2017年11月28日火曜日

(あれは詩だったかもしれないのに)




(あれは詩だったのかもしれないのに…)


叔父は死ぬ前に《日常的絶望は曲がりくねった千曲川(チューマガワ)に呑まれ、
黒いユーモア詩集は、「移ろい行く相のもと」バロックな森の腐葉土に埋められた》と、手紙をよこした。


そんなことをSとも話しながら、枯れ草のうえに舞い落ちた桜の葉っぱの写真を撮る。雑誌の表紙に使うのだ。彼と、ダンテの煉獄の話をする。研究の進み具合も尋ねる。


近いの?あのニュースの場所。
そうね、行ってみたい?
…いや。内容があまりに猟奇的だったからね。
でもね。川端康成の散文を読めば、安部定だって、すごく普通な人だったわけでしょ。
純粋な愛情って、「単純な」って意味ではないもの。
「詩」ってどこに在ったのだと思う?
ねえ、S、黒いユーモア詩集のこと覚えている?
ここはね、叔父の手紙を燃やした場所よ…



あれは「詩」だったのかもしれないのに…
腐葉土の下にいくつもの言葉を埋めた…
叔母の薬指にはめられていた指輪も心臓に埋められていた小さな機械も。

2017年11月19日日曜日

冬の形見

























冬の形見          

小島きみ子



白い
ノートを開く
と、
(そこ)は
叔母の家
あなたがつけた家計簿を読む四十九日

桐の箪笥の前に、明日から使うかのように投げ出されていた
手編みの藤色のショール
東窓から射し込む木漏れ日に
ススキの穂波のように揺れる、モヘア糸
見覚えのある、それは母とお揃いで
長男の妻であった人が、長い冬の陽を受けて
病床で編んで、二人の義妹に贈った形見の品
そして、いままた新しく人は逝いていった

滅んだ肉体が残していった、形見のそれは
水を含めば、再び蘇る種子のような物質の記憶となって
手渡された

病院の駐車場から屋上を見上げた霜月
白いシーツがはためくその前で叔母が手を振っていた
(ここから、見送るから)と、見送られたその夜

叔母は胸の上で家計簿をつけながら旅立った

小島きみ子詩集『その人の唇を襲った火は』










その人の唇を襲った火は                    小島きみ子


Ⅰ 変容と神秘

 真の哲学的な解釈とは、問いの背後にすでに潜んでいるある普遍の意味を探りあてることではなく、突然瞬間的に問いに点火し、同時にそれを食い尽くすことなのである」(「アドルノ」木田元訳)


ⅰ 
黄砂でマグノリアの木が煽られている。営巣まえの鳥の声が、子どもの泣き声のように聞こえる朝だった。なるほど、ちかごろの子どもの名前は、日本語の漢字の意味から離れて、鳥が鳴いているとしか思えないカタカナの音が連なっている。言葉は意味ではなく、「音」への反応だとしたら、いま、この朝の庭に来た鳥の鳴き声を理解できたろうか。鳥族の囀りは、歌のように聞こえるときもあるけれど、雑音でしかないときもある。季節を巡るどんな変容が彼らの羽毛の「内」に神秘を起こさせているのか。


ⅱ 
オリヴィエ・メシアンの「鳥のカタログ」の鳥たちはたとえば、あのポーの詩にあるレイブンも含まれていて、それは既に絶滅したと言われているワタリガラスだった。作曲は一九五六年の九月から十月にかけてで、モデルになった鳥たちは、フランスの各地方に棲息する鳥の名をタイトルにした、十三の曲(全七巻)からなる作品で、連作のような形を取っている。鳥の鳴き声は、「音」そのもので、音の意味を知ることはできない。耳をつんざく音の連なりの「音」の空間に存在するものは何か。鳥の声に点火されたものは、意味ではなく、人間という存在への「反応」だとしたら、この「音」は「誕生するもの」「現象するもの」が過去につけた光の跡であるかもしれない。「鳥のカタログ」が作曲され、ジョルジュ・ブラックが石版画を製作し、サン・ジョン・ペルスが「鳥」の詩を書いたこと。それらを連結したのは「ポエジー」だった。ジョルジュ・ブラックが絵画にとってのポエジーについて述べているそのことは、現代詩というものが詩であるための「言葉の強度」に言い及んでさえいる。ポエジーということばで、何を意味させるか? 『絵画にとってのポエジーとは、ちょうど人間にとっての人生の意味と同じである。私にとっては、それは調和であり関係であり、リズムであり、そして私自身の作品にとってこれが最も重要な点なのだが、変容(メタモルフォーシス)なのである』『一つのかたちが人によって異なった物を意味しようと、同時に多くの物を意味しようと、あるいは全く何物をも表さなかろうと、私には同じことだ。それは時として私が好んで自分の構図に取り入れる一つの出来事、あるいは『韻』の一つにすぎない』(現代世界美術全集15:「変容と神秘(豊住紘一訳)」)


