2020年5月11日月曜日

私にとってのボードレールの一行


私にとってのボードレールの一行                 小島きみ子


ボードレールの韻文詩集『悪の華=Les Fleurs du Mal
 巻頭に「読者に」があります。福永武彦訳『世界名詩集13 ボードレール 悪の華』(平凡社 初版版)から、このなかの八行目。


Croyant par de vils pleurs laver toutes nos taches.〉を挙げます。福永武彦の日本語訳では〈一切の穢れも賤しい涙で洗い流せば其れまで、〉とあり、悪名高い「大悪魔トリスメジスト」に魅了された人間の心を言い当てています。もろもろの悪徳も〈賤しい涙で洗い流せば其れまで、〉。恋愛の愛と欲と慈しみの果てにやってくるのは憂愁という感情でした。愚かで罪深い心で充たされている人間くさい人間に『悪の華』は手渡されるのです。




(註)
 
「読者へ」は初版、再版を通じて冒頭に位置し、また一八五五年の原「悪の華」ともいうべき一八篇の詩の一群にあっても冒頭に位置していた。「悪の華」という詩集を貫いている思想を、もっとも端的に表現している作品である。

詩は人間の罪深さについて歌っている。七つの大罪のボードレール的解釈ともいえる。人間が大罪を免れ得ないのは、悪魔トリスメジストが我々を強く操っているからだ。我々は神よりも、悪魔に近いところで生きている。これが終生変わらぬボードレールの信念だった。(トリスメジストはヘルメス・トリスメギストスともいい、錬金術師にして人間の心を罪へと駆り立てるもの、ゲーテのメフィルトフェレスと近縁にある悪魔像である)

しかしてボードレールは人間の罪のうちでも最も深いものは、倦怠 Ennui であるとする。倦怠あるいは憂愁は近代社会フランスを蝕んでいた病であった。それであるからこそ、近代人にとっては国籍を超えて深刻な問題だった。

以後百数十篇の詩の中で繰り広げられるテーマはみな、この倦怠のバリエーションであるともいえる。この詩は、序詩として基層の旋律を奏でているのである。

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