詩
仮装の森へ行こう 全篇
1.
恐るべき虚無と絶望の、新しい芸術の時代が始まるのだ、と言っていた傷痍軍人の叔父が脳に水を溜めたまま絶食をして逝った。移ろいゆく時代に抵抗し続けた人の最後の「下降」だった。そして、薔薇の聖母のように幼子を育てた銃後の未亡人であった叔母も、その日が終わろうとするとき、心臓が止まった。私と従兄は、彼女の内部に繋がっているあらゆるカテーテルを抜くことに同意したのだ。第二次世界大戦の「悲哀」の、なにもかもが、一日のうちに終わった、そして私たちの「喪」が始まった。
2.
夜来の雨に打たれた白萩が一晩で散った朝、何の連絡もなく、一つ前の駅で降りてしまった講師のSを迎えに行きながら、モルト・ウイスキーの樽貯蔵庫を改装したM町の美術館へ、車を走らせていた。こんな日には、(天使の羽が毟られてこぼれてくるような)仮装の森へ行くのがいい。この美術館の
設計は、ジャン・ミシェル・ヴィルモット氏。広島市の平和の門も彼の設計で、《悪魔から世界を守る芸術表現》と言うのをどこかで読んだ。「悪魔から世界を守る芸術表現」と声に出して言ってみた。川沿いに霧が深まってきて、Sとの待ち合わせ場所が見えない。交差点を過ぎた桜並木で亡霊のようなSを発見する。
3.
叔父は死ぬ前に《日常的絶望は曲がりくねった千曲川(チューマガワ)に呑まれ、黒いユーモア詩集は、「移ろい行く相のもと」バロックな森の腐葉土に埋められた》と、手紙をよこした。そんなことをSとも話しながら、枯れ草のうえに舞い落ちた桜の葉っぱの写真を撮る。雑誌の表紙に使うのだ。彼と、ダンテの煉獄の話をする。研究の進み具合も尋ねる。近いの?あのニュースの場所。そうね、行ってみたい?…いや。内容があまりに猟奇的だったからね。でもね。川端康成の散文を読めば、安部定だって、すごく普通な人だったわけでしょ。純粋な愛情って、「単純な」って意味ではないもの。「詩」ってどこに在ったのだと思う?ねえ、S、黒いユーモア詩集のこと覚えている?ここはね、叔父の手紙を燃やした場所よ…あれは「詩」だったのかもしれないのに…腐葉土の下にいくつもの言葉を埋めた…叔母の薬指にはめられていた指輪も心臓に埋められていた小さな機械も。
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