現在は、モデルニテの喪の時代だと言います。中世ヨーロッパのマニエリスムは、反宗教改革によって閉塞するが、十九世紀末にバロックが、社会と現実へ「芸術」を復帰させ、マニエリスムは再発見されます。
バロックは、一つの時代の終りに立ち会う者が経験する、虚無と絶望の表現形式として、モデルニテと通低する。詩は言葉の根源に還ろうとしています。「実存主義はモデルニテの一様相ということができる」とは、日本の哲学者坂部恵氏の言葉です。
実存主義の第一世代のハイデガー(1889~1976)と同世代に属するのは、ベンヤミン(1892~1940)ですが、近代の抒情詩人・萩原朔太郎(1886(明治19年)- 1942(昭和17年))と資質や素養の面でとても近いところにあり、朔太郎とベンヤミンの共通の根として、フランスの詩人ボードレール(1821-1867)が考察されます。朔太郎の鬱々とした感情の背景を考えるとき、現代の抒情を考える新鮮な視点となると思っています。
わたしの個人的見解として、現在の現代詩は、《メディア・スーツ》を着た肉体感覚の変化がもたらした《超・抒情詩》へ向かっているのだと考えています。日本の抒情詩のサンスは、語の音の存在連関による《性=gender》の表象の擬態として、発話する主体を表現していくのではないでしょうか。社会環境の変化による肉体感覚の変化を伴う人工的自然は、多次元の詩的コスモスを創造していくことを目指すでしょう。これは「超抒情詩」という出来事です。
二〇〇八年六月八日の秋葉原無差別殺傷事件という、テロ(=恐怖)行為も言葉は無力だった。人が段階を追って成長するには、DNAの記憶のほかに、脳が想像するミュトス(物語)が必要なのです。人間の感情の奥底に潜む暴力を伴う恐怖は、「言葉は命」という認識を疎かにしてきた社会言語の弱まり、というように感じます。言葉の霊性は、人間性を回復することで、ありそうもない御伽噺を信じる力を育てることです。詩は、そのありそうもないファンタジーの世界に関わっているのだと思うのです。それは、時間と、時間を超えたものの統合のうちに現在の場所で、言葉との新しい関係を開示することなのではないでしょうか。
「変身につぐ変身という純粋行為」とはヴァレリーが「魂と舞踏(清水徹訳)」のなかで「舞踏」についてソクラテスに規定させた言葉です。この夏、北京オリンピックを見ながら「散文詩」について考えていました。「エウパリノス」のなかで、ソクラテスはかくも言うのです。「魂は、それらの芸術が魂に伝えるこの物質的で純粋な調和に対して、魂がやすやすと生み出す汲みつくしがたいほどの夥しい数の説明を神話で答えるのだ」と。
「現代を表現する詩」とは、めまぐるしい社会環境の変化の中で、「変身につぐ変身という純粋行為」に言葉で触れていくことであるかもしれない、と思うのです。
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