠くから見るとヒヨドリの冠羽のようなヘアスタイルの少年が、ポピーの花咲く丘を上っていくところだった。丘の上では涼しげにポプラの葉が鳴っていた。私よりも背の高くなった彼は(あなたの結婚は間違いでした)と言うのだった。あまりの驚きで立ち尽くす私を置いて、少年はひとりで丘を下りて行ってしまった。


ⅴ ハシブトガラス
ポピーレッドの丘を下る私を、ハシブトガラスが見ていた。神はなぜ処女であったマリアを選んだのか。人であれば必ず死すべき運命が待っている。死すべき存在としてマリアの胎内に創造され、ゴルゴタの丘で磔刑にされたイエス。ひとりの神の子を、そのときまで守り抜いたマリアとヨゼフ。はたしてイエスとは誰の子であったのだろう。彼が死の変容を遂げてから現在まで、ひとびとは彼の何に触れえたのだろうか。

ⅵ 白鷺
(歩きませんか)と声をかけてきたその人は、養護施設の生活指導員だった。牛舎を抜けて、川に沿って歩くことにした。鳥が飛んでいた。鷺だった。白い羽がまぶしかった。白い光は、悲しみの象徴であったのかと思うと、光輝く栄光というもののほんとうの姿が見えたように思えるのだった。


ⅶ キレンジャク
小鳥が飛んでくる。瀕死の子どもを助けようとして、鳥の羽毛が空を覆い尽くしている。時間が戻っていく。少年が生まれなかったところまで。変容(Transfiguration of Jesus)とはなにか。イエスは、山上でモーゼ、エリヤと共に、彼がエルサレムで遂げようとする最後のことについて話し合ったとされる。彼らの目の前でイエスの姿が変わり、衣は白く輝き、光につつまれた。


ⅷ その人の唇を襲った火は
(鳥のカタログ)の鳥たちだった。目を閉じることもできずに眠る人の唇は乾き、声は失われ、流動する意識と心臓の音だけがその人の耳に響いていた。失われた声が響かせる無意味の意味。それは「鳥」に点火された衝撃であり、神経難病で声を失った人が、唇に紙を貼って、鳥の声でピーピーと鳴くとき、一つの音が一つの音節であって、その意味にたどり着く苦悩の長さは、人間の言葉を回復する言語訓練であり「韻」であった。その人の唇を襲った火は、十三種類の鳥の鳴き声。人語を失った人の、鳥の嘆き。唇ではなく、喉で鳴らす声の痣だった。言葉よ、存在せよと。



2017年10月2日月曜日

草間彌生の『無限の網』と/十六年目の(ケー子)

