2021年8月25日水曜日
大阪の詩人・今野和代氏のFB.投稿記事転載しました。
小島きみ子詩集『楽園のふたり』|
対峙してくる世界をとらえ、そのざわめきを、怒りを、問いを、歓喜を、くきやかなメロディーラインにして放ってる。限りなく透きとおっていくシンフォニー !
小島きみ子第5詩集『楽園のふたり』を今、読了。虚空と地上。沈黙と囁き。抱擁と喪失。色彩と陰影。邂逅と別れ。戦略と無垢。・・・それら極みから極みへの限りない往還が、伸びやかな空中ブランコの軌跡になって、私の前に広がっていく。
メジロのチュルチュルを、綱渡りする夢遊病者の喘ぎを、ゼラニウムが果てていくサヨナラの合図を、黒い蝉の嘆きの羽音を、遠い物語の水音を、聴くことのできる、何と研ぎ澄まされた柔らかな耳。
それぞれ固有のつましい暮らしの呼吸を終えて、いつか死んでしまう私。わたしたち。薔薇も蝉も蟻もハナミズキもキジバトも・・。父。母。夫。子供たち。恋人や弟や兄や妹や友たちの真あたらしい足音。別れ。怒り。嘆きやおののき。吐息。
単独者の通奏低音のような、自由な優しい魂の鼓動が、わたしの胸にも柔らかく響いて来ています。
2021年8月23日月曜日
詩集『楽園のふたり』柴田望(詩誌「フラジャイル」発行人) 批評文 転載しました。
柴田望
最近、YouTubeなどで「ツインレイ」という言葉をよく見かけます。都市伝説?のようなもの、「自分の魂の片割れ」という意味だそうで、サイレント期間と呼ばれる理不尽な一時的別離を経験したり、再会し統合(と呼ぶ)することで魂を成長させる、お互いに唯一の存在とのことです。身近な人との関りで、ある日ふとした瞬間に、一瞬にして蘇らせる前世の記憶……。
W・B・イェイツは結ばれることのなかった生涯の恋人モード・ゴンを、詩(『葦間の風』「エイ、心の薔薇を語る」など)の中で薔薇に喩えています。イェイツにとって「この世」で生きる目的は、過去世で関りのあった上述の「ツインレイ」のような、無二の存在と巡り会う、薔薇を探す旅でした。
小島きみ子さんの新詩集『楽園のふたり』を拝読させて戴き、第Ⅰ章に収められた「あなた」へ向けて、「あなた」について書かれた絶唱ともいえる作品群の行間から、今は語られない、たくさんの思い出の会話が交響曲のように聴こえてくるようです。「(あなた)と僕の内部にはいつも(交響詩)が存在する」(「(交響詩)のように」)、作品「(声の影が、)」は、此の世とあの世の声が平行して、一篇の詩の中で、一人の詩人の中で二人の詩人が、即興のインタープレイを展開しているような壮絶な緊張感です。前頁「カロライナジャスミンの繁みで」の最終連でオフィーリアの川の流れがえがかれていますが、水のイメージ、生と死の狭間から過去世の記憶が噴き出し、ある時止まる。「はなれて響き会う ⅷ噴水の時間が止まった時間のこと」は、「あっ という瞬間の」「水の煌めき」、詩句の響きから得られるビジョンが本当に美しく、この世のものとは思えないほどです。自然の理(ことわり)として諭される「苦しみのあとの安らぎのように」、命をもった詩の言葉に、深い安らぎを覚えています。
第Ⅱ章は、神話や聖書、哲学、現代の様々な問題など、詩の言語が豊かな学びへ読者を誘い、楽しませます。最後の詩、臨死体験のような「黄泉の國は此の世と瓜二つなのです」を読み、この詩集のⅠ章とⅡ章は、どちらかが黄泉の國であり、どちらかが此の世なのだろうか、それぞれに両方の要素があるのだろうかなど、空と海の境と通路を探すような、永久の謎に導かれ、あとがきの「詩の言葉にして振り返れば、苦しみすらも安らぎのように語ることができます。」という御言葉に、幸せと不幸、苦しみと安らぎ、希望と絶望、無理に二極化する必要はないのだと、気づかされ励まされるような深い希望を戴いております。貴重な学びの機会を賜り、心より感謝申し上げます。
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