詩誌「エウメニデスⅢ」52号からの転載。
1.高塚謙太郎詩集「Sound & color」(七月堂)
*書くという血が、書くという知を動かす。
詩集タイトルが英語の「Sound & color」であるが、詩集本文は日本語の律動の特徴をよく掴んだ語音のイメージを脳髄に余韻として残すという、現代社会の若い読者の感情や感覚を抱きこむ詩法で編集された、抒情詩集である。裏表紙から始まる目次の次に、本人からの九行のメッセージがある。〈言葉がもつ幾重もの意味の層が常に揺れ続けることで色がひろがり、私たちの脳である種のリズムが生まれてくることも確かで、韻律といった場合、単なる音韻上のリズムをさすわけではなさそうです〉とあり、タイトルは彼の詩の思想〈幾重もの意味の層が常に揺れ続けることで色がひろがり〉を現すに適した英文字と意味なのだろう。
〈脳である種のリズムが生まれる〉も現代詩の技法として今回の詩集は全体的に成功している。それにしても、本文の前の扉には〈やすらいはなや/やすらいはなや〉とある。これは、なんだろう。検索すると、「やすらい祭(やすらいまつり)」は、京都市北区で行われる祭の一つである。
特に、今宮神社で行われる大祭として知られ、踊りを奉納する。桜の花を背景に神前へ向かい、激しく飛び跳ねるように、そしてまた緩やかに、〈「やすらい花や」の声に合わせて踊る。〉とある。これから始まる日本語の平仮名詩四十一篇の前に〈やすらいはなや/やすらいはなや〉と掛け声をかけて始まる詩集。なんとも、古い時代に死んだ人々が飛び跳ねて、こちら側へ蘇ってくるようではないか。
それなのに、表紙画は電車のつり革がぶらさがり、明るい黄土色の日差しが射している。どんな、声が、こちら側へ蘇り、どんな声があちら側へ行こうとしているのか。詩集全体に充ちているのは、日本語の平仮名の柔らかさと、哀しみである。それは、憂愁と述べてもよく、桜の花が散るのを惜しむような、古い時代からの愁いという感情だと思う。この感情表現のあらわれは、最近の旺盛な創作とあらたな探求によって獲得した、現代詩技法であると思う。最近の彼の作品からは、たおやかなエロスが感じられる。これがどこからくるのかというと、ことばと言葉の間に極端な飛躍がないこと。無意識というものの意識上への変換よりも、見えている現実、感じている現実を、文字と音数でここにある確かなリアルを感受させているのだ。漢字ではなく平仮名を多用することで、イメージされる言葉の変換の際におきる、語音のリフレインがある。脳のなかで、漢字というもののイメージ、意味のイメージが何通りかに変換される。その時にひろがる音のこだまがある。日本語は母音が多用される言語で、視覚的には漢字よりも平仮名を用いたほうが文字の数が多いので、言語学での語の音素から喚起されるビジュアルなイメージの広がりがある。今回の詩集に特徴的なのは、作品の終行に愛するものと、さらには自分自身が、この現実界から別離するような哀愁が漂うことだ。それは何故か。
巻頭から二番目の「わたしは本ののどになりたい」は、高塚謙太郎のこの詩集での今日の現代社会での有り様と思想を現して優れている。たとえば〈たくさんの人たちが死んでいる/書いてみてわたしをゆるしてもいいと/かべをみながらいえますか/わたしが人をころすとするなら/ことばがすることなのです/血をながしているのどが/のどそのものとしてうたっていて〉ここにあるのは、限界までの努力をしても報われない閉塞した社会への無力感や、自分はやれるだけのことをやっているのに、人が死んでいるのに、社会人でもあり詩人でもある彼にとって、書いていることの言葉は血で濡れている。この血で濡れた文字を声は話すことができない。血で濡れたのどは、「さようならのように」では、《のど》は、〈わたしはもうさようならをいわない/のどのところでまちあわせをして〉、