Ⅱ その人の唇を襲った火は


ⅰ ツグミ
目の裏に、工事現場にいたツグミが飛んでいた。午前中は福祉施設の建物の改修工事を見て回り、午後はデスクワークに戻るという日が何ヶ月も続いていた。その朝は、八月十九日という福音書に記された出来事を記憶する日だった。


ⅱ 鳶
東の方角を目指して車を運転していくと、その高台にある養護施設の上空を番の鳶が飛んでいた。朝日がさし始めていた。駐車場に車を止めて歩き始めると、そこでお世話になっている少年がいつの間にか来て、手をつないでいる。その子が「ママ」と言うので「違うよ」と言うと、また「ママ」と言う。負ぶってやると、痩せている子は、背中でカサコソと紙袋みたいな音がする。理事長室まで行き、その子を下ろすと、その人は、生きていたときに一度だけ会ったことがある現在の理事長の父親だった。


ⅲ ルリビタキ
それは青いルリビタキで、ちょっと首を揺らすと、(もはや)と言って、その祠のなかへ入って行った。あの子どもは、出産障害で脳に損傷を受けていた。この児童養護施設で暮らす子は、ほとんどが都会からまるで学童疎開みたいに、村の高台に立つこの場所へやって来たのだ。理事長の父親が、戦時中にこの村へ疎開したことの縁によるのだった。私の背中から飛び降りた小さな老人は、礼拝堂の横に立っているハイマツの陰の中へ入っていくところだった。


ⅳ ヒヨドリ
遠くから見るとヒヨドリの冠羽のようなヘアスタイルの少年が、ポピーの花咲く丘を上っていくところだった。丘の上では涼しげにポプラの葉が鳴っていた。私よりも背の高くなった彼は(あなたの結婚は間違いでした)と言うのだった。あまりの驚きで立ち尽くす私を置いて、少年はひとりで丘を下りて行ってしまった。


ⅴ ハシブトガラス
ポピーレッドの丘を下る私を、ハシブトガラスが見ていた。神はなぜ処女であったマリアを選んだのか。人であれば必ず死すべき運命が待っている。死すべき存在としてマリアの胎内に創造され、ゴルゴタの丘で磔刑にされたイエス。ひとりの神の子を、そのときまで守り抜いたマリアとヨゼフ。はたしてイエスとは誰の子であったのだろう。彼が死の変容を遂げてから現在まで、ひとびとは彼の何に触れえたのだろうか。

ⅵ 白鷺
(歩きませんか)と声をかけてきたその人は、養護施設の生活指導員だった。牛舎を抜けて、川に沿って歩くことにした。鳥が飛んでいた。鷺だった。白い羽がまぶしかった。白い光は、悲しみの象徴であったのかと思うと、光輝く栄光というもののほんとうの姿が見えたように思えるのだった。


ⅶ キレンジャク
小鳥が飛んでくる。瀕死の子どもを助けようとして、鳥の羽毛が空を覆い尽くしている。時間が戻っていく。少年が生まれなかったところまで。変容(Transfiguration of Jesus)とはなにか。イエスは、山上でモーゼ、エリヤと共に、彼がエルサレムで遂げようとする最後のことについて話し合ったとされる。彼らの目の前でイエスの姿が変わり、衣は白く輝き、光につつまれた。


ⅷ その人の唇を襲った火は
(鳥のカタログ)の鳥たちだった。目を閉じることもできずに眠る人の唇は乾き、声は失われ、流動する意識と心臓の音だけがその人の耳に響いていた。失われた声が響かせる無意味の意味。それは「鳥」に点火された衝撃であり、神経難病で声を失った人が、唇に紙を貼って、鳥の声でピーピーと鳴くとき、一つの音が一つの音節であって、その意味にたどり着く苦悩の長さは、人間の言葉を回復する言語訓練であり「韻」であった。その人の唇を襲った火は、十三種類の鳥の鳴き声。人語を失った人の、鳥の嘆き。唇ではなく、喉で鳴らす声の痣だった。言葉よ、存在せよと。