2013年4月22日月曜日

経験とは何か

日本語で表現することは、日本語で現象させることですが、言葉の記号はこの現象を表象させると同時に隠蔽してもいるのです。見て聞いて触れて感じたものは、ほんとうにその現象の輪郭であったのか。実は幻影ではなかったのか。幻影とは真実の姿ではないのか。脳が感じた記憶を語らせたものは、表現ではないのか。
「経験」ということは、どういう方向から、「経験」を知るのか。「詩」の世界ではどのように表現するのか。カントやフッサールの時代の「自然」と現代の「人工的自然」は異なっている。人間は現実に経験しないことも「経験する」世界を持てるようになった。「人工的自然」が人間のそれまでの自然を変革したのだ。それでも以下のことを知っている必要がある。
ア・プリオリ(a priori)とは、(1) 経験に対して、論理的に先立つ認識・概念 (カントの用法)(2) 経験的検証のいらない演繹的命題ア・ポステリオリ(a posteriori)とは、「生得的でない、経験のなかで得られる」「経験的検証のなかで成立する認識・概念」という意味となる。アビダルマ・中観・唯識のモメントから、カントのヘーゲル批判を考えてみます。カント:「悟性の対象は有限で制約されたものであり、理性のそれは無限で制約されぬものである」をヘーゲル:「単に経験にのみ依存する悟性の認識の有限性を主張し、その内容を現象とよんだということは、カント哲学の非常に重要な成果であるけれども、しかしわれわれはこのような消極的な成果に立ち止まってはならない。
と、いうのは、真に無限なるものは有限なるものの単なる彼岸ではなくて、有限なるものを仕揚されたものとして自己のうちに含むものであるからである」と批判する。次に、形式論理学(演繹的論理学)と弁証法論理学の二つの論理の違い。形式論理学では、矛盾は生じてはならないものとされている。だが、弁証法論理学では、矛盾はかならず生じるべきものと考えられている。形式論理学では、論理学の想定している論理の世界=言語の世界において、構成要素の変化が禁止されている。弁証法論理学では、想定している論理の世界において、構成要素の変化が容認されている。思想の発展は、構成要素の量の増大を意味する。だが、一定の情報量の水準においては、命題の真理値は真かぎ偽かのどちらかに特定される。どちらでもよいということはない。ここが重要だと思う。ここで矛盾律の要請がみとめられていなければ、情報量の水準の変化に伴う命題の真理値の変化を確認することはできない。
これは、形式論理学が一つの世界を前提としているのに対して、弁証法論理学は二つ以上の世界を前提としているからである。「唯識」を考える過程において、この二つの論理学の構造の対比は「倶舎論」において整理されていくのです。真理は一つですが、論理学における真理表というものもあるようです。ヘーゲルの思想は「意識の発展、遍歴する魂の歴史であり、精神の(発見の航海)」です。
ブーバーは「我」それ自体というものはありえないというところから出発しました。「我」がないのなら、「我」という存在もありえないというのです。存在するのは根元語の「我-汝」という根本的な関係をあらわす言語概念性だけがあるだけというのです。これが交互性(Wecheselseitgkeit)もしくは相互性(Gegenseitigkeit)とよばれるものです。「何かを経験しつつあるとき、世界には関与していないと知るべきである。経験とはわれわれの内部におこることであって、われわれと世界の「あいだ」におきることとはなっていないからである。」では、どのようにすればこの「あいだ」に入りこみ、世界と向きあうことができるのでしょうか。「私」という「我」の中に「汝」を見出すべきなのです。そのことによって「私」の「我」は「汝」のさまざまなものごとによって成立している光景に出会うでしょう。ですから、「経験」とは「我」から遠ざかることであって、それが了解できれば、「私」の「我」が「汝」からの「遠ざかり」であろうとしたときの「あいだ」に出会うことができるはずなのです。
「私」が「我」と汝に出会うのは、「私」が根元語を「私」の中の「汝」に問うことによって受け取る、人間の輪郭と言語の輪郭が融合する言語の辺縁のようなところから「やってくるもの」つまり「送付されてくるもの」であると思う。裂かれることによって、開かれ溶け合うことによって知る、言語の輪郭です。言葉が生まれる場所に、私のなかの「あなた=汝」は生まれる。それでも、とにかくここには「発話する主体」がある。
 
 

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