2013年12月6日金曜日

(夢のなかで夢見たものに、)

★洪水企画の池田康さんが発行する「虚(そら)の筏」6号に参加しました。2013年12月の最新の作品です。




(夢のなかで夢見たものに、)
小島きみ子
そして、銀杏の木の下で、
死ぬのには、もってこいの小春日和の日でした。
立冬ですね。
あなたの柔らかな声が、
そのことばが、去りゆく夜のユリの舌であったとは、
やはりあなたは、覚めて、冷めていく冬にふさわしい。
(夢のなかで夢見たものに、)(夢の中で願ったものに、)
私のことばが、追いつかないのです。
木枯らしが吹く前の穏やかな、
土曜日でした。
あなたの、りんりんと響く声を見ていました。
澄んだ空を覆い尽くす金色の漣でした。
愛し続けるというこの烈しいストレスをこえると、
あなたは居るのか居ないのか。
あの雲をこえて、
(ゆふやみは みちたづたづし つきまちて いませわがせこ そのまにもみむ(万葉集712))そんな歌を(夢の中で夢見たのに、)。
(夢の中で願ったのに、)。
(夢の中で夢見たものに、)は。








2013年11月30日土曜日

11月に届いた雑誌と詩集。


11月に届いた雑誌と詩集
前半に届いたものは、facebookで紹介済みです。とりあえず、11月中旬以降に届いた雑誌と詩集です。ご恵送ありがとうございます。無事に届いています。書名の紹介によりお礼といたします。


    雑誌。「折々の no.30.」。広島市の松尾晴明氏が発行されている。いつも送ってくださっている、万亀佳子さんありがとうございます。「連弾」の短い文章を読むのが好きです。2012年・日本現代詩人会の関西大会でお会いした万亀佳子さん。お元気そうでなによりです。

    〈ひとり雑誌〉「KYO峡」。詩と批評の現在へ。北川透氏がひとりで発行する雑誌。購読料の領収書を創刊号のあと送ってくださって、2号がでました。詩・評論・エッセイ・編集後書まで32P.「連載評論第2回。吉本隆明の詩と思想 序章」をこれから読ませていただきます。

    門林岩雄詩集『面影』土曜美術社100人の詩人・100冊の詩集。1934年大阪府生まれの京都在住の方です。日本詩人クラブなどに所属されています。

    伊淵大三郎詩集『宇宙の青いいのちの星』土曜美術社100人の詩人・100冊の詩集。1932年山形県生まれの山形市在住の方です。山形県詩人会を2000年に設立されて、「樹氷」という雑誌を主宰されています。

    『長島三芳詩集』。土曜美術社の新・日本現代詩文庫113.敗戦直後の第2回H氏賞詩集『黒い果実』の詩人。20119月に九三歳で他界されています。かつて、第二次世界大戦のとき一兵士として戦場を知っている詩人でした。1939年の『精鋭部隊』からの詩篇が巻頭におかれて、後半にエッセイも収められています。解説は、平林敏彦・禿慶子の両氏。

    ガニメデ59号。121日発行。定価2100円。後書まで411P.いつもは巻頭にある、たなかあきみつ氏のコンスタンチン・ケドロフの翻訳詩篇が329P.から始まっている。(わたしは静けさに達した・・・・)。良い書き出しだ。こんなことを言っては身も蓋もないが、暫くぶりで本格的な本物の詩人たちの詩を読む。誰が本物かは言いません。今は1229日、そして、武田肇氏の読切り本格ミステリー(そのように書いてあるので)「火曜日のマリア」が387P.から。

    tab.No,40.(編集発行は倉田良成)。興味深い詩人たち12人。送ってくださった平井弘之さんの「丸い鞄と谷津柱」を先ず読んでいます。

    馬車。No,49.女性詩人たちの雑誌で、詩を読みながら、皆さんのご家族のことやご本人のことが、そこはかとなく伝わってくる。親しむ深い雑誌です。ゲストは男性詩人がきていますね。考えてみると、男性だけの同人誌ってないのではないかな?そういう場所へあれば、ゲストで呼んでいただきたいものだと思います(笑)。

    関中子詩集『空の底を歩く人』。土曜美術社100人・100冊の詩集。1947年横浜生まれで、現在も横浜市在住の詩人。日本現代詩人会、日本詩人クラブ、横浜詩人会所属。    あとがきに、「薄い詩集を作ることが願い」とある。後書まで94P.で、28篇の詩を所収する。やわらかさ、おだやかさ、いつくしみ、という言葉が自然と感じとれる詩で、自然体で語りかけてくる。

(僕らは同じ一つの) 


「詩と思想」12月号。53P.掲載作品です。


(僕らは同じ一つの)
                     
小島きみ子



(僕が君のようだったのなら。君が僕のようだったのなら。/僕らは同じ一つの/貿易風の下に立っていたのではなかったか?/僕らは別人同士。)(Paul Celan『ことばの格子』)


そして、すべては白い冬闇のなかへ埋まって無くなっていくのだ。わたしたちは、ツェランの詩句のように(僕らは同じ一つの/貿易風の下に立っていた)のに、どこで間違ってしまったのか。あまりに一つで見分けることができないほどに溶けていた。あなたはわたしに、わたしはあなたに。絶望への意識と感情のうえを通り過ぎて、引き戻されて、また姿を無くして、神を見失ったあのときのようだった。何度でもそれが喜びのように、坂道を下り坂道を上り、野茨が咲き、コスモスが咲き、そしてすべては白い冬闇のなかへ埋まって無くなっていったのだった。


もう、二人の翳が無くなっているのも知らずにいた。いとおしかったあなたは、あまりに、わたしそのものだったから。二人の胸は溶けて重なっていたから。魂そのものになっていたから。さようなら。あの青い月影の伸びているところ。ひと房の髪のように、ひとすじの涙のように、帰っていくしかなかった、葦の原のどこを探しても、あなたは居ないはずなのに。子猫が指を甘く噛むように、あなたは何度も何度もわたしの心を甘く噛んだ。あんなに、近くに居た夏だったのに。二人の翳が無くなっているのも知らずに名前を呼び続けた。あなたは、あまりにもわたしそのものだったから。



