1.市川篤詩集『滅びの風』私家版。
長野県伊那市在住の詩人。市川さんとは、長野県詩人協会の「長野県詩人賞」の選考委員を一緒に2年間務めた。委員のなかで一番若年の私が、選考委員長を務めたが、忌憚のない意見を交し合えた、よい仲間だった。
今回の詩集タイトルの「滅びの風」は、栗本薫が1988年11月に発行した短編集で、栗本のファンである市川篤は、この短編集のイメージを元に詩作して、この詩集をまとめた。社会悪を淡々と書いている。
「フクシマの向こうに」の後半に「恐竜たちには巨大隕石が滅びを与えたが/愚かな人間たちには目には/見えない死が/静かな滅びを連れてくる/のではないか/フクシマの向こうから」
2.若見政宏詩集『汽笛がきこえた街』土曜美術社出版販売
若見さんは、名古屋市在住の方で、現在は廃刊となった渡辺正也氏の「石の詩」会で書いていたと思う。あとがきによると、1960年代の港湾と街を扱った詩集とのこと。後半に「この詩集は手放しの思い出となりえない。当時の課題(戦争の遺産)が今も宿題とし残されている。と述懐するように、66Pの「沈黙」という作品は、港湾労働組合会議のことがテーマになっている。
「感動ではない/拒絶ではない/不可能なのだ」それらの感情のなかに「誠実な沈黙がある」。日本の社会と真正面から向かい合った骨格のしっかりした誠実な詩の言葉がある。
3.魚本藤子詩集『くだものを買いに』土曜美術社出版販売
奥付を見ると、魚本さんは、山口県下関市在住の詩人で、四冊めの詩集になる。「100人の詩人、百冊の詩集」企画本。この方の作品は初めて読むが、「千年樹」の会員。二十五篇の作品を2章に分けて所収する。取扱う題材や物事が、いわゆる日常生活の断片から掬い取られている。けれども、この人の視線は、テーブルから鉛筆が転げ落ちるその下は「断崖絶壁」の異界なのだ。
巻頭から二番めに配された「えんぴつ」も「絶対絶命の危機/風が吹けば落ちてしまう」のだ。2章の初めに「点のようなもの」という作品がある。これは、大きな比喩に充ちていて、実力を感じさせる。表現対象の輪郭をわざと明確にせずに、気配を漂わせて、坂道を往復する。なかなかおもしろく、方法を持っている。
「いくつもの点とすれちがい/少しさざ波を立てながら/日々は過ぎる」と淡々と書きながら、この「点」を散らばせているのだ。
4.中西衛詩集『波濤』竹林館
京都府在住で「PO」の同人。栞分を左子真由美氏が書いているが、あたたかくやさしい。聖母マリアのようだ。人を見つめる、育てるとはこういう眼差しかと学んだ。わたしも「気配」というものを詩の言葉の大切な要素と考えているが、左子真由美さんもそのように考える人だ。帯文から。「静寂の中にかすかな動きを感じとる、それはそこにないものの気配かもしれないし、または、ないように見えて本当は在るものの佇まいかもしれない。」
「古い頭」という作品から。
「とっても軽くて 重い/空気のようで まったく見えない/わたしにとって/なんなのか答えようがない/計器でも計りようがない/近くにあるみたいなんだが/気にしたこともない/おおきすぎるのか/遥かにとおく/春の野原に舞う蝶のように/まぶしいらしい/声かけられても/返答に困る/結構なことでと言うしかない/]
5. 『金堀則夫詩集』新・日本現代詩文庫/土曜美術社出版販売
解説は、一九七九年に書かれた小野十三郎の跋文。その真ん中どころに「金堀則夫は、詩を書くことによって自らを解放する」とある。そうだな、詩を書く事は解放だと思う。現在は21世紀であるけれども、この跋文で書かれていることの状況は、いまも繋がっている「われわれは大阪の辺境に定住しているのである。漂泊者の眼ではなく、定住者の眼を持ち続けて、のしかかる状況をも変えていこう。重い石塊を空中に蹴上げよう。」とある。
また、岡本勝人の解説では、これまでに発行された詩集タイトルの独特な響きについて言及している。「詩人の地名にたいする思いは尋常ではなく、その存在意義と深く結びついている。なぜならば、これらはすべて、まぎれもなく交野という土地の風土と歴史と名にかかわっているからだ」とある。
まったく、そのとおりなので、今回の現代詩文庫から76P.の「制裁」を引用する。
