2016年7月3日日曜日

現代詩文庫223『水田宗子詩集』(思潮社)について

   水田宗子は、尊敬する女性詩人のひとりです。彼女を始めて知ったのは『エドガー・アラン・ポオの世界 罪と夢(1982/南雲堂)』を読んでだった。エドガー・アラン・ポーを新鮮に思った始まり。この本を契機にポーのことを探求して短いエッセイを書いた。
   その次に読んだのは、『鏡の中の錯乱 シルヴィア・プラス詩選・水田宗子訳(1981/静地社)』だった。

 現代詩文庫の帯に、「フェミニズム文学批評の第一人者として」とある。女性学の初めのひとりとして認識しているが、詩を書くものとしての核にあるのは「フェミニズム文学批評の第一人者として」ということなのだろうと思う。

 




 さて、今回の現代詩文庫は、表紙に始まって、表紙裏から扉にかけての詩は、なんて力強いのだろうと思う。その強さは、生命の強さであって、「生む」ということや「有る」ということを、原始の母の感覚で包んでいる。人間は考える葦であるから有るとか、精液が命を芽生えさせるとか、そんなことはどうでもいいことで、生まれたものが有るのだし、生きて成っていくのだし、それだけで在るということは充ちていると、わたしは思う。

「小枝のように真っすぐで細い
/太古のペニスが/想像の小窗を貫くとき/両翼を押しあてて/かがみこんだわたしの脳裡から/何滴の血が/底無しの大地へ滴り落ちたであろうか/やがて季節が変わり/嘴も神話も生まぬ/わたしの暗闇のなかへ/雄鶏の叫びの記憶にかわる/何をむかえ入れるのだろうか」

 この現代詩文庫に所収されている詩は、引用しないが、後半に評論があり、「山姥の夢 序論として」と、作品論・詩人論に「対話 やわらかいフェミニズムへ」で大庭みな子との対論があって、水田はアメリカ文学が好きになったのは「フォークナーからだった」と述べている。近代文学における、作家の自我について、水田が述べているのもとても興味深い。私は彼女の『ヒロインからヒーローへ』を読んでいない。この著書を大庭みな子がたいへん誉めているので、読んでみようと思う。シャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』の批評もきょうみ深かった。


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