もはや、あなたは夕暮れのルビーオレンジの雲に隠れてしまった。僕は手を振っていたのに、どうして手を振ってくれなかったの? だから、戻っては来なかったとでも? 坂道は、小鳥が運んできたアカシアが繁みを作って、あなたの家はまるで大きな塚のようです。わたしは、ここで、待っているからここでこの坂道でこの庭でこの家で。きょうは青い月夜ですから、向こうの宵闇へ行けたら行くのに行くことは叶わない。あなたは夕暮れのルビーオレンジの雲に乗って手を振る。(僕らは同じ一つの)空しさの中へ帰っていくしかなかった。・・・帰っていくしかなかった。空しさの尽きるところまで(僕らは別人同士。)だったから。

2013年11月19日火曜日

「虚(そら)の筏」4号・5号より。

★洪水企画の池田康氏が発行する「虚(そら)の筏」4号・5号に掲載されました、作品「仮面の湖」と「夏よ」を公開します。紙版での発行は4号を「詩と思想」詩誌評で花潜幸氏、5号を「現代詩手帖」詩誌評で瀬崎祐氏に解説をいただきました。ありがとうございました。



仮面の湖(「虚の筏4号」掲載)       

 

 

 

たゆたう湖の聖なる水鏡

剥がれ落ちる表層の上に付加される仮想の仮面をもって

変革していく私という人格の人称

 

空だけが知っている空

私は木に変身することだってできる

 けれど、翻す光自身は

色彩言語の意味を知っているのだろうか

神はほんとうに「光、あれ」と言ったのだろうか

神もまた人のペルソナの下に

その仮面を隠したのではないのか

人とともに在るために

 

木を映す湖の冷ややかな水面には

空の青さも、雲のかたちも、私というものの姿も

私が見ているように彼らに見えているわけではなかったが

彼らのなかに私は混ざっていたし

私は彼らのなかに溶けていた夏よ          

 

 

夏よ(「虚の筏5号」掲載)

 

 

 

夏よ

きみは

いつのまにか過ぎていったね

 

シャラの木の茂みを揺らす風の向こう

橡の木の下のベンチに

オレンジ色の正午の光がきている

プールから上がってきたばかりのきみは

何の躊躇もなく

クローバーの上に寝転ぶ

わたしの足元で

いくつものキスを投げる、きみ

耳の産毛が光っていたね

 

わたしの指にこぼれる

木の葉のざわめきと

腕に這う幾つもの嘆きの舌

それはまるで

すべらかなパスカルの言葉のようだった

(人はきみの自然な文体を見ると、すっかりおどろいて、おおよろこびするのだよ。なぜなら。一人の著者を見るのを期待していたところを。一人の人間を見渡すからさ。)

 

そして

秋の図書館の窓ガラスに

きみのあのヒヤシンスヘアーの翳が映っていた

 

風がひどく高鳴って

ああ、もう、本など読めなくて

目を上げると

ほんとうにもう、きみはいなかった

2013年10月11日金曜日

10月前半の詩誌・詩集

★詩誌・詩集のご恵送ありがとうございます。

●橄欖・第97号(日原正彦さんより)。同人5人の雑誌。奥様を亡くされたあとの日原さんの悲しみや寂しさが伝わってくる。日原さんと同じ東京の同人誌に入っていたことがあった。その時に名古屋で同人会があって、奥様にもお目にかかった。仲良しの二人だった。日原さんが、黙々と詩を書き、詩誌を発行する姿が静かで熱かった。
 

●季刊詩誌阿吽a-hum第9号(たなかあきみつさんより)。創刊号から、たなかあきみつさんが送ってくださっている、表紙画がとても贅沢な雑誌。もちろん内容もたなかさんの翻訳詩や注目の新人詩人たちの興味深い詩作品がズラリ。阿部嘉昭さん、河津聖恵さんの作品も注目ですね。おもしろかったのは、☆松本秀文さんの贋作『世界の構造』です。
 

●阿部嘉昭詩集『ふる雪のむこう(思潮社)』。昨年に続いてのオンデマンド出版の詩集です。オンデマンドに2年続けて挑戦というところにも注目しました。二行聯詩72篇の長篇札幌抒情詩のように感じました。難しい構造ではなくて、言葉使いも極めてシンプルで淡々と札幌生活が綴られていきます。読み終わると雪の寒さがじんわりと滲みてくる静かなたたずまいの白い詩集です。単身赴任ですから静かさの中に、寂しさも感じられます。あらゆる思いや物が、ふる雪に冷やされていくような感覚があります。好きな作品は、最後の「一哀のあと」などでした。

詩・「鳥の領分」   

鳥の領分」から、Lessonです。長篇詩なので、Lessonのみです。
「鳥の領分」         小島きみ子

1 Lesson

 さて、
 一つの方法としてわたしは水底を求めた。水はわたしを引いて道を開けた。Ekstaseだった。何故ならそれは(わたしはわたしじしんからぬけだす)というギリシャ語のekstasisに由来するので。
 淵ではわたしより先に来ていたバロツク的な装いの「方」がいらしたのでフロイト的サイコセラピー的な自己紹介をしなくてはならなかった。(現実の破壊と生の起源とは無への帰還でしたので。)その「方」は(フーン)と言った。閉じていた二枚の頭の翼を広げながらここでの過ごし方として、琴の音が聞こえても上昇してはいけないと念をおされた。それは精霊に恋をすると再びの死を遣りなおさなくてはならないのだという。もはや。外部ではなく世界の内部だった。それを忘れたらわたしは...この世からもあの世からも消えて無くなるのだ。

 それゆえに、
 飛ぶこと飛び上がることを練習させられた。魂の身体からの離れ方。つま先で立って歩けるようになってからは人類であったときの感受性が失せた。飛び上がることは空虚になることだった。肉体に日々課せられる筋肉の痛みは苦しみから苦しみを経てわたしに変容を起こさせ我を忘れさせた。そして一気に何かがわたしに襲いかかり言葉無き叫び声をあげてわたしはあの「方」と踊っていた。
 ペルソナの原型的行為として、
 わたしを覗き込む「貌」があった。(知っちゃいないさ)とその「貌」が言った。とりあえずは形而上学的なパ・ドウ・ドウを遣りぬくことが肝心だった。それから。水はさらに底へとわたしを引き込んで行った。

