子どもたちが小さかったころ、上の子が7歳くらいで下の子が保育園へ行っていたころ、とにかくこの二人を早く寝かしつけないと自分の勉強どころではなくて、空想御伽噺を作っては寝かしつけた。タイトルは「カボチャンの大冒険」。スイカなのだけれど、名前はカボチャンで、宇宙で生まれたカボチャンが何故か日本の山の谷から転がり落ちてきてさまざまな地球的経験をして宇宙へ帰るというお話。子どもたちには結構受けて、話しているうちに自分も一緒に寝てしまうこともしばしばだった。
言葉のセンスというものが、どのように作られるかは、幼児教育に多いに係ってくるものです。朝はこの二人にご飯を食べさせながら、「じゃ、お母さんはお仕事に行ってきますからね。」だった。そんなで、二人は、これから地球における「カボチャンの大冒険」が始まるのだ。
さて、「詩人」とはどういう人をいうのでしょう。
そして「詩」とはどういうものでしょうか。言語活動とはどのようなことをいうのでしょうか。どのような言語を選び取って社会活動をしていくか、どのような色彩言語を身に纏って自分をデザインしていくか、言語の輪郭とは人間の衷なる輪郭にほかならない。言語の外に立って言語の内を覗くとは、言語の無意識を意識に反転させることで、この現代の社会環境の社会言語の背景を表層の実相を纏いながら、深層のペルソナとどのようにレンジさせていくか。その言語の力を技として身につけたものが「詩人」と呼ばれるものに成っていくのだろう。詩人とは、言語の巨人になることだ。と、思うのです。自分ではとうていなれない大きな虚像を言っておきましょう。
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