2019年8月14日水曜日

ヤリタミサコ『月の背骨/向こう見ずの女のバラッド (らんか社)』について

ヤリタミサコ『月の背骨/向こう見ずの女のバラッド (らんか社)』について
女の声Ⅰ。女の声Ⅱ。月の背骨。初出一覧と注記。


渡辺玄英さんの栞文が、詳細にヤリタミサコさんを語っている。ひとりの異性の詩人の人間性をこれほどに擁護して詩人としての立ち位置を明晰に存在分析できる、信頼感という物を凄いなと思う。ヤリタミサコさんには、歴程のセミナーで出会った。司会をされていた。ゲストだった。朗読は迫力があった。その後の詩集で彼女の繊細さに触れた。今回もまた「向う見ず女」で、「ツノのはえた女」で、「石の女」で。けれども彼女のなかの「女の声Ⅱ」では、32P.の7.「されれる/どうして/される のか/された/どうしてされた のか//する/わたしが する/のではなく」。渡辺玄英さんの栞文にも書かれているが、この詩集は「《フェミニズムとは 「女性」の問題ではなく「人間」の問題だと気づく。」とあります。
気づいて欲しいです。痛く鋭く、気づくことがあったら、「ただいまの装置13」56P.での作品が理解されると思う。58.「他者の記憶 わたしの言葉 聞こえなかった 見た? いえ? 聞こえた? 見えなかった? 覚えている?」。


再び渡辺玄英さんの栞文に戻る。
「そもそも「ただいまの装置」の「ただいま」とはどこに帰るというのだろうか。ただいまと言うからには、〈帰る場所〉が存在するはずなのだ。しかし、わたしたちの世界は不条理で、わたしたちは当初からたくさんのものを奪われ侵されているではないか。「ただいまの装置」一連の詩が、読者の心にリアルに突き刺さってくるのは、帰りたくともその場所がはじめから奪われており、かけがえのないものはすでに失われていることがうかがえるからだ」。
胸が痛むし、絶望的な気持ちにんるけれども、こうして表現したヤリタミサコさんの痛みと私の痛みは違うけれども、痛みのさきには永遠の解放がある。そう思っている。


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