2013年8月10日土曜日

詩作品   カロライナジャスミンの繁みで           

(詩と思想 詩人集2013 参加作品)
『詩と思想 詩人集2013』は、現代を代表する詩人たち456人による一大アンソロジーです。(2013年8月31日発行。定価5000円+税です。)小島きみ子の作品は、401Pです。
 

詩の言葉で、より多くの人々と3.11以後の日本とその社会を考えながら、危機感を連帯しながらも、希望の光を見出したい。そのためにも、新しい詩への感受性を立ち上げたい、そういう気持ちで書きました。
 





カロライナジャスミンの繁みで           小島きみ子


わたしとあなたは 
一つの文字になって溶ける
善意を解き放つ解放区で 
魂の深みへ舞い落ちるとき


悪魔の蛇は 誰が 卵を生み
誰が それを孵したか
わたしたちは 都市を守るために 
失われた古道を求めて歩いていく


噴水公園の カロライナジャスミンの繁みで
新しい時代の子どもたちが いま 生まれる
なまえのない あなたがたが 瞳をあげて 
水のなかを 駆け抜けていく


文字と声が 降りてくる 金曜日
解放区を歩む 人々の背中に
希望の羽を投げよう
きっと 鐘の鳴る丘の 時計塔の前で


鐘の音に 
誘われて わたしたちは歩む
ギンドロヤナギが白く波打つ 雨の並木道で
愛の あるところに 神ありと声が降りてくる


プラタナスが 風に翻る日
批評のコードとは 
精神の 芯の 危機を知ればこそ
滅びの 陰影を 写し取ることだ


オフィーリアのように 
歌いながら 踊りながら
柳の小枝に花冠を掛けて 
川を流れていくばかり 川を流れていくばかり

2013年7月21日日曜日

7月前半の詩誌の紹介

詩誌のご恵送ありがとうございます。7月前半は少し体調を崩してしまって、読んで書いてブログに纏めるという作業ができませんでした。7月前半の詩誌をセレクトして、4誌について感想を述べつつ紹介をします。



1.黒崎立体さんの個人詩誌「終わりのはじまり」。これは表現の発表媒体がセブンイレブンの「ネットプリント」です。プリントできる日に外出できなかったので、ご本から送っていただいて手許にあります。PC.からファイルを登録すると、ファイルに「予約番号」がつけられ、この番号を店内にあるコピー機に入力するとファイルをプリントアウトできるというもの。初めて接する仕組みです。それで、作品ですが、痛々しいと感じる部分が「詩になっている」とすれば、詩人の感情や感性は、極めて病的な危機的なものの上に存在するのか、などと思う。精神の危機的状況を創造することは、詩に限らず文学作品には必要な事と思ってはいる。「とぶ」という作品のなかで(水が、不足するとささくれが できます。)というフレーズがある。この(ささくれ)が、彼女を詩人にしている。作品は、小学校低学年と思われる少女が「おしっこ」を教室でもらしてしまったときのことを書いている。着替えを持ってきた母に「帰ろう」と繰り返される声が、大人になった今も、何かの疵がぱっくり開くように繰り返される。この痛みは、「ふれるものをうつくしく見るとき、」へ、と変換されていく。それが現在の彼女の立ち位置だろうと思う。
★ここにある「痛み」は、実はとても大人の感覚なのです。だからこそ、現在の彼女が「ふれるものを」詩にすることができるのです。それで、この痛みは、「サクラコいずビューテイフルと愉快な仲間たち7号の小林坩堝さんの作品「砂漠」の2に似ているように思う。坩堝さんの作品は、けがをして血を流しているのに「保健室」へ行かないでいて結局、家へ帰るのだが、これも子どもの強情やいじっぱりではなくて、「デリケートな」感性があるのです。子どもの悲しみを、理解するとは、「子どもという小さな人」を尊重することだと二人の詩を読んで思ったのです。



2.詩誌「ひょうたん50(2013・7・16発行) 」 長田典子さんのプリシラ・ベッカーの翻訳詩と自作詩をまず読む。自作詩「空は細長く」というタイトルが生まれ育った村暮らしの幼年時代へ遡る梯子段みたいで素敵だ。少女の感性がまた凄い。「こんなにきれいなものをみつけたよ!」と両手いっぱいに乗せて寝起きの祖母に見せたものが何と「これが山羊のうんこだなんて」だったのだ。最終連が感傷的ではなくて、実に爽やかだ。それは、「朝露に濡れた叢の中に光輝く黒いもの」が〈きれい〉という価値が彼女のなかで少しも揺らいでいないからだ。引用する。「あのころ/空は細長く/幼かったわたしは/友だちと遊びすぎて遅くなると/覆いかぶさってくる漆黒の森の真上に開いた/藍色に曲がりくねる空をなぞるように見上げながら//」


 3.高塚健太郎さんからお送りいただいた詩誌「サクラコいずビューテイフルと愉快な仲間たち7(2013・6・30発行)」 より。高塚健太郎、小林坩堝さんの作品を紹介します。
高塚健太郎さんの「memories」は8つの散文詩を、あなたとの春の夜の夢という序文で書きだしていく。高塚さんの詩で時々感じるのは、女性の動きを繊細に見ているという感じを感じさせる。最初の「肺姉妹」で「息の揺れは、その美しさの妹となる」で、全ては「息」が流れていく。以前、別の詩篇で「いきすだま」という言葉が出てきたが、「息」が描かれるとき、霊気なようなものがこちらに流れてくる。最後の「ブラジリア」の「永い世代の後に革命が起こっても、それらの、花園、血液の季節、嵐が丘、という名だけは残される」が妙に生臭く記憶に残ったのは、ここで「血」が扱われているからだろう。息と血の流れが、こちらがわで書いている詩人と女性(と)の息で語られるという、春の夜の夢八夜。
 次に、ヒラッと捲ったら「あたしのこと、愛してる?」「愛してるよ、もちろん」そして男女は性交した。//誰だろうと思ったら坩堝さんの「砂漠」という作品だった。この「砂漠」は#1?#5まであるのだけれど、坩堝さんはとてもおもしろくて個性的だと思う。ここでも、知っているとか知らないとかの経験の知を超えて、子どもの心を大人の眼差しで知っている。自分のなかの子どもの心を遡って書いてはいない。子どものときから、大人の心を持っていたのかもしれない。#2が好きだった。


