1.無意識と詩の関係
現在の日本におけるシュルレアリスム表現の言葉の使われ方は、「既存の状態を超越している」というような意味で「シュル」と用いられることが多いと思います。シュルレアリスムは、フロイトの精神分析を導入していることにより、無意識における心象風景を捉えるところに重きを置いているため、一見すると現実離れしている様に見られるのです。シュルレアリスムの意味は、日本語では「超現実主義」です。「現実を超えた現実」で、現実が強化された現実と考えます。
詩の創造という行為は、時間を扱うのではなく、言語空間を「世界」として差し出す行為であろうと考えています。詩はあらゆる現実の幻想を追って「見つけようのないもの」を探求する「世界」なのです。シュルレアリスムの名称は一九一七年、アポリネールが、自作の戯曲の装置を担当したパブロ・ピカソの舞台美術を指して言ったことに由来するのですが、一九二四年、アンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム第一宣言』において、精神分析的な考察を加えた「夢の全能性への信頼に基づく」芸術の総称へと採用し、以後も指導的役割を演じました。「現実」とはどこに在るのでしょうか。「現実は記憶の中に作られる」というマルセル・プルーストの提言を思い起してみてください。記憶の場所は「いま・ここ=Here and Now」という生きた現在のこの「現実の場所」に在るのだと思うのです。無意識の底へ鎮められた「記憶」は「いま・ここ=Here and Now」という空間の身体に喚起されてくるのです。芸術が創造されるこの場所は、また「無意識の意識への転移」が行為される空間です。
無意識と「詩」とはどのような関わりがあるのでしょう。無意識の底は「主体」的なものと「客体」的なものとが出会う場所で、「自己」と「他者」を媒介するものと、人類学者・レヴィ=ストロースは考えていました。ラングとは、それぞれの文化に内在する言語の体系ですが、この「無意識」を「ラング」とおきかえても良いのです。無意識的幻想が機能していて、覚醒したままで「夢」を見させている、そこは、言葉の表現は違いますが、オリジン=原初なるものであり、究極のリアル=真理の場所であり、精神分析家ジャック・ラカンの言葉では「現実界」、哲学者カントの言葉では「物自体」です。
「夢」については、レム睡眠は真の意味では睡眠ではなく、覚醒しているが麻痺した幻覚を体験している状態であり、覚醒と睡眠の本質的な相違点は、意識があるかどうかということです。睡眠中に見る夢のうち、自分で夢であると自覚しながら見ている夢のことです。前頭葉が半覚醒状態のために起こると考えられ、「明晰夢」の内容は見ている本人がある程度コントロールできるとされています。「夢」という睡眠における詩の言葉をどのような方向で読み取るか、その方向づけをしておこうと思います。
まず、「REM(レム)睡眠の発見」の著者・ウィリアム・C・デメント(William C Dement)によると、「人間は、睡眠期間中律動的に交代で出現する、REM(レム)睡眠と NREM(ノンレムnon
REM)二種類の睡眠を経験している。眠りは意識の無いNREMの状態で、REM睡眠は真の意味では睡眠ではなく、覚醒しているが麻痺した幻覚を体験している状態をいう。(翻訳・大熊輝雄)」覚醒と睡眠の本質的な相違点は意識があるかどうかということです。深い眠りはNREMの段階が下降していくことであるということです。
2.「いま・ここ」から
知覚的現実と、具体的現実の現在に生きることは、同時に過去と未来に生きることなしにはありえないし、この場所における生こそが、芸術創造の「虚妄の生」であり、ポール・ヴァレリーが「第四の生」と呼んだものであるだろうし、この「虚妄の生」を生きることが、詩のヴィジョンが到達しようとする「無」ではなかったか。それは、インド仏教の「空(くう)」に到達する過程であり、歴史上の人物ナザレのイエス・キリストの「愛」と釈尊の「一切皆苦」の愛の相違を知る過程でもあると思う。
自分の皮膚や内臓が感じる熱さ寒さなどの感触や、脳が捉える映像や文献から得る知識が統合されて、手が自動的に文字を書いていく。そんなもう一つの第三の「彼」の存在が詩の高みに連れ去ってくれる至福が訪れるでしょうか。夢のなかで出会っている数々の映像と言葉。それが現実のなかで出会うことは異常な体験にほかならない。「語の現前」、という哲学的な言葉があるけれども、画家にとっては「画=語」であるだろうし、この「現われ=現象」はわたしたちが普通では見ることのできない「わたし」を捉えた瞬間だろうと思う。この「瞬間」という「入り口」に向かって、言葉を扱うものは、この身を裂いて侵入していくのだろう。いま見ている言葉を裂いてその輪郭を崩しながら言語のなかへ侵入していく。こちらも人間の輪郭を崩して、言語の輪郭になって言語を騙しながら、言語と合体する。やがてすべてが軌範から開放されて、あらたな「眼」が芽生えているのだろうと思う。