終行で〈わたしはさようならののどになる〉となる。
人間は、生まれたからには必ず命の終わりがある。戦争が始まって戦地で命を落とさなくても必ず死ぬ運命にあるのが、人の命というもの。だからこそ、「わたしたちはのびている」では、
〈すこしくちびるをとがらすだけで/あなたはわたしにあたたかい/あたたかい戦争が終わりなく窓からまどへ/つたっていったさきに本がとじられる/もうよむものなどどこにもない/こんな安楽なこともない/こころやすらかにわたしたちは/しあわせにのびおよんでいる気ぶんで/いまあなたからくちびるをはなす)のだろう。〈しあわせにのびおよんでいる気ぶん〉
という感情には、必ずやってくる死の意味に立ったうえでの、生きることをやり過ごす日常の、人間のやるせなさの言葉の芯が現されているし、その奥底に隠されているのは、現実の日本社会への批判があると私は感じる。作品「わたしは本ののどになりたい」で書いているように、〈書くという血〉が、書くという知を動かして、愚かさを〈ころすためにうごく〉という、そんな現代詩を書く詩人でありたいと思う。
2.阿部嘉昭詩集『石のくずれ』(midnight press)
*言葉のかさねで、言葉の人質になる。
フランス装の詩集。文字のポイントが大きくて、漢字が少なくほとんど仮名で表現されている。タイトルと内容が一致して、短い詩で読みやすい。詩集全体の作品が右のページだけで終わる場合が多い。
短いものでは、「かさね」が五行。
〈砂のうえで保護色をえた貝が/海中としてすぐれるように/あおじろくながいおおかみが/月明そのものへ擬態して/とおくおおきくはしるをみた〉書いていることは、全部分かるが、さて〈あおじろくながいおおかみが/月明そのものへ擬態して/とおくおおきくはしるをみた〉は何を意味しているか。しかも、タイトルが「かさね」である。魚ではなくて、〈保護色をえた貝が〉あおじろくながいおおかみに、月明そのものに擬態して、〈とおくおおきくはしるをみた〉という、これなら分かる。「かさね」とは、保護色に擬態した貝が、〈あおじろくながいおおかみが〉と〈月明そのものへ擬態して〉に、二つに「かさね」て、作者は〈とおくおおきくはしるをみた〉のである。このように、短詩の行分けは、注意深くことばをかさねて創作されているので、読み手は十分用心しつつ、さらにつづく言葉の事物の擬態の「かさね」という比喩の技法を楽しんでいきたいと思う。
「望遠」、「ひるのうまい」は六行。ほとんどの作品が、九行から十行で、左へ移っても四行程度。だが、作品数は多くて、一冊の詩集で二百七頁もあり、所収作品は丁度百篇。普通の詩集の倍近いのではと思う。帯文の〈ことばから/ことばへと/影なきもの/たちが渡る〉とは、そうか、なるほど、そういうことか、と思う。
人の暮らしは、さまざまな事物の影を追い、言葉という輪郭の無い影無きものに追われている。しかるに、聖書の戒めの言葉という意味での「箴言」みたいにも感じる。シビアな本当の知性が、日常の言葉で書かれていて、よく行き届いた観察者の目を感じる。短い言葉の裏側に知の経験を感じる。ゆるぎない思考の目が事物を見ている。
七十二頁の「人質」という作品を読んだ。右の頁十行に左へ一行の十一行詩。
じぶんを質屋にいれるのもたいそうなので/じぶんを人質にしてまどわくにおくと/きのうからわいている情がきょうもわき/さかいめのおおくでまざっているとおもった/まとまらないおとこのからだをもつものが/すごくはずかしくなったときすでに/崇高なおんながじぶんにあらわれていて/それがかたちへわかれて均されたのだから/すみながらかすんだまどのおくゆきにも/または借人のあの世までのびる罫にも/しよくぶつのまがりはつづられていった