4.1971年7月20日創刊の詩誌「孔雀船」82号。

 巻頭は海埜今日子さんの「うつつゆめ」。ますます自由で、ひらがな文字に託したたおやかな感情は「そらゆくゆめの、なんて、しじまよ」夏の夜の夢よ。と思う。


  「児童文学とポエジー」の連載で『「夕鶴」と〈罪と罰〉』を藤田晴央さんが、亡くなられた奥様と木下順二の「夕鶴」のつうのことに絡めて書いておられます。奥様は中学三年生のときに「つう」を演じているとのことでした。「見るなのタブー」とは、世界各地の神話や民話に見られるモチーフの一つ...で、何かをしている所を「見てはいけない」とタブーが課せられたにも拘らず、それを見てしまったために悲劇が訪れるというものです。または決して見てはいけないと言われた物を見てしまったために恐ろしい目に遭うという類型パターンを持ちます。「見るなの禁止」とも言います。民話の類型としては禁室型(きんしつがた)とも言います。藤田さんの考察は、「夕鶴」における「見るなのタブー」は、与ひょうに下った〈罪と罰〉という見解でした。

  文屋順さんの「内なるものに/」は、とてもナイーブな作品でした。 ご自身の「内なるもの」と「失われた人たちの鎮魂」への衷なる思いが重なっていると思いました。
 
 この雑誌で楽しみなのは、小柳玲子さんの「詩人の散歩道」。今回は「エドゥアール・マネを巡って」。マネの弟と結婚したベルト・モリゾは私もファン。小柳さんが5P.の文章のなかで、最後にこのモリゾに触れている。モリゾは、19世紀印象派の女性画家。「すみれのブーケをつけたベルト・モリゾ(1872年)」は、優雅で優しくて、ただそれだけではない知性の眼をした肖像画です。そして、モリゾの絵は、画布に置かれた絵具の色彩が対象のそのものの存在感を現しているといつも思う。彼女の絵で好きなのは、ブージヴァルの庭のウジェーヌ・マネと娘(田舎にて) (Eugène Manet et sa fille au jardin) 1881年)
パリ郊外セーヌ河沿いのブージヴァルのプランセス通り4番地に借りた別荘の庭で、街の模型で遊ぶ娘ジュリーと、それを見守る夫ウジェーヌ・マネの姿が描かれている。愛する家族の姿を愛をこめて描くことができて、それが見る人に喜びを与えることができるなんて、芸術にとって幸福な事だと思う。
 

 

2013年7月12日金曜日

ブルーベリーの実が熟すころ






cellの外は、台風の風に煽られた時間が、吹き飛ばされながら、野原の樹木に巻きつこうとしている。 桜の花が咲いて、しだれ柳の芽が吹いて、ヒマワリが太陽の方向をグルグルと回ってゆく。夏の盛りだっただろうか。青いコットンのブラウスを着た女性が小川を飛び越えて、野原のクヌギの木の下へ行こうとしている。あの女性はたぶん、私だったと思う。

         
彼女は昨夜、子どもを産んだばかりで八時間の安静時間が過ぎたので、ゆっくりと素足をベッドの下におろしてみる。ベビーベッドでは、彼女の長男が親指をしゃぶりながら眠っている。壁には祝福の黄色のドライフラワーが飾ってある。東の窓は幸運がやってくる場所だ。

きれいなドライフラワーたち。覚えておくのよ、坊や。あなたはわたしたちの愛だけから生まれたピュアな子ども。あなたの誕生を祝福するためにこの壁は黄色のバラでママが作ったのよ。

彼女は、部屋の中をゆっくりと歩いてこれからの生活に不必要な思い出を忘れてゆく。そのたびにどんどんスリムになって腹部から大腿部にかけての妊娠線の跡さえも消えた。シャワーを浴びながら自分のからだを丁寧に調べる。

どこも傷んでいない?

ええ、だいじょうぶそうよ。うまくいったわ。そうね。うまくやったわね。これからどうする?きまっているわ。子どもを育てるのよ。そう、それがいいわ。私も経験したのよ。子どもを育てるってとてもステキなことだったわ。よろこびと悲しみとスリルに満ちていて。緊張と憂鬱と倦怠と、はげしいフラストレーションの毎日。それは失望と希望の谷と丘を経験することだった。あなたの種子がどんな未来を持って生まれてきたかによって異なるとは思うけれど。多分あなたは、テンションの高い瞬間を経験するわ。そしてそれが何度も繰り返される。生命が危機的状況のとき、私たちは単体で卵を産むことができる。このcellで生まれたこと自体が、すでに、この子の運命を決定的なものにしてはいるけれど。一度、破壊された後の世界に生まれたということは、使命(ミッション)のほうから、この子の人生に問いかけてくるのだから。大丈夫。生きていける。私が守ってあげる。あなたたちを殺して食べようとする動物はここにはいないわ。

彼女はゆっくりとベッドに戻る。

まだ、少し足がひきつれるわね。羊水のゆれる音が聞こえなくなったのは、少し寂しいけれど。からだはかるくなったし、また、もとのように活動的になれる。私のなかに別の人格がいなくなった奇妙な爽快感。これってなんだろう。私から続いている肉の塊が私の外に出て、私以外の生命として存在するなんて。彼は私であったのに、今は彼でしかない。

坊や。何か喋ってごらん。だれにも遠慮はいらないから。 (本来、子どもは生まれたときから言葉を話すことができる。それは音声ではなくタッチで始まる。ママとベビーが指と指を重ねて話すのだ。右手と左手のすべての指のタッチで始まる。もし、それができない状況下であれば、目を見つめればいい。)

ママ、ぼくはだれの子どもなの?