  小樽市の詩人・杉中昌樹さんの企画した「現代美術の夢 第1号」[現代美術+]に「草間彌生の『無限の網』と/十六年目の(ケー子)」を寄稿しました。


草間彌生の『無限の網』と/十六年目の(ケー子)    小島きみ子

*(水玉)と(網目)
草間彌生は、一九二九年長野県松本市で生まれた。水玉と網目と突起物をモティーフにした、幻想的な作品を制作してきた。十歳のころ、「無題」という母親の肖像画を描いていますが、初期の(水玉)である点々とポツポツが背景と顔に描かれています。水玉は自己と他者の消滅を念じるものであったとしても、なんという美しい母。ニューヨークでの一九六〇年代後期の個展での部屋の家具も点々と網の目で、人と物を相互に結びつけた同一性は、すでに少女時代に、人と物の同一性としての水玉が意識せずに描かれていたのではないか。草間彌生の現実には、水玉や突起物が現実のもののなかに存在したのだ。脅迫観念と幻想と撹乱の芸術創造の現場で、彼女の病と苦しみは制作することで、苦しみから解放されるものだった。そうした作品は、母親に〈おまえなんか生まなきゃよかった〉と言われた。それでもなお、草間彌生の〈水玉〉と〈編み目〉はだれにも止めることはできなかった。
*自己の消滅と永遠
一九五七年単身渡米。一九五九年ニューヨークのブラタ画廊で初個展、五点のネット・ペインティングを発表。前衛芸術家としての地位を築いた。一九七三年活動拠点を東京に移し、一九九三年ヴェネツィア・ビエンナーレで日本代表として日本館初の個展を開催した。二〇一六年に栄えある文化勲章を受章。草間彌生自伝『無限の網』(作品社)の七十頁~七十一頁に、「一九五四年:昭和二九年)二月、東京の日本橋白木屋百貨店で、私にとって三回目の、そして東京ではじめての個展が開かれた。この個展の案内状に推薦文を寄せてくれたのは、瀧口修造、式場隆三郎、植村鷹千代、阿部展也の四氏である」、とある。パリ行きを中止し、東京で個展を開いたのは草間彌生が二五歳のとき。自伝『無限の網』は、果てしない無限の宇宙の神秘を量り、一個の水玉である自分の生命を描きたい―。ニューヨークでの無名時代の生き地獄、襲いくる心の病にも負けず、社会の既成概念に挑み、芸術への尽きせぬ情熱を開花させた。自伝『無限の網』の文中に、〈模様は地球のマルでも太陽のマルでも月のマルでもいい。形式や意味づけはどうでもいいのである。人体に水玉模様をえがくことによって、その人は自己を消滅し、宇宙の自然にかえるのだ。〉とある。彼女の出身地・松本市立美術館の中庭の入り口に三人の女性の裸体の上に赤い水玉模様のある作品がある。現代的な八頭身のフォルムで、少女、娘、母へという成長の変化が見られる。白い皮膚の上の丸(●)という模様は結合した卵の命そのものしてあった。
*ブレイクスルー
二〇〇一年の夏休みは図書館で草間彌生の小説やエッセイに耽溺していた。すべては市立中学校第三学習室における多重人格障害の少女ケー子との出会いが始まりだった。無限の網(Infinity Net)とは意識と無意識が自由に出入りする永遠の空間なのである。二〇一七年夏、ケー子はゆるやかに手を振ってブレイクスルーしてきた。



*十六年目の(ケー子)
新しくオープンした高原のスーパーへ行った
朝から雨が降っていたが火曜日はスタンプ二倍セールなのだ
買い物を済ませてカートを押して駐車場へ向かう途中で
センセーという頓狂な声を上げて近づいてくる女性がいた
一目で(ケー子だ)とわかった
ケー子は誰も知らない秘密の入り口から今此処に来た
古い木造校舎の中学校の薄暗い階段下は
床下で生まれた仔猫がバスタオルにくるまれていた
ケー子もキズだらけの裸身を紺色のジャージーでくるまっていた

青葉が萌える火曜日の午後一時半
木造校舎の床下からスーパーの駐車場まで蝸牛の軌跡で(ケー子)は来た
図書館と社会科資料室をベニヤ板で仕切った
「第三学習室」から脱出して
週五日パートで労働していたのだ
多重人格障害のケー子は今や立派なレジチェッカーだ
わたしがサポーターと呼ばれていたあのころ
(ケー子)は若い男性教員に手当たり次第の恋をしていた
いきなり抱きつき接吻をせがむので
相手はうろたえて床に押し倒されてしまう
すきだよ
キスして
あの子は虚無という肉体の文章を
キスして、という言葉で開示していた
それによって
暴かれていたのは
わたしたちの第三の自己(エス)だった
(ケー子)は
永遠の(水玉)と無限の(網目)だった
なにがどうなっていたのか
なにをどうすればよかったのか
なにもどうにもならなかったのだ

