2026年5月23日土曜日
ポーとルドンの暗黒のファンタジー
「ポーとルドンの暗黒のファンタジー」
初出詩誌「エウメニデス」第38号。
はじめに
詩の言葉の発見とは、「Light beyond the visible(見えるものを越えた光)」についての激越なる精神の危機的パッションを経験することだ。というエッセイをエウメニデス三十四号で書きました。「見えるものを超えた光」とはルドンの「目に見えるものの論理を可能な限り目に見えないものに役立たせる」にも触れているのです。
ルドンを見る前に、ポーにも触れておきたいと思います。日常のなかに「怪奇」や「幻想」というファンタジーを感じるとき、わたしたちの生活はより深い人間の生と死の真実を見る態度に変化しているのだと思います。「美しい」と思うものは、絶えず心に、音や形や色彩を、言葉のように働きかけてきていると思います。それに触れると、ほんとうの私が現われるように、喜びが溢れるように知の興奮が訪れます。それは隠されていた「美」というものが現われてくるからです。十九世紀後半のヨーロッパ思想界全体に根本的影響を与えたものは、古代ギリシア語に由来する「黒い」という意味を持つ「憂鬱(メランコリー)」ではなかったかと思うのです。
1・ポーの時代とゴシック・ロマンス
二〇〇九年はアメリカの文豪エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe)の生誕二百年でした。ポーは、ボストン市生まれの小説家で詩人です。「黄金虫」「黒猫」「モルグ街の殺人」の探偵物や怪奇恐怖などの短編小説群と「The Raven」や、「Anabel Lee」に代表される詩群があります。一八〇九年にポーが誕生したのと同じ年にはダーウィンが生まれています。ポーがフランスの詩人ボードレールに、版画家ルドンに与えた影響、それの翻訳が日本の朔太郎に与えた影響などを考えながら、ルドンの「黒い絵」を見ると、「美」というものの本質が人間の流動する意識の深遠に重なって、「夢のなかで夢を見たこと」が、新たな経験であったように、人の想像する意識に力を与えるように思うのです。経験とは、知の変状であると思う所以です。
フランスの画家ポール・ギュスターヴ・ドレは、ポーのThe Raven(大鴉)の挿絵を描いています。そして、ルドンは、「エドガー・ポーに」という版画集を製作しています。ポーの「大鴉」のどこが好きかと訊かれれば、「Nevermore」というところ、としか応えようがない。主人公の心理に沿って読者も「暗黒」にどんどんひきこまれていくのだけれど、「大鴉」を恨んでも、「大鴉」はほかに言葉を知らなかったのだから仕方がない。愛するものが死んだら、だれだって(わたしは朝がくることを 心から願っていた――それというのも、本を読むことでわたしは悲しみを消そうとしたのに、悲しみは消えなかったからだ――その悲しみとはレノーアの逝ったこと――)と、悲嘆にくれるだろう。その心のなかは、「大鴉」の羽のような暗闇だと思う
芥川龍之介に「ポーの片影」という文章があります。それを読むとポーの名前について興味深いことが書かれています。『モ一つ名前についていへば、ヱドガーはいゝが、アランは決して彼が自ら持つてをつたものでないといふことです。つまり、アランだけは全然余計なものだといふことです。(中略)だから、ポー自身は未だ曾て、アラン、ポー等と署名したことはないのです。』とあります。
渋沢龍彦の編集による「暗黒のメルヘン(一九七一年・立風書房)」の澁澤の序文のなかでは「アラン・ポー」と紹介しています。「暗黒のメルヘン」というのは、一九七一年に立風書房から澁澤龍彦の編集で出版された澁澤好みの怪奇と孤独と絶望とグロテスクな美が混在した、黒い布張りの表紙に金色の薔薇の絵が描かれた三〇二Pの本。本人の作品も含めて十六人の作家の短編が収められている。日本人が好きな怪奇と、英米の人が怪奇と感じるものと、どう違うのだろうと思っている。以前から読んできた短編なのだけれど、澁澤編で読むとまた少し違う。変わったところでは日影丈吉の「猫の泉」などはおもしろかった。倉橋由美子の「恋人同士」は、人間の男性と女性、その二人の雌雄の猫同士、猫と飼い主の男性とのリアルなファンタジーが世にも忌まわしく魅力的な「恋人同士」だった。この本の作りは表紙、表紙の裏、扉の絵までが「黒のメルヘン」への目くるめく怪奇への入り口となっている。泉鏡花、坂口安吾、石川淳、江戸川乱歩、小栗虫太郎、大坪砂男などの作品。
さて、ポーの生い立ちは一八一五年、ポーは六歳から十一歳までを養父母のアラン夫妻と共にイギリスで過ごします。ポーはこの時の寄宿舎で暮らした体験をもとに『ウィリアム・ウィルソン』を書いています。ゴシックというという建築様式は、パリのノートルダム大聖堂やランス大聖堂、イギリスではカンタベリー大聖堂やロンドンにあるウエストミンスター寺院がゴシック様式の代表的な建物です。ゴシック小説とは、こうした城や寺院、廃墟などを舞台にしたロマン主義文学の一種であり、科学によって説明の付かない超自然的な現象が描かれる恐怖をテーマにした小説です。「アッシャー家の崩壊」などポーの初期の作品にはゴシックの要素を持った短編が多く存在します。
2.暗黒と言う「憂鬱(メランコリー)」のエクスタシー