私と私のママの子どもよ。それと忘れてしまった思い出。心配しないで。私たちはいつもあなたを見守っているわ。ここでは、みんなそうやってピュアな種子として生まれ続けるの。死も新しい種子を誕生させる通過儀礼の意味があるわ。

ママたちの子ども?
そうよ。安心した?
安心したよ。ここで生まれて良かったよ。ぼくもきっとうまくやれる。ぼくの未来には、ママの忘れた思い出が少しだけ含まれているようだ。ぼくは水の中で息をすることができる。鳥と空を飛ぶことも。ああ、そしてこれはぼくの過去?ぼくは落ち葉のように枯れて朽ち果て土の下に埋もれる。どういうことなんだ?ぼくの土の上にママが見えるよ。ああ、ママがぼくのうえに倒れる。緑の木?ぼくは木のなかにいる。木の枝の上にも。ぼくは飛んでいく。だれ?ぼくを草の上に倒すのは。ぼくを水のなかへ連れて行くのは。ママ、これがママの思い出なの?ママ!

ぼくは遠くへは行かない。ぼくは仮想と呼ばれたcellの窓から出て行き、無常の記憶の現実のドアへ戻ってくる。ぼくはぼくの望みのように生きて終わる。きっと戻ってくるよ。ママのそばへ。しずかにそっとブルーベリーの実が熟すころに。ママ、ぼくは行かなくちゃ。野原のクヌギの木の下で、ぼくを待っている人がいるんだ。ぼくが生まれる前からぼくに与えられていた使命だから。ぼくの生まれて来た意味がそこから始まるんだ。ぼくの未来のすべて。ぼくがママの長男であったことの使命だ。ここを出て行くということが。この黄色のバラの窓はひとつのcellなんだ。ぼくたちは固有の環境だけれど、連鎖している。さよなら。ママ、また会えるよ。この季節、ブルーベリーの季節に必ず戻って来るよ。

彼女の長男は東の窓から飛び立ち、水の中に魚の影を映し、再び雲の上にたち、鳥の形の声で鳴き、クヌギの木の下で一人の女性と出会った。彼らは懐かしい記憶に木の葉のように体を揺すった。二人はもはや、自分がだれであるのかさえも忘れた。今、二つの魂がひとつのものになろうしていた。(やがて、そのときがみちた)彼らは枯れて朽ち果て、土の中に埋もれ、一粒の種子を残した。  高原から運ばれて来る真っ青な空の深い吐息に乗って、季節の小鳥たちが集まって来る。ブルーベリーの実が熟したのだ! cellが一斉に開かれている。

2013年7月11日木曜日

葦の荒地における読書ノート


『神の仮面 西洋神話の構造(上)(下)』 J.キャンベル著。山室静訳。(青土社)

  「葦の荒地における読書ノート」を読んでいると、2012年の夏はたいへんな日々であったことがしのばれます。39度の熱を出して市立病院の緊急外来へ続けて2日も通院したということ。途切れた文章でしたが、紛失したフォルダから救出したばかりなのです。なぜ、このノートが「葦の荒地」なのかというと、本屋へ本を買いに行く裏道が「葦の荒地」なのです。背丈を超える原野が、街中にあるということの奇異な風景を、楽しんでいたのですが、とうとう買い手がついて、葦は刈り取られ、火が放たれて、新しいマンションが建ったという、どこの街でもあるごく普通の出来事がここでもあったのです。そんな夏の読書でした。山室静(1906年(明治39年)12月15日 - 2000年(平成12年)3月23日)先生は詩人・文芸評論家・翻訳家であり、北欧文学の研究者で、トーベヤンソンの「ムーミン」を翻訳して日本に紹介されました。山室先生は長野県佐久市に縁があり、私は、先生の名前を冠した「第19回・山室静佐久文化賞」を2002年に受賞しました。山室先生の広範囲のお仕事を学ぶことは至難のことですが、2012年から少しずつお仕事の後を追っています。この大著を読み通すことも発熱の原因でした。2013年の夏に、リライトすることも夏の因果は巡るということでしょうか。



1)『ヨブ記』が示すもの
東洋と西洋の神話と祭式の境界はイランの台地である。東には、インドと極東との二つの精神的地域があり、西にはヨーロッパとレバント(小アジアの地中海沿岸地帯をさす)がある。東洋を通じて、存在の究極の根拠は思考、想像、定義を超えるという観念が優勢である。定義づけることができないのだ。そこで、神、人間或いは自然が善い、正しい、慈悲深い、或いは親切だと論じることは、問題に届かないのである。人は同様の適当さ、或いは不当さで、悪、不正、無慈悲さ、或いは悪意をもつものと論じえたろうから。すべてこのような神人同性的な叙述は絶対的に合理的な考察の彼方にある実際のエニグマ(謎)を遮閉するか仮面をかぶせるかするのだ。しかもこの見地によると、まさしくそのエニグマが、われわれ各人の、またあらゆる事物の存在の究極の根底なのである。かくて、東洋神話の最高の目的は、その神々やそれと結びついた祭式のどれをも実体的なものとして確立することではなく、それらを通してその彼方に行く経験、内在的でもあり超越的でもあり、しかもそのどちらでもなく、ないでもない、かの存在通の存在との同一性を提示することなのだ。『知るとは知ることではなく、知らないことが知ること(インドのケーナ・ウパニシャッド2章3節)『おお、なんじ、行ける者よ、なんじは行けるなり、彼方の岸に行ける者よ、彼方の岸から船出せる者よ、悟り!ようこそ!(般若波羅蜜多心経)』神話的思想と想像の西の系列では、人間だけが内部に向かって、ただ彼自身の被造物としての魂の経験をすることができるのだ。『ヨブ記』が示すように、彼はおのれが神の荘厳を見るところのものを前にして、自己の人間的判断を放棄するかもしれない。「見よ、わたしはまことに卑しい者です。あなたに何を答えられましょう?(ヨブ記40章2)」と。或いは他方で、彼はギリシャ人がするように神々の人格を審くかもしれない。*発達と伝播の新石器時代時代村落の段階において、あらゆる神話と礼拝の中心の姿は、生命の母で養育者で、また再生のための死者の受け取り手なる、物惜しみしない大地母神であった。彼女の礼拝の最初期(レバントでは紀元前7500年から3500年頃)では、このような母神は多くの人類学者が想像するごとく、ただ地方的な豊穣の女守護者とかんがえられたのかもしれない。青銅時代が週末に向かうにつれて、古い宇宙観と母神の神話は急激に変形されて説明しなおされて、おおまかにいえば抑圧されさえした。突然に侵入してきた父権的な戦士の部族によって。*母神:イヴ:皮を脱いで若さを取り戻す蛇の不思議な能力は、そのために世界を通じて生まれ変わりの神秘の師匠たる性格を得た。その天における徴が、満ちては欠け、その蔭を脱いではまた成長する月なのだ。月は生命を創造する子宮のリズムの、それと共にまた、それを通して存在が来たり去ったりする時間の主でまた尺度であり、誕生と同様にまた死の神秘の主なのである。蛇は死の果実のようにぶらさがる。