詩集を何度も読んでは閉じて、また開いて読んでみるのは、読んだ言葉がふいにまたどこかから現われて、言葉は絡めとられたのか、人質にされたのか、その頁に奇妙な情がわき、座机や、キッチンや、出窓に花と一緒に置いたり、どこからでも読んで見て、言葉の蔭がほんとうに言葉の輪郭を顕しているのかを見ていたのだった。
3.野村喜和夫選詩集『閏秒のなかで、ふたりで』(ふらんす堂)
*青くるしいほどの詩への欲望が、性を放つ。
野村喜和夫さんの既刊詩集二十冊の詩集および未刊詩篇から二十一編を選んだ《エロい詩集》です。〈エロ〉という言葉の意味は、エロティシズムのなかのエロスやエロティックも含んでの《エロい》ということだと思うのですが、それは先に述べてあとから理由を付け加えますが詩句にあるように、「青くるしいほどの詩への欲望が、性を放つ」ことです。ショッキングピンクの表紙を捲ると、薄衣の向こうに透けて開かれた白い肌の浮世絵の性愛図。詩篇が右頁で終わると、左頁はこの性愛図の接吻の、着物の裾が捲れた臀部から大腿の辺り、男の首筋などの部分が天描画のようにアップされているという趣向が施されていて、言葉と言葉の隙間を《エロ》く埋めてくれる。印刷の文字も表紙と同じショッキングピンクである。
六十六頁,に「ヒメのヒーメン」という名作があります。野村さんの人間というものへの、賢さと愚かさの両方を尊重する自由でやわらかな言語の感性を堪能していきます。このやわらかな強靭さこそが、言語が持っている弱い愛の強さなのです。国を造った父と母の交わりのように、ひとはひとを愛して、生きていきたいのです。「閏秒のなかで、」妄想と幻想を見つつ、詩の言葉が織り成す「エロ」の極みへと入っていくことにします。
詩集は、ⅰからⅲのカテゴリに分かれていて、時系列による編集ではなくて、あとがきで述べているように「われわれの性が個を越え時空を越えて広がってゆくような流れ」となっている。扉の詩は、「ある日、突然」という作品で、〈妊婦とセックス、して、/みたい、ぼくは、すてきだろうなあ、〉を読んで「どうしてそうなの?」と心の中でききかえすと、〈ぼくは、ペニスを入れて、/胎児のすぐそばに、/マイクみたいに近づけて、近づけて、/そっと採集するんだ、/「超人の」、/大きすぎる頭から洩れる、/親殺しのささめきを、〉となって終わる。見事だな、〈親殺しのささめきを、〉て、と思う。現実に親を殺せずに、作品世界のなかで親を殺すことは、グレートマザーの残滓を殺すことで、《我》とか《自己》というものを越えていくのだが、〈ぼくは、ペニスを入れて、〉〈「超人の」、/大きすぎる頭から洩れる、/親殺しのささめきを、〉採集するというのだ。私を越えていく〈胎児〉のささめきを。
「閏秒のなかで、ふたりで」は、ⅰ「播くんじゃない、突き刺せ」の始めにあります。〈閏秒〉とは〈もぐりこんで見ると/思いのほか深い/いや長いというべきか〉の夜〈あらゆる地表は女である/あらゆる女は言語である〉そして「緋の迷宮」という少し長い七頁の作品がある。授業中に教室から出て行ってしまった女学生を〈私〉は教壇を降りて追いかけていくうちに〈奇怪な街に入り込んでしまったらしい〉のである。奇怪な街のショップのドアからドアへ女学生を追いつつ、やがて最後のドアの前の壁の隙間のスリットの襖の隙間から洩れている光の向こうを覗き見ると、〈裸で絡み合った男女の姿が浮かびあがっている〉のである。一度は目を背けた襖の隙間に目をやると絡み合っている女は教え子の女学生で、男はなんと自分自身であったというゾッとする事の顛末であるが、覗いている襖が倒れて、ショーの混乱の中へなだれこむのである。〈恋人のほうへ、そのからだのどこか一部にでもさわろうと、むなしくもけんめいに手をそよがせつづけた〉のである。人間の弱さ愚かさ、可愛らしさが、〈むなしくもけんめいに手をそよがせつづけた〉のであった。右頁で終わるこの詩篇の左頁は、微笑ましい事に浮世絵の性愛図の接吻の場面である。