「空爆が/一つの国に降り注ぐ/破壊が破壊をよぶ/人のいのち/鉄の極みは/爆破する//(省略)鉄の破壊が/その破壊を破壊し/また/つぎの武力をつくる/人の刃/人間は まだ/鉄鏃を/うちつづけている//」
長野県でも縄文時代の刀剣が発見されてTV.で見たばかりですが、「鉄」は支配者しか手にすることができなかった。その朝鮮半島から渡った鉄の塊のツルギは、人を怖れさせ、支配する手段に使われた。そのことに、21世紀に至っても、「鉄は武器」。「鉄の破壊が/その破壊を破壊し」続けるのだ。人は人を破壊し続けて、滅んでいくのだろう。いのち、が誕生したその長い時間を遡って滅んでいくのだ。それでいい。
八潮れんさんには、2011年に拙詩集『その人の唇を襲った火は』の出版記念会が杉並区の角川庭園・角川幻戯山房であったとき、初めてお会いした。跋文を書いていただいた野村喜和夫さんの講演のあと、懇親会にまで同行してくれて、いろいろなお話のなかで、フランス語が話せる彼女は、「フランスの男性はすてきですよ」と言って笑ったのが印象深かった。そして、寄寓にも彼女は長野市出身であった。
さて、詩集を読む。フランス語と日本語が、自由に飛び交う。踊っているという感じがする。言葉同士が響きあい踊っている。わたしは、詩を書く初めから詩らしいものを書いてはいなかったので、「詩とはなにか」を知るために、詩人や文芸評論家が書いた「詩論・詩人論」を読んできたように思う。それで、いつも詩集とエッセイ集を同時に発行してきた。つまり、詩とはなにかよりも「言葉とはなにか」のほうに興味があった。それで、詩の言葉について考えてきたので、今回の「八潮れん詩集はおもしろい」と思った。
詩集の扉に「とおく離れていても」とある。この言葉が、複雑な詩集構成のコンポジションと、絡まった糸を解いてゆくだろう。 私のパソコンは、フランス語を入力できないので引用はしないが、ヴェルレエヌやボードレールのフランス詩が原語で書かれている。それらの、阿部良雄など有名な日本語の翻訳詩がある。そして、八潮さんの耳と感受性が聞き分けるフランス語の語音から、imageされた日本語の語音で書かれた八潮れん詩がある。
当然ながら、言葉は、意味のまえに、言語学でいうところの「音素」でできている。言葉の存在を眼の前に取り出して見せることはできないけれど、意味ではなく、言葉の音素によって喚起された感情を表現することはできる。「感じとる」ということは、意味を離れた言葉の、小鳥のさえずりのようなもので、フランス語原詩の日本語訳と、八潮れん音響詩の、この3種類の詩が、同時に「言葉として響きあう」詩集であると思う。縺れあいながら、言葉というものはなんとエロチックなものだろうと感じた。春のやわらかな雨の日曜日だった。(2015/4/5)
詩集の奥付に「本冊には関係者用の特別居そう版がある」と書かれていて、どんな異相版なのだろうかと興味深い。昨年、発行した『永遠の散歩者』英和対照詩集だった。
今回の『思い出せない日の翌日』は、穏やかな日の始まりが、思いもしないドンデン返しに陥るという内容の作品が多いと感じる。穏やかさのドンデン返しは、あるいはこれは、死後の世界ではないかと、思うほどの静寂が漲っている。寂しさといってもよく、現実からやがて来る未来を見通したときに、感じる静けさのように思う。静かな寂しさは失望や絶望が含まれていますが、その感情が書かせるものがあるし、失うということが近づくのは、永遠なのだと気がつくだろう。
18P.に「翌日」という作品がある。
「いつのことか思い出せないが/浅い眠りから目覚めるたびに/ああたかなからだが手に触れた/何層もの夢が入れ替わり//呼吸のリズムが乱れて/深すぎる淵へ落ち込んだ時/目覚まし時計がけたたましく鳴って/もうろうとした自分に追いやられた//気がかりな空模様が予報通りなら/移りゆく天気図のような冷たい雨が/あらゆる生物を濡らすだろう// 何日も混濁し続ける意識の奥で/昨日出会ったカモメが/今日見かけたカモメと同一かどうか//」
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