2)善と悪
近東の早期の神話組織では、後の聖書の厳格な父権的組織と対照的に、神聖は男性の姿に劣らず、女性の姿で表現されることができ、資格づける姿そのものは、究極は無限定な、あらゆる名と形を越えてしかも内在的な、原理の単なる仮面にすぎぬことを認識する。知恵(悟り)の実と不死の生命の実。つねに死にゆき、つねに復活したシュメルの神。月がその影をぬけだし、蛇がその皮を脱ぎ捨てるように、死んで宇宙の大母神の彼女の許に帰ることで、その神は再生する。ブッダの教義と伝説では、死からの解放の観念は1つの新しい心理学的説明を受けた。エデンの園では、主なる神はアダムが善悪を知る知恵の木の実を食べたと知ったときは蛇を呪い、天使に告げた。「見よ、人は善と悪を知ってわれらの一人のようになった。だから、いま、彼が手を伸ばして、またもや生命の木の実をとり、それを食べて永遠に生きることのないように」と。
「隣人を愛し、敵を憎め」マタイ伝5章43?48・敵を愛し迫害するもののために祈れ。このようにすれば、あなたは天にいます父の子となるであろう。キリスト教神話の起源はペルシャの影響による旧約聖書の思想からの発展として説明できるように見えるかもしれない。愛と、恐らくは特にユダヤ人という代わりの人類の観念の強調を除いて。


「神の似姿」として。
160P。もし「神の似姿」として作られたアダムとイヴが一緒に現れたのならその時は神は単に男性ではなく、二重性を超えた両性具有者だったはずだ。その場合はなぜ神は男性形で礼拝されるのと同様に本来は女性として礼拝されてはならなかったか。

2013年6月25日火曜日

エル・グレコとマニエリスムの美


 

 私の好きな画家にエル・グレコがいます。きょうは、エル・グレコとマニエリスムの美について紹介をしたいと思います。

 

 マニエリスムは、「窒息しかかっていたルネッサンスの古典回帰に、新しい命を与えた」のです。ミケランジェロや、ラファエロの後期の作品の中にも、既にマニエリスムを思わせる技法がみられます。三大巨匠の手によって、完成の域に達していたルネッサンス芸術に、新たな可能性を見出そうと、試行錯誤の末の賜物としてのあり方が、マニエリスムでした。画家の主観によって引き伸ばされた人体、炎の光のように揺らめく非物質的な空間は、劇的な緊張感を演出し、見る者の内面を上方へ、上方へ、つまり天へと引き上げようとするかのようです。

  

 グレコはエーゲ海に浮かぶクレタ島が、生まれ故郷でした。トレドにやって来たのは三七歳の頃。宮廷画家になるという野心を秘めていました。そのグレコに与えられたのが、大聖堂からの仕事だったのです。それは、聖具室の祭壇を飾る絵の制作でした。聖具室は、僧侶達が法衣などを保管し着替える場所です。この部屋に相応しいテーマとして考え出したのが、『聖衣剥奪』だったのです。一五七七年、グレコは制作を開始します。宗教画には、一つの目的があります。中世は、文字を読めない人が多い時代でした。宗教画が、聖書の代わりを務めたのです。そのため絵のモチーフは、聖書に基づかなければなりません。教義の解釈を誤ることも許されません。聖書を読み、時には断食をし、瞑想に耽ります。 



1 『胸に手を置く騎士』El Caballero de la mano en el pecho

プラド美術館の公式ページに行くとこの有名なエル・グレコの絵が紹介されています。
「手の指を開き、中指と薬指だけを閉じなさい。罪が犯される時。困難に出会った時。絶望の淵に立たされた時。その手を、痛み続ける胸に当てなさい」。この言葉は、イエズス会の創始者イグナティウス・デ・ロヨラが著した『心霊修養』という本の中の一節です 
「キリストの不思議な手の形」。苦しみと悲しみに打ちひしがれた時、生きていくために。その謎を解く鍵が、この本に記されています。イエズス会の創始者イグナティウス・デ・ロヨラが著した『心霊修養』というグレコの愛読した本です。 困った時には、この手の形。誰かがあなたを救ってくれる。
 
 


 

2 『聖衣剥奪』

グレコの絵が再評価されたのは、三百年後の一九世紀半ばの事でした。トレドのシンボル大聖堂に『聖衣剥奪』はあります。『聖衣剥奪』は、キリストが十字架にかけられる直前の姿です。グレコは、本来粗末な外套を宝石のように輝く赤で描きました。これから磔の刑を受けるキリストと、取り囲む男達の混乱と緊張。三人のマリアが、息を呑みながら十字架を見つめています。

全身全霊を打ち込んで神に仕え、世俗の欲望を捨て、絵に向かいます。画家は、神の意思を伝える道具になるのです。スケッチを重ね構図を作り上げます。高価な鉱物の顔料を買い求め、自ら絵の具を作ります。こうしてグレコは、『聖衣剥奪』に取り組んでいったのです。
 

 ご興味のある方は拙著『人への愛のあるところに(洪水企画)』を手に取ってお読みいただければ嬉しいです。出版社には残部がありませんが、購入希望のある方は、「詩誌・エウメニデス」のメッセージボックスからご注文ください。http://jarry.sakura.ne.jp/eu/
拙著『人への愛のするとこに』洪水企画・2011年発行。
この本の帯文は、詩人の松尾真由美さんです。
「表象の深層にせまろうとすれば音楽も美術も哲学も召喚される。 小島きみ子の詩への問いかけは、 我々を光のもとへとともに歩もうとする言葉の連なりであり、 その在るものへの探求は、理知と愛で満たされている。(松尾真由美)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2013年6月21日金曜日

