2019年7月9日火曜日

中本道代詩集『接吻』(思潮社)

中本道代詩集『接吻』(思潮社)
 ベージュ色の表紙に金色の文字で「接吻」。肌のうえに押し当てられた金色の唇のように。そして、このタイトル詩は、詩集の真ん中どころの54P.にある。十行の短い詩行を二頁に分けている。

「眠りの中で仰向けたかわいい顔に口づける/何度も何度も//めざめて/それはだれだったのか/愛しい気持ちだけが残っている//赤い花の中心から蘂が出て/花粉にまみれて/濡れてさえいて/そんな一番やさしいものが/太古の野原に咲き出していた」。 
中本道代さんの、いちばんやさしいものが、詩集のまんなかどころに、そっと挟んであった。現代詩を読む読み方は、それぞれ、さまざまであるが、現実の記憶が蘇るのも悪くはないだろうと思う。巻頭の作品「帰郷者」は、この作品を持って、著者は過去の記憶の場所を遡っていくのだろうと思う。遡るだけではなくて、現在の現実のあたらしい言葉で、過去を現実の「いま・ここ」の場所に引き寄せる。その作業を通して、作品は、さらに遠くへ行こうとする。言葉に「誘われる」とは、そういうことだ。
第一連。
「山裾の傾斜地はきちんと区分けされていたのに/田畑の境目があいまいに崩れ/崖の道は尖りを失い/なだれ始めている/夜には猪が押し寄せてくる//」。
 帰郷者とは、彼女自身なのか、だれなのか。十一行目に、「冷えていく血族の魔」という、冷たい強い言葉がある。さらに、第三連目の十七行、十八行の二行は魅惑的だ。

「ぶどうの果汁を叔父と/風の吹く野原で飲んだ//」第四連の三行。「遠い日/谷川の石の下に埋めたノートから/小さな秘密の文字の群れは流れ果てていったか」こうして、彼女は、冷えていく血族の魔の、ぶどうの果汁を叔父と風の吹く野原で飲んだ、遠い日へと帰郷して行くのだ。
戦慄する、空が避けて土地の小学校や、記憶することができない山の裏側の丘陵へと。作品「昼顔」の27P.は、僕たちは 僕は  もう 過ぎたのか  の四行が言葉の列を乱して下方に下がる。吐息のように、喘ぎのように。
「真昼の冷たい空に向かって 僕たちは  僕は  もう  過ぎたのか」と、異国の夜から夜へ渡り、「眠りの中で仰向けたかわいい顔に口づける/何度も何度も」
めざめてそれはだれだったのか、帰郷者というそれ自身の唇でしかないだろうと思う。記憶は、過去の現実へは還っては行かない。創作の作品の中でしか、出会うことの叶わない、私という他者。その過去の記憶の中へ、接吻するのだ。




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