2019年7月30日火曜日

現代詩文庫230『広瀬大志 詩集』(思潮社)

現代詩文庫230『広瀬大志 詩集』(思潮社)
 *最高の悪は最高の善の一端である。(ニーチェ「ツァラトゥストラ」より)


広瀬大志さんに、2016724のエウメニデス朗読座談会で、連載のミステリ作品の背景を語っていただいた。父上が亡くなったとき、初めてその書斎に入って鉱物の蒐集品を知ったということでした。なんだかゾクッとした。ミステリとは、知らない領地に足を踏み込む事です。そのミステリの世界に棲んでいる複雑な恐怖の実体は、精神の内的世界と肉体の外にあるのです。詩集の帯に書かれた〈詩のモダンホラー〉を探索してみたいと思います。表紙には、「死んでるのか? 」「それ以上よ」とあり、現代という時代の極悪非情そのままにカッコよすぎると思います。

作品「メルトダウン紀」の一行目に〈体質は肉体の外にある〉とあります。強い断定の一行目。さらに〈風景は必ず/詩に忘却される思考を/たどって死ぬ〉と。これは長い詩です、詩行をたどると、おそらく〈結果の原因は/過去にはない〉のであって、〈たどって死ぬ〉しかありません。強い死が迫ってくるのです。「メルトダウン紀」の恐怖に耐えられますか? この詩は、2011311以前の2003年に発行された詩集『髑髏譜』に所収されているのです。

「実体」という作品では、〈ただ現象だけが救済されていくだろう〉と一行目から、どうだ、これでもかと情け容赦なく、恐怖に追い込んでいく言葉の速さ。〈精神よ、空爆は人を殺す〉人間は情けない弱いものですから、「参りました」と言いたくなってしまうところですが、〈生きて行く者と死に行く者の表情を輝かせよ。/記憶は実体を観測する装置であり、それを見つけるこ/とができる。/言葉の図形は、此岸にとどまり続けるだろう。/「私という」実体のために。〉この詩句には非情な現代においてなお、強靭な生きることへの意思の喚起があります。

死んでいる以上にしたたかに、「アニーバーサリー」では、〈善か悪かは悪が決める〉のです。なぜなら《最高の悪は最高の善の一端である。(ニーチェ「ツァラトゥストラ」より)》と、私もまた考えるからです。
最後に、散文の『ぬきてらしる』は傑作だと思う。コクゾウムシの歴史をこのように研究し、探求した人はいないだろう。人間という種族の精神に飛び移った〈ぬきてらしる〉の内的環境世界が、広瀬大志という詩人の人間の口を借りて述べられたのです。


2019年7月9日火曜日

中本道代詩集『接吻』(思潮社)

中本道代詩集『接吻』(思潮社)
 ベージュ色の表紙に金色の文字で「接吻」。肌のうえに押し当てられた金色の唇のように。そして、このタイトル詩は、詩集の真ん中どころの54P.にある。十行の短い詩行を二頁に分けている。

「眠りの中で仰向けたかわいい顔に口づける/何度も何度も//めざめて/それはだれだったのか/愛しい気持ちだけが残っている//赤い花の中心から蘂が出て/花粉にまみれて/濡れてさえいて/そんな一番やさしいものが/太古の野原に咲き出していた」。 
中本道代さんの、いちばんやさしいものが、詩集のまんなかどころに、そっと挟んであった。現代詩を読む読み方は、それぞれ、さまざまであるが、現実の記憶が蘇るのも悪くはないだろうと思う。巻頭の作品「帰郷者」は、この作品を持って、著者は過去の記憶の場所を遡っていくのだろうと思う。遡るだけではなくて、現在の現実のあたらしい言葉で、過去を現実の「いま・ここ」の場所に引き寄せる。その作業を通して、作品は、さらに遠くへ行こうとする。言葉に「誘われる」とは、そういうことだ。
第一連。
「山裾の傾斜地はきちんと区分けされていたのに/田畑の境目があいまいに崩れ/崖の道は尖りを失い/なだれ始めている/夜には猪が押し寄せてくる//」。
 帰郷者とは、彼女自身なのか、だれなのか。十一行目に、「冷えていく血族の魔」という、冷たい強い言葉がある。さらに、第三連目の十七行、十八行の二行は魅惑的だ。

「ぶどうの果汁を叔父と/風の吹く野原で飲んだ//」第四連の三行。「遠い日/谷川の石の下に埋めたノートから/小さな秘密の文字の群れは流れ果てていったか」こうして、彼女は、冷えていく血族の魔の、ぶどうの果汁を叔父と風の吹く野原で飲んだ、遠い日へと帰郷して行くのだ。
戦慄する、空が避けて土地の小学校や、記憶することができない山の裏側の丘陵へと。作品「昼顔」の27P.は、僕たちは 僕は  もう 過ぎたのか  の四行が言葉の列を乱して下方に下がる。吐息のように、喘ぎのように。
「真昼の冷たい空に向かって 僕たちは  僕は  もう  過ぎたのか」と、異国の夜から夜へ渡り、「眠りの中で仰向けたかわいい顔に口づける/何度も何度も」
めざめてそれはだれだったのか、帰郷者というそれ自身の唇でしかないだろうと思う。記憶は、過去の現実へは還っては行かない。創作の作品の中でしか、出会うことの叶わない、私という他者。その過去の記憶の中へ、接吻するのだ。