ポーやボードレールに傾注していた日本の詩人、萩原朔太郎の「青猫」詩集を読み返しながら、ポーの「リジーア」を読んでいました。リジーアは怪奇小説だと思います。朔太郎の「青猫」詩集は他の詩集と違って、日本語への積極的な詩的挑戦ということよりも、かつての恋人の死と朔太郎の夫人との不和がもたらした、現実からの逃避の時代でした。それは、内部の陶酔を、外部に置き換える「憂鬱(メランコリー)」のエクスタシーであったと思う。朔太郎の「憂鬱(メランコリー)」は、フランス詩の影響を受けていましたが、哲学の方向からあらたな視点として、坂部恵「モデルニテ・バロック――現代精神史序章・(56P)」によればベンヤミンは(一八九二~一九四〇)朔太郎(一八八六~一九四二)と資質や素養の面でとても近いところにあり、朔太郎とベンヤミンの共通の根として、ボードレール(一七五九~一八二七)、が考察されるということです。そして、朔太郎と同時代の日本の哲学者・九鬼周造(一八八八~一九四一)にとってのパリは「ボードレールのパリ」でした。
ポーには有名な『詩の構成の原理』(Philosophy of Composition)があります。この詩の構築の原理は、フランスの詩人ボードレールに多大な影響を与えました。けれども『詩の構成の原理』や方法論だけでポーを読み解こうとするのはつまらないでしょう。ポーの作品そのものは、時代や言語の差異を超えて感性の世界です。また、『ユリイカ』はフンボルトに捧げられた「散文詩」と銘打たれたポー最晩年の詩的宇宙論です。現在の科学的な宇宙論にしても、原理的には物理学とは異質なものです。現在一般に受け入れられているものは、「宇宙原理」と呼ばれているもので、ポーの『ユリイカ』と基本的には同じだからです。現在のそれは「原初の事物の原始の単一のなかに、その後のすべての事物の原因がひそみ、同時に、それらすべての不可避的な消滅の萌芽もひそむ」というものです。(参考文献『ユリイカ』岩波文庫10P)それは『ユリイカ』の序文でポーが述べているように、「一遍のロマンスとして、一遍の詩として」考えるより、「夢見る人たちに」捧げられたものであるからです。
グロテスクはルネッサンス期から使われだした美術用語で後期浪漫主義から現代文学にかけて、最も発展した概念様式です。ポーのグロテスクとアラベスクという視点は、想像力の本質を形作る重要な美的概念であり、強い神話作りへの志向があります。ポーの想像力は、理性とは対立する本能を解放し、現実を破壊することによって夢の世界へ超越しようと企てる。この超越的グロテスクと理性との対立は、ポーの作品「ウィリアム・ウィルスン」にみられるように、ドッペルゲンガーとして現出されている。内面を統一しきれない無意識下の自己が現実となって姿を現わすことへの自己破壊の恐怖が、この作品のテーマです。恐怖も、ポーの想像力のなかでは、美の要素であったのです。この時代、そのことは挑戦であったと思います。なぜなら、恐怖や醜が美の一部分であると認められるようになったのは近代以降であるからです。美の直感的知覚は、「理性的な認識ではなく直感である(カント)」のであり、その快感情によって示されるからです。
3.ルドンの黒い絵とメランコリー
「黒」という色は、「憂鬱質」(メランコリア)という気質になるとされたため、「黒い」を意味する古代ギリシア語の(melas)と「胆汁」を意味する(kholé)を合成した「メランコリア」(憂鬱質)という語が生まれた。
『私の独創性はすべて、目に見えるものの論理を可能な限り目に見えないものに役立たせることによって、ありそうもない存在たちを、本当らしさの法則に従って、人間的に生きさせることにある。/ オディロン・ルドン』
象徴主義の画家の第一人者として、シュルレアリスムと抽象主義への道を準備したボルドー生まれのオディロン・ルドン(Odilon Redon、画家・版画家(1840―1916))は、生後まもなくフランス・ジロンド県のペイルルバードに里子に出されました。ここで十一歳までを過ごすのですが、それはルドンの生まれつきの癲癇という病気に由来するようです。当時のフランスの上流社会では癇癪という病気は、下層階級の遺伝的なものであるとする考えがあって、ルドンの両親はそれを隠したいということがあったのではないかと思われます。生まれて間もなく里子に出すというのは当時のフランスのブルジョワ社会では珍しいことではなかったようです。けれども決して両親の愛情が無かったわけではなく、奇跡が行われた聖地巡礼をしてオディロンの病気回復を祈っているのです。両親と離れて暮らした田舎での少年時代がルドンの幻想の源となったことは確かですが、十一歳のころは癲癇の病気が治まって両親の元へ戻り、学校へ行くようになります。
オディロン・ルドンの本名はベルトラン・ジャン・ルドン。父ベルトラン・ルドンの名をもらい命名されたのですが、母マリーの通称「オディール」に由来する「オディロン」の愛称で呼ばれ、本人も周囲も終生オディロンと呼ぶことになります。病弱で内向的な子どもだったようです。二十歳の頃、植物学者アルマン・クラヴォーと知り合い、顕微鏡下の世界に魅せられるようになる。後にルドンが制作した版画には植物学の影響が見られます。版画集『夢の中で』はクラヴォーに捧げたものです。
ポーのことを調べているときに、ルドンによる『エドガー・ポーに』という版画集があることを知りました。ポーの詩の仏語訳は美術批評家で詩人のボードレール(1821-1867)によってフランスに紹介されました。ボードレールは、『異常な物語』(1856)など、ポーの作品の仏語訳を多数発表しています。ルドンは、『夢の中で』を出版した後に、『エドガー・ポーに』を製作しています。ルドンはボードレールの同時代性の推奨に応えていて天文学的な関心が随所に見られます。
参考文献(①ポオ作・八木敏雄訳「ユリイカ」 ②粟津則雄著・「美術選書 ルドン 生と死の幻想」 ③二〇〇七年「ルドン」展図禄より 山本敦子「ルドンの「黒」と其の時代」) 表示を縮小
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