6月の詩誌・詩集紹介


6月の詩誌・詩集紹介:2013年5月でweb公開誌「詩客」詩時評の担当が終了しましたので、送付されてくる詩集・詩誌は、前半と後半に分けてfacebookでも紹介しました。20日までで締切って、ブログ「風と光と詩論の場所」にまとめて書いていきます。6月は6月1日より6月20日までに届いたものの紹介をします。

 

 

 

1.詩集:

・池井昌樹さんの『明星』を日本の詩祭会場で購入して帰りの新幹線で読んだ。何気ない日常の人間の心の襞をじっくり書き上げていると思った。家族愛が書かれているが、人間の孤独が書かれてもいて、絶え間なく行き過ぎる時間への、生へのノスタルジイを感じた。

 

・岩井昭詩集『この片隅の夕暮れに』(私家版)「木というもの」から。木がでかけるのを/みてしまった/いっしゅんの目くばせだったが/いまごろどんなかぜのいんぼうを/たくらんでいるのか/葉がそよぎ/いつもの場所にあるにはあるが/木というものはいなかった//」短詩の方ですが、ゆったりとした情緒があります。その中には、詩人の喜びや哀しみも。フランス装のこだわりのある瀟洒な1冊。一六編を所収。中日詩人会の詩人。

 

・秋山基夫詩集『長篇詩 宇津の山辺』(和光出版)和綴じ本。こういう方法もあったのか、という軽い衝撃。序に始まり後註まで49P.繊細な言葉使いだなあ。先日の詩祭では、挨拶もできずに失礼しました。どの辺を引用すればいいのか、区切ることができないほどに、言葉がよどみなく続く、おもしろさ。贅沢な本だなあ、とても真似ができない。長篇詩、それだけをとりだして私家版で発行できたらいいなあ、うらやましいため息。

 

・新・日本現代詩文庫『阿部堅磐詩集』(土曜美術社)阿部さんは中日詩人会の会員。阿部さんは神職でもあり、教職はすでに退職されて久しいはず。10冊の詩集と1冊のエッセイ集を発行されている。里中智沙さんの解説に頷く。「一見なくてもいい無駄な部分にも見える。・・・「無駄」が楽しいのだ。阿部のことばは説明ではなく、それを物語っている。

 

・松本賀久子詩集『惑星詩集』(土曜美術社)1962年生まれの方ですが、すでに詩を書き始めて37年余りということですから、なかなかの詩歴です。あとがきに「五歳の時既に私は、普通のオンナではなかった」とありますが、オンナであるかどうかはともかくとして、普通の人であると思いました。私も「シンデラ」になりたいとは思っていませんでした。松本さんは薬剤師さんです。そもそも感受性の鋭い人は、変わった面白い子とみられがちです。そういう子が、詩が好きで大人になった。そう考えればいいと思います。彼女の詩は、科学的な感受性で書かれています。「惑星」のことが九作品。それから「止水栓から」が十三作品。

 

・山田兼士評論集『高階杞一論』(澪標) 詩人高階杞一の十二冊を読み解く。「びーぐる」という季刊誌の編集同人。高階さんは十二冊もの詩集を出しておられるが、わたしは一冊も読んでいないという不届きもの。いろいろな賞を受賞されているので、その都度の選評から想像はしているにすぎない。山田さんの詩人論を読むと、引用された詩の解説が実に的確で親愛に満ちていて、新鮮で日常の概念を崩しながら、詩の核心へせまっていく。そのことは作品そのものが「新鮮で日常の概念を崩している」ということを浮き彫りにする。そこにくっきりと現れてくるのは「詩の未来」であろうと思う。

 

・中森美方詩集・思潮社現代詩文庫199 この詩集は、解説を書いておられる神山睦美さんに送っていただいたものです。中森美方さんには、昨年の夏にお会いしたような気がしています。解説は、北川透さんも書かれています。北川透さんの「手紙」もまた、中森さんの(暗黒)に呼応する〈暗黒〉でありました。(暗黒)とは、おそらく詩を書くものに宛てられた「挨拶」なのでしょう。

それで、巻頭の「詩人への手紙」。「暗い淵へ踏み出すためにはどうしても挨拶が要るのだ/血走っているきみの眼に影を落として過ぎてゆくのは春の雪だけだ/おれたちは河べりの街で暗い貌をして/食事をしたり煙草をくゆらせたりした/そして陽気に笑ってもみせた/血縁にも見離されてゆくきみの貌がうつる/・・・」そして神山さんの「取りかえのきかない不幸」のなかにある「人間の生というものは、それが誰の生であっても修復可能なものは一つもない。そのかぎりにおいて誰もが、その人に刻印された取りかえのきかない不幸を背負って生きている」というところが、やがて大正九年八月二日に「七鬼村」で起こった津波へとその共苦(コンパッション)を引き継いでいくのです。

 

・池田康詩集『ネワエワ紀』洪水企画の詩人の遠征シリーズとして発行された。魅力的な企画。表紙カヴァーの裏の文章に「詩は必ずしもいつも詩のなかにあるのではない。詩はあらゆる創造行為の内部にかくれることができる。そして悪さを企て、あばれ、火花をまき散らす。詩はしばしば冒険する詩であり、遠征する詩である。それは例外的な行動ではなく、むしろ詩の本来的な遺伝子に属することなのではなかろうか。ジャンルの枠を浸す〈洪水〉的思考とともに生まれてきた二編を収録。」といように二編の長篇詩によって構成される。これは、バシュラールの空間の詩学を実践したような詩集だな、と思う。「夢の動脈は間昼間も脈打っている。」「錯覚の対話は錯覚の余韻であり、夢への入り口である」「港から船に乗る。ネワエワの水は鈍色で、急 ではないが力強い」ようやく「ネワエワ」の名前が出てくる。「気がつくと新宿伊勢丹の前に転がっていた。占い師のババがしゃがんでSを覗きこんで、告げる。「夢の動脈は脈打ちつづける。昼も夜も。ここでも、あそこでも」。」・・魅力的。こうした領野への挑戦が、現代詩を思考し創造することだと思う。

 

 

