2020年11月24日火曜日

★生きるということ。在るということ。

 

★生きるということ。在るということ。

ギリシャ語の「自然」ピュシス(physis)と、女性という肉体が生み出す「出産」という二つの野生の命をコントロールするもの(being)について、泉井久之助著「ヨーロッパの言語」(岩波新書)を参考に、naturaの語根から自然の意味を考えるのですが、「木々のなかには、人の手による世話を受けなくても、落ちた種子から自発的に芽を吹き、めでたく成長して枝を張り葉を茂らせ、強大な木として聳えるものがある。」ローマの詩人ウェルギリウスはその「農耕の歌」(Gergica,ゲォールギカ)の第2巻に歌っています。 「 なんといっても大地には、  もともとものを生んで成す 力がひそんでいるゆえに、」というのが、その理由であった。というものです。

この理由を述べる原詩に「Quippe solo natura subest.」とある。読み方は「クィッペ・ソ|ロー・ナー|トゥーラ・スブ|エスト」と読む。原句の「ナートゥーラ」(natura)につけた訳語が「ものを生んで成す力」というように比較的長くなっているからである。ラテン語のnaturaは英仏語にはnature、ドイツ語にはNaturの形でそのまま入っている。Naturaは「生成の力」として力動的に解さなくては原句の意味は生きてこない。正しい解釈も現われてこない。ラテン語naturaにおいて語根の役目を果たしているのは、naである。古典期のラテン人はこの語をcuitura(クルトゥーラ)「耕作、教養、文化」(col「耕す」)などの接尾辞―turaによってつくられる一連の名詞とならべて、その構成の様式を一様に考え、又そう感じていた。しかしまだ、このnaはほんとうの語根ではない。私の詩篇「幻影の声」の背景にある論理であります。

社会心理学に精神分析学的考えを取り入れたE.フロムの「生きるということ」(TO HAVE OR TO BE ?・佐野哲郎訳)によると、「あること(being)は、人または物の本質に言及することであって外観に言及しない。動詞としての(ある)の意味はインド=ヨーロッパ語族においては、(ある)語源 (es) によって表現される「存在する。真の現実に見いだされる」ことに言及していく。そして、ラテン語naturaにおいて語根の役目を果たしているのは、naである。古典期のラテン人はこの語をcuitura(クルトゥーラ)「耕作、教養、文化」(col「耕す」)などの接尾辞―turaによってつくられる一連の名詞とならべて、その構成の様式を一様に考え、又そう感じていた。しかしまだ、このnaはほんとうの語根ではない。(泉井久之助著「ヨーロッパの言語」)



「幻影の声」小島きみ子

すずやかなアルトの声が

樹木の名を歌うように呼ぶ

((プラタナス・ポプラ・シャラ・メイプル))

外被に張り巡らされた

Netの波をほどいては絡めとる漣が

声となってわたしを呼ぶ

漂泊する葉脈が共振する夏の音階

あなたを見守っている

あなたを確認する

受精したときからずっと

あなたを見つめてきた

あなたの死へと続くあなたのよろこびを

見つめている

開かれていた本の頁がめくられる

また

ちがう声がする

さらに頁をめくる

そよぐ声

だれ?

ぼくらが読み解くべき文字

ウェルギリウスの「農耕の歌」における「ものを生んで成す力」

natura(ナートゥーラ)の遙かな、声

そう

夏をみつめる文字だね

文字が呼んでいる

beingphysisはつながっている

naturaからnatureへと引き継がれているから

(後半省略)

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