これは、『評論集』という『詩集』と受け止めるのでしょうか。
詩誌『ガニメデ』に書かれていたときは、詩としてであったと記憶するので、詩なのだと思う、ということで読んでいこう。感想というものは、なんであろうと、読んだ私の感想に間違いない。つまり、形態がなんであろうと、小笠原鳥類さんの詩の幻想と夢の言葉への感想になる。
26P.からの「ヘッセのヴァイオリンの詩を読み、鳥は木に蝟集する虫を喰う」は、ヘッセの全集が発行されたときに書かれたと記憶する。これを読んで、ヘッセ全集の「詩篇」を注文したと思う。『・・・生物学評論集』とあるので、全篇生物について書かれています。鳥類さんの詩は、意識が意識するものへどんどん飛び移っていくのだと思う。飛び移りながら、人間をいっとき離れて、擬態している。夢と幻想とは、どこが違うかといえば、眠っている脳と目覚めている脳の違いだろうか。彼の夢と幻想のなかでの「飛び移り方」は、ひどくのんきで、陽気な散歩のようにも思える。そうか、そうだったのか、辞典を読みながらの幻想もあって、人は「いかなるときも夢と幻想の生物」なのだわ、と思った。
★ここからの感想は、二回目の記事なので部分的に重複するが仕方が無いのです。
2,009年『エウメニデス』35号の表紙画は小笠原鳥類さん。
2011年はいろいろなことがあった。鳥類さんのご家族も被災されて安否の確認が長くできなかった。詩集発行のこともそんな中で延期されて、今回を迎えたのではないかと思う。違っていたらすみません。生物学評論集なのだから、生物事典を見ることが好きなのだなと思う。生物を見ながら、楽器のことが書かれているのは、彼自身が楽器を演奏するからなのだろう。楽器というものの形状も、海の生物も、彼の目によって憑依する。憑依する目かと思う。そこに留まらず、どんどん意識が流動していくという意味で、つぎつぎと標的に乗り移る、奇天烈な生物の目だと思う。ああ、タイトルが「コマイの干物は宇宙から来た、ああ。」だった。10P.を割いている。最後の「『丸山薫全集』の動物のいる瞬間を集める」の作品が、前半の事典評論とは少し趣が違うなと感じる。21Pもある。丸山薫全集は読んでないが、部分的に知っている詩もある。丸山薫について「詩の、動物の目のような動物の名前と出会おうとする。」で始まる。全集1.と全集2.があることも知った。それから、書き直すことが多いので、全集と他の場所での発表とは違うものもあることも。私もこのごろは、書き直し書き直し、もっとも表現したかった「なまな感情」へといきたいので。丸山薫については、なかなか懇切丁寧な解説で、興味深い。ここでの鳥類さんの目は、憑依しないで落ち着いている。なかなか興味深い、夢と幻想の、生物の目になる流動する意識の表出だった。言葉が生物の形で漂流していた。
この記事を書き終えて、鳥類さんにメールで、このブログ記事の確認をしたのは、ジュリアンポリアンサが咲き零れる日曜日の夜だった。
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