詩誌

・橄欖・第96号。日原正彦さんの発行する同人誌。発行の遅れた原因が書かれていますが、日原さんの奥さんが癌を患っていらして、三月に亡くなった。凄まじい闘病に寄り添いながらそれを超えて詩を書いていく。書くということの激しさと素晴らしさ。人の命の不思議さ。辛いことも苦しいことも書いて、乗り越えていく。命が通う、とはそういうことだろう。心よりご冥福をお祈り申し上げます。合掌。

 

・馬車no.48.春木節子さんが発行責任者。一六人の同人のうち男性が二名参加されています。巻頭詩は馬場晴世さんの「月の光に」。昨年、馬場さんの文庫の書評を書かせていただきましたが、馬場さんの静かな深い言葉の井戸はとても魅力的です。「月の光を浴びている/波紋が消えてゆくように/気持ちが静まってくる」。滝川優美子さんの「お医者様に」も愉快な作品です。春木節子さんの「ランドルト環について・指をなくして」は、「コートのポケットに 手を入れたあなた」の指は、ドキッとする素敵な指だった。「冷えきったわたしの指を/小指からひとつひとつ  たしかめるように触れている」。そんな指のあなたに私もそっと近づいてきて欲しいものです。

 

Griffon32 川野圭子さんが発行するカード型の同人誌。メモが入っていて、一五歳のヨークシャーテリア、愛犬ハリーが四か月の闘病の後に亡くなったとある。「潮が引くように命が去る」。哀切。川野さんの今回の作品三篇はハリーへのレクイエム。哀切。合掌。

 

・東国 145号。長野県内の同人の小林茂さんが送ってくださって、やはりメモがある。小山和郎さんが亡くなって、今号は川島完さんの編集によるという。小山さんのご冥福をお祈り申し上げます。以前、「東国」には同人作品評を依頼されて書いたことがある。2009年のことだった。小山さんとは、そのとき電話で一度話した。その作品評が同人誌全部についてで、前号と同じ作品が掲載されていて「何故?」と思ったことも書いたら、編集ミスであった。多くの人が読んでいて、いろいろとあったなと思う。編集という仕事は、雑誌の規模に関わらず神経を擦り減らすものです。小林茂さんの作品は26Pにあります。彼は、とてもおもしろい作品を書く。見えないものに触れている。

 

・どうるかまら 14号

 20名の同人。北岡武司さんの「負けるなよ」に心が重なるのは、杖が無いと歩行困難と母の姿と重なるせいだろうか。感情的に泣ける。たまには泣きたい。老いていく人のどの町でもどの家でも、この「負けるなよ」おじさんは生きている。昔は考えてもいなかった介護がビジスネスになった時代。朝の通勤ラッシュで見かける福祉車のさまざまな会社名。でも、このおじさんは「生まれてから死ぬまで/いざっていた」方なので下半身に障害を持っていたかただろうか。人はみな、老いていく、そして足腰が弱り、今まで知らなかった「障害」の苦しみと悲しみを知る。周囲にいる者もまた、家族が老いたことで、人間の変容を知る。「負けるなよ」と思う。

 

・黄薔薇 剱持俊彦追悼号 198号 この号は、心筋梗塞で亡くなった同人の追悼号。多くの同人の文章が寄せられていて、同人を温かく偲んでいる。大切なことだと思う。逝いた人の思い出を語ること。それで成仏していくんだなと思う。
 全国の同人誌の仲間は、ほんとうに老いてきている。死は幻想ではなくて、本物となって連れ添った夫婦や、育んでくれた両親の上に、花びらのように降りてくる。その途中にある人、それを迎えた人、それぞれがそれぞれの愛情で、去りゆくものへ別れの言葉を述べる。そんなことを深く思った。

 

・藍玉 13号 水野信政さんと長瀬一夫さんの二人誌。二人はとてもロマンチストで誠実で、好青年が年齢を重ねて、なおも好青年の模範的な二人だなと思う。作品五篇と、長瀬さんの「自選谷川俊太郎詩集」エッセイ。私も購入したが、岩波文庫の自選集はなかなか良かった。この量で、自選で、文庫で、安価というのは、若い人々も、失業中の人も、「詩が必要」な人へのプレゼントだった。長瀬さんの文章は、新聞での文庫の紹介の仕方への短評であった。ところで、同人誌を離れての現代詩、あるいは「詩」は、ネットの中では、驚愕するほど多くの人々がツイートしている。詩を書く若い人々の「同人誌離れ」の現実。同人誌というコミュニケーションが嫌われるのかとさえ思う。それでも「谷川俊太郎」は彼らのほとんどが認知しているという大きな存在です。教科書で知る現代詩人の知名度の高さともいえるかもしれません。

 

   ・忍冬(すいかずら)2013・6月号 no.9 長野県伊那市で発行されている詩誌。熊井紀江さんが発行している。長野県の土地の言葉で、心の詩を書いている地道な歩み。この同人誌の特徴は、毎号「連詩」を試みていること。今回のお題は「海」ですが、合評のときにでも詩を連ねるのでしょうか。一人の文量は3行です。前者の最期の言葉を繋いでいくという掟があるようです。

 

   ・Furoru 6号。フロルベリチェリ社 が毎月発行する二人誌。川口晴美さんの作品1篇と、紺野とも さんの作品2編。これを中綴じにして、紺野さんの「エンザルパイのミーム」の散文を裏表印刷で2つ折り。横型の定型封筒でまるで親しい人からの私信のようにポストに入っている。封筒に貼られる切手が今回は漫画の主人公ドラエモンのキャラクターたち。作品は川口さんの「あわ」。美容院でのシャンプーのことが非常に鋭敏でありながら、さりげなく、やわらかな気づきで語られていく。感覚+気づきが大切。口調というリズムも。紺野さんの作品「まほうつかいのルーキー」も読んでいくと「シャンプー」のことがでてくるので、今回のテーマは「シャンプー」であったか。なるほど、森岡美喜さんの写真も「シャンプーしてる髪」だ。彼女たちは、都市生活者で若い女性たちではない。社会経験も仕事のスキルも十分に積んだ「豊かな女性」として自分の足で立っている。完全装備な女性たちから毎月届けられる「私信」のような「詩」が入った封筒は、詩を生活の価値ある読み物として届けてくれる。重たい冊子ではなく、手紙のような薄さと、深い親愛をこめて届くそれらすべての「センス」に、詩は「贈り物」と思う。