ⅰのなかに、「性の顛末」がある。この作品は、エロい選詩集の中でも特に優れて、性は生を越えて、詩人というものの言葉への欲望が生まれる場所が、〈うすく血に覆われて〉彼女の股から詩人の欲望を生まれさせる。
〈鉄塔と私、/そう、私は鉄塔を見上げる〉で始まる。〈そして私は、うかつにもそこに接続され、/痙攣し、涙し、あるいは性を放ったのにちがいなく、/いいかえるなら、そのようにしてひとの登記が、/その街並みに、ひとの登記が、/播くんじゃない、突き刺せ、と、/それだけだ、みて何になろう、ごちゃごちゃと住宅がり、/Carrefourがあり、すすけた性具店があり、廃レストランがあって、/そのガラスは砕け散り、コンクリートの裂け目からは、/枯れたぺんぺん草が笑いけける、//のにちがいなく、かたわらで、/たしかにきみの股から、何かが産声を上げた、/その何かは、うすく血の繭に覆われて、/かわるがわる、黙示の黒い昆虫であり、井戸の夢の騒擾であり、/なかんずく、青くるしいほどの詩への欲望であった、/播くんじゃない、突き刺せ〉と。ひととして社会に存在するのは、戸籍に登記されているからで、登記されていなかったら、ああ恐ろしいですね、牛小屋、豚小屋、犬小屋の獣であったかもしれません。性を放つとは、生を越えて、〈股から、何かが産声を上げた〉ことなのです。それを〈たしかにきみの股から、何かが産声を上げた〉を見て、〈鉄塔と私、/そう、私は鉄塔を見上げる、〉の最終行は「性の顛末」の〈性の顛末として、〉詩人というものの尽きない〈青くるしいほどの詩への欲望〉を感じるのです。
ⅲ.では、すでに「ピクン」と〈もう存在しないが〉、「女の巣」は、(この生の有限性のうちに)、〈眼のマトリックスたちよ、〉と呼びかける。「見てよこの痕跡」と。女の巣の「見てよこの痕跡」、とは、ⅰ.での(ある日、突然)で、〈ぼくは、ペニスを入れて、〉〈「超人の」、/大きすぎる頭から洩れる、/親殺しのささめきを、〉採集するというのだ。私を越えていく〈胎児〉のささめきを。『野村喜和夫選詩集 閏秒のなかで、二人で』は、《超自我》へ接近する、詩の言葉のペニスのマイクで採集された極みの《エロい詩集》でありました。
4.北原千代詩集『真珠川』(思潮社)
*余韻を残して交信は返信される。
北原千代さんの『真珠川 Barroco』という詩集は、ⅰとⅱに分かれていて、それぞれに十四篇ずつで二十八篇の作品を所収する。『真珠川 Barroco』というタイトルが示すように、川の水が詩の言葉から溢れてくる。ポルトガル語でのbarrocoは、(ゆがんだ真珠)。〈バロック〉という語の語源は、はっきりしていないが、ポルトガル語の「バロコ Barroco」が語源であろうと言うことはかなり確実で、意味的にはポルトガルの真珠商人たちが大型の「いびつな真珠」の符丁として用いていた言葉だったという説が定説になっている。それで、この詩集での真珠は、もしかして、いびつな淡水真珠を意味しているのではないかと思う。〈小川〉と〈水〉に注目して読むことは、創作の秘密に迫るかどうかはわからないが、言葉を追ってみることにする。
巻頭に「燃え上がる樹のように」という作品がある。若い日の恋愛の時間を駆けあがるには、現在に突出してくる、空間の時間の感受性が必要で、それを彼女は〈若鹿〉と書いたのだろうと思う。〈若鹿〉という言葉が連想させるものは、しなやかな肢体を持つ〈若鹿〉である。そうした恋愛への情熱が伝わってくるのですが、残酷にもかれに〈けれどあなたは/小川のほとりにわたしを置き去りにした/ここにいて涼しげな水でありなさい〉と言われるのだ。〈涼しげな水〉とは、どのような水だろうか。記憶は傷ましい。