(ケー子)
あの子は私たちの知らないそっち側に居て
こっち側の私たちの頬をいきなりベロベロ舐めるのだ
センセーあたいはセンセーのことすきだったよ

(ケー子)
赤い制服のエプロンは黒と白の(水玉)模様だ
もはや紺色のジャージーではない
命の●のエプロンだ

(ケー子)
第三学習室のベニヤ板の前で
蝸牛のように
テカテカの軌跡を残して

忽然と消滅した十五歳の女の子の(水玉)であった

2017年9月21日木曜日

9月のナチュラルライフ|ライフスタイル


ナチュラルライフ|ライフスタイルのものの考えの根本にあるのは、ウェルギリウスの "Georgica"(ゲオルギカ)の農耕詩です。

小島きみ子|ユリノキの下で

草の上に。

斃れて。
草となる。
草の命の上に重なる、
人の輪郭は、
炎の跡か、
光の疵痕か。
探しあぐねた言葉の一片となって、
私を抜け出た、
茫茫の蔭を慈しむ。








美しかった夏の花と緑。楽しかった夏の花と緑。「夏の思い出」























そして、夏野菜たちの最後の収穫と「夏仕舞い」です。

 9月11日 午前6時半から7時まで強雨。市内に強雨注意報。7時半に小雨になったので、ゴミの日の鳥除けネットをゴミ集積場に準備。区の班長の朝の仕事。家庭菜園のプチトマトを収穫してサラダ用とピクルス用に分けていると雨が降り出す。雨の合間を縫って菜園の仕事をしつつ原稿の資料を整える。午前の部の終了です。パンが焼けました。生地はフランスパンですが、最近はバゲットにしません。丸パン、ルバーブジャム、イタリアントマト・ピッコラルージュ、キュウリの和風和え。雨が止んだら続きの作業。ピッコラルージュは、私よりも背が高いのです。踏み台が必要。



















カレー粉でカレーピクルスにします。
熟しているのは、サラダ用。
フランスパンの生地で丸パンが焼けました。

青トマトのグラムが不足なので収穫して400㌘にする。カレー粉、酢、砂糖でつけ込み液を作って、貯蔵瓶につけ込む。鷹の爪を刻んで二本入れる。これは重要かもしれない。トマト、タマネギ、の順に塩を振りながら瓶にいれて、最後につけ込み液を一煮立ちさせて冷めたものをかけて、30分常温でなじませてから、冷蔵庫に保存する。


















塩を振ってつけ込んであるので、常温で30分おくとカレー液となじんできます。
いい感じです。
1週間で食べ頃になります。
保存用の瓶が若干大きすぎました。
食べ頃になったら、小分けします。
イタリアントマト・ピッコラルージュは、まだもう少し収穫できます。
たくさんの喜びをもたらしてくれた、素晴らしいトマトです。
もう1度いちばん美しい姿を記録に残しておきます。
9月にはこのような形のよいものは収穫できません。
日照不足と、受粉しなくなる実が多くなってくるからです。



9月16日
台風18号が上陸して、当地に到着は夜とかで、空から市の防災無線が注意を喚起しています。花壇の整備をして午前の部終了です。収穫できる物は収穫して、背の高い花は剪定。補強ししました。


2mを超えたイタリアントマト・ピッコラルージュの高層仕立て。
アサガオの蔓が巻き付いているので、台風の風には耐えるであろうという予想。すでに8割の収穫が済んでいます。上の方に生っているトマトは梯子で取ることになるのかな。

山口県の友人が送ってくれた四角豆の種。発芽は遅れましたが、ショウジョのそばで蔓が伸びて豆になりました。二本発芽しただけなので、棚は作りませんでした。好きなように育っていますよ。添え木もしていません。野生のままです。