あなたをふかくおもうわたしはもえあがる樹のよう//たったいちどだけ若鹿のようにまっすぐな 姿勢で/ほとばしるようにあなたに告げた/こころは結び目をこえ 歓びといたみをこえていると/けれどあなたは/小川のほとりにわたしを置き去りにした/ここにいて涼しげな水でありなさい
二番目に配された作品「ソナチネの川」の一行目に〈わたしは小川を持っている〉とある。この〈小川〉は〈小川のほとりにわたしを置き去りにした〉というその〈小川〉を指しているのだろう。中心の部分を引用してみる。彼女の〈小川〉の輪郭とこの作品集での〈小川〉による書記のスタイルが伝わってくると思う。いつでも〈若鹿〉の感受性を呼び出せる〈涼しげな水〉への変身である。
すべらかに漱がれた/小石の からだには/母の胎に死んだわたしの兄弟のように/貌のない表情をかがやかせ/水中のちいさな生きものたちと遊ぶ/それから わたしの/あしゆびをくすぐる//渡るのをやめたひとが 夕暮れの/川底に寝かされている/それをみるのはおそろしい/すずしい骨の成分が 透けている//おやすみなさい わたしの小川
カテゴリのⅰ.では、「天宮」「母魚・子魚」「轟」の作品に彼女の〈わたしの小川〉の〈涼しげな水〉が、貌の無い表情で、彼女の裡の水を熱く流れさせる。そしてⅱ.では、清明な〈小川〉と〈水〉のほとばしるエロスを受け取ることになる。六十四頁の「卵(らん)の結晶」は、性に目覚めていく少女時代の邂逅なのだが、それは巻頭の詩にみる時間の流れのなかに生きている〈若鹿〉が居る。この作品については、背景の情景が古い時代の古い記憶のように見えるが、それは彼女が実際に経験した時間というよりも、彼女が少女時代に物語などで知ったある種の「憧れの時間」がここに在るのではないか、というように感じる。石鹸の匂いへの感受性には郷愁がある。私も古いのかもしれない。
夏休がはじまり 従姉とわたしは いちめんのユリが咲/く高原のコテッジに数日のあいだ宿泊した/従姉が肩を寄せてきたとき 石鹸の匂いのあいまから お/となの骨がみえた
六十八頁に、「骨埋づみ」があります。ここに描かれている詩の風景は、〈動物の葬られる森脇に〉という現実なのか、詩語なのか、そうした場所が森のなかにあることに驚かされた。ここにも彼女の〈小川〉がある。「卵(らん)の結晶」を経て、少女から大人になっていった時間への追憶。
動物の葬られる森脇に 水の切れはしの/ような小川がひとすじ流れていた/村の学校にプールはなくて 堰きとめられた/五メートルばかりが わたしたちの夏だった(中間省略)わたしたちはまだ誰も海を知らなかった/ほんとうに雨が来た わたしたちは重たい髪をゆすって どうぶつの葬られる森脇の 小川の淵を歩いて帰った おねえさんの肩甲骨/がおおきくなって その夏の堰は崩された
〈五メートルばかりが わたしたちの夏だった〉は、実感があって、最終連では、〈わたしたちはまだ誰も海を知らなかった〉し、〈わたしたちは重たい髪をゆすって〉という、短いそのフレーズにさえ、〈小川〉の時間が蘇ってきて、現実の北原千代を知らないのに、同じ時間の上を彼女が生きた時間に重ねている。〈その夏の堰は崩された〉のだ。
北原千代という詩人が完成していく詩集最後の作品「交信」の三行目に〈鳴らされたくて くちをひらいているわたしのおるがん〉がある。〈涼しげな水〉の〈小川〉である彼女の裡の無言の音が、いよいよ鳴り響くときがきたのだ。〈肉桂をゆさぶり 髪をふりほどく/耳の奥が澄み 泉の水位が知らされる/掬う指がこぼしてきた/水高をはかるのがこわくて傾いてみる胸の淵から/満ちていたときより濃く 水の匂いがする〉そして〈あなたのことばを浴びると/ひとりでにオルガンは鳴るのです〉余韻を残して交信は返信される。