ヘブンリーブルー


12月に写真詩展をする会場の玄関です。
ブルー系統のアサガオは9月が最盛期です。









             レオナルド・ダ・ヴィンチ
                剪定してドライフラワーになります。




黒真珠。この薔薇も剪定してドライフラワーになります。

クロホオズキ。バジル。ゴーヤ。プチトマト・アイコ。



プチトマト・アイコ。



















クロホオズキは午後2時から咲き始めます。


葉を丁寧に摘むことで、新芽がいつも豊に茂る、バジルですが、そろそろ終了します。
白い花がバジルの花。咲き終わると小さな黒いseedが完成します。



第一回目の青トマトのカレーピクルスが、完成しました。
冷蔵庫から出したばかりで、ガラス瓶が曇っています。


第二回目製造。












パプリカセニョリータは肉詰め料理に使います。


普通のパプリカはサラダの彩りに。
完熟のイタリアントマト・ピッコラルージュは、最後の収穫になります。豊穣の夏も終わり、秋の実りはまた別の花や果物の季節になります。



9月20日。
ユリノキ発見。
秋が来ている。

青い木の実が落下するのは、まだまだ先。













2017年9月7日木曜日

(思い出の小箱)と(秋の手紙)


(思い出の小箱)
夏は思い出の小箱の中に仕舞われていく、
小箱と、仕舞う、を大急ぎで製作していると、
秋が空から降りてくる。







クロホオズキ
たくさん咲いてくれた夏。
どんどんseedになって、スケルトンの種子袋から種が零れていきます。

芙蓉の花と、まだまだ元気なアサガオ。

   
春にたくさん咲いてくれたビオラ・ブルーが発芽して、新しく咲き始めました。

夏は、終わっていくのですが、seedはたくましくて、
スリムネギを蒔いたプランターに芽を出しました。とても嬉しいです。



丸くて少しごつごつしてるのが、パプリカセニョリータ・青・赤・オレンジ
長いのも小ぶりのパプリカ・赤です。



イタリアントマト・ピッコラルージュ
もう、こんな美しい実は実らないのですが、2017年夏の素晴らしい贈り物に感謝します。
夏の花が色彩を変化させて秋の花になっていきます。
ノリウツギライムライト・アジサイ・ジニア・薔薇
薄紅色のアジサイはとても美しいです。ノリウツギライムライトも白~ミドリ~薄紅色と変化します。


















イタリアントマト・ピッコラルージュ 1房の大きさが、だんだん小さくなっているのは、花が受粉しないものがあるからです。
赤くなくてもこのオレンジ色の状態でもしっかりした甘さがあって美味しいです。
青トマトはピクルスになります。



まだたくさん、実がついていてこれから収穫していきますが、きょうは色づいているものを収穫。しばらくして、青トマトも収穫してピクルス二種類を作ります。狭い庭のトマトなので、上へ伸ばす方法で栽培しています。支柱が足りないのですが、アサガオと上手に絡み合って、台風の強雨にも頑張りました。













                               









赤・オレンジ・ミドリの順に調理法を変えていきます。









朝摘みトマトの新鮮な輝き。


実生のプチトマトはアイコ。
いぜん、植えた跡に今年は1本だけ、実生のトマトが発芽しました。
青いのですが、ピクルスにするために収穫しました。形が細長いです。
アイコの特徴です。




庭の野菜の苗を剪定しつつ、夏を片付けていきます。
秋を迎える準備をするのですが、終わる木と、まだ収穫できる木や枝を残して、最後の収穫をします。水茄子、万願寺唐辛子(=軽井沢ナンバン=)の夏を仕舞っていきます。3本植えて、1本だけ残して、花壇の休みになります。


    
万願寺唐辛子
いろいろな形に育っています。







水茄子。柔らかな茄子です。





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(秋の手紙)
だれが知っているだろう 
此処にはもう私はいない 
其処に居るのは 
私では無い 
わたしを名乗る

(あなた)は、だれ?





「青いドレスのトルソ」と「青いワンピースを来ていた夏の思いで」










インチのサイズの小額。
ピンクの額。白い額。緑の額。





ビオラとパンジーの息の流れ。


パンジー ビオラ ポリアンサの息の流れ



パンジーブルー ビオラブルーのお喋りはかわいい。