6月の詩誌・詩集紹介:2013年5月でweb公開誌「詩客」詩時評の担当が終了しましたので、送付されてくる詩集・詩誌は、前半と後半に分けてfacebookでも紹介しました。20日までで締切って、ブログ「風と光と詩論の場所」にまとめて書いていきます。6月は6月1日より6月20日までに届いたものの紹介をします。
1.詩集:
・池井昌樹さんの『明星』を日本の詩祭会場で購入して帰りの新幹線で読んだ。何気ない日常の人間の心の襞をじっくり書き上げていると思った。家族愛が書かれているが、人間の孤独が書かれてもいて、絶え間なく行き過ぎる時間への、生へのノスタルジイを感じた。
・岩井昭詩集『この片隅の夕暮れに』(私家版)「木というもの」から。木がでかけるのを/みてしまった/いっしゅんの目くばせだったが/いまごろどんなかぜのいんぼうを/たくらんでいるのか/葉がそよぎ/いつもの場所にあるにはあるが/木というものはいなかった//」短詩の方ですが、ゆったりとした情緒があります。その中には、詩人の喜びや哀しみも。フランス装のこだわりのある瀟洒な1冊。一六編を所収。中日詩人会の詩人。
・秋山基夫詩集『長篇詩 宇津の山辺』(和光出版)和綴じ本。こういう方法もあったのか、という軽い衝撃。序に始まり後註まで49P.繊細な言葉使いだなあ。先日の詩祭では、挨拶もできずに失礼しました。どの辺を引用すればいいのか、区切ることができないほどに、言葉がよどみなく続く、おもしろさ。贅沢な本だなあ、とても真似ができない。長篇詩、それだけをとりだして私家版で発行できたらいいなあ、うらやましいため息。
・新・日本現代詩文庫『阿部堅磐詩集』(土曜美術社)阿部さんは中日詩人会の会員。阿部さんは神職でもあり、教職はすでに退職されて久しいはず。10冊の詩集と1冊のエッセイ集を発行されている。里中智沙さんの解説に頷く。「一見なくてもいい無駄な部分にも見える。・・・「無駄」が楽しいのだ。阿部のことばは説明ではなく、それを物語っている。
・松本賀久子詩集『惑星詩集』(土曜美術社)1962年生まれの方ですが、すでに詩を書き始めて37年余りということですから、なかなかの詩歴です。あとがきに「五歳の時既に私は、普通のオンナではなかった」とありますが、オンナであるかどうかはともかくとして、普通の人であると思いました。私も「シンデラ」になりたいとは思っていませんでした。松本さんは薬剤師さんです。そもそも感受性の鋭い人は、変わった面白い子とみられがちです。そういう子が、詩が好きで大人になった。そう考えればいいと思います。彼女の詩は、科学的な感受性で書かれています。「惑星」のことが九作品。それから「止水栓から」が十三作品。
・山田兼士評論集『高階杞一論』(澪標) 詩人高階杞一の十二冊を読み解く。「びーぐる」という季刊誌の編集同人。高階さんは十二冊もの詩集を出しておられるが、わたしは一冊も読んでいないという不届きもの。いろいろな賞を受賞されているので、その都度の選評から想像はしているにすぎない。山田さんの詩人論を読むと、引用された詩の解説が実に的確で親愛に満ちていて、新鮮で日常の概念を崩しながら、詩の核心へせまっていく。そのことは作品そのものが「新鮮で日常の概念を崩している」ということを浮き彫りにする。そこにくっきりと現れてくるのは「詩の未来」であろうと思う。
・中森美方詩集・思潮社現代詩文庫199 この詩集は、解説を書いておられる神山睦美さんに送っていただいたものです。中森美方さんには、昨年の夏にお会いしたような気がしています。解説は、北川透さんも書かれています。北川透さんの「手紙」もまた、中森さんの(暗黒)に呼応する〈暗黒〉でありました。(暗黒)とは、おそらく詩を書くものに宛てられた「挨拶」なのでしょう。
それで、巻頭の「詩人への手紙」。「暗い淵へ踏み出すためにはどうしても挨拶が要るのだ/血走っているきみの眼に影を落として過ぎてゆくのは春の雪だけだ/おれたちは河べりの街で暗い貌をして/食事をしたり煙草をくゆらせたりした/そして陽気に笑ってもみせた/血縁にも見離されてゆくきみの貌がうつる/・・・」そして神山さんの「取りかえのきかない不幸」のなかにある「人間の生というものは、それが誰の生であっても修復可能なものは一つもない。そのかぎりにおいて誰もが、その人に刻印された取りかえのきかない不幸を背負って生きている」というところが、やがて大正九年八月二日に「七鬼村」で起こった津波へとその共苦(コンパッション)を引き継いでいくのです。
・池田康詩集『ネワエワ紀』洪水企画の詩人の遠征シリーズとして発行された。魅力的な企画。表紙カヴァーの裏の文章に「詩は必ずしもいつも詩のなかにあるのではない。詩はあらゆる創造行為の内部にかくれることができる。そして悪さを企て、あばれ、火花をまき散らす。詩はしばしば冒険する詩であり、遠征する詩である。それは例外的な行動ではなく、むしろ詩の本来的な遺伝子に属することなのではなかろうか。ジャンルの枠を浸す〈洪水〉的思考とともに生まれてきた二編を収録。」といように二編の長篇詩によって構成される。これは、バシュラールの空間の詩学を実践したような詩集だな、と思う。「夢の動脈は間昼間も脈打っている。」「錯覚の対話は錯覚の余韻であり、夢への入り口である」「港から船に乗る。ネワエワの水は鈍色で、急 ではないが力強い」ようやく「ネワエワ」の名前が出てくる。「気がつくと新宿伊勢丹の前に転がっていた。占い師のババがしゃがんでSを覗きこんで、告げる。「夢の動脈は脈打ちつづける。昼も夜も。ここでも、あそこでも」。」・・魅力的。こうした領野への挑戦が、現代詩を思考し創造することだと思う。
詩誌
・橄欖・第96号。日原正彦さんの発行する同人誌。発行の遅れた原因が書かれていますが、日原さんの奥さんが癌を患っていらして、三月に亡くなった。凄まじい闘病に寄り添いながらそれを超えて詩を書いていく。書くということの激しさと素晴らしさ。人の命の不思議さ。辛いことも苦しいことも書いて、乗り越えていく。命が通う、とはそういうことだろう。心よりご冥福をお祈り申し上げます。合掌。
・馬車no.48.春木節子さんが発行責任者。一六人の同人のうち男性が二名参加されています。巻頭詩は馬場晴世さんの「月の光に」。昨年、馬場さんの文庫の書評を書かせていただきましたが、馬場さんの静かな深い言葉の井戸はとても魅力的です。「月の光を浴びている/波紋が消えてゆくように/気持ちが静まってくる」。滝川優美子さんの「お医者様に」も愉快な作品です。春木節子さんの「ランドルト環について・指をなくして」は、「コートのポケットに 手を入れたあなた」の指は、ドキッとする素敵な指だった。「冷えきったわたしの指を/小指からひとつひとつ たしかめるように触れている」。そんな指のあなたに私もそっと近づいてきて欲しいものです。
・Griffon32 川野圭子さんが発行するカード型の同人誌。メモが入っていて、一五歳のヨークシャーテリア、愛犬ハリーが四か月の闘病の後に亡くなったとある。「潮が引くように命が去る」。哀切。川野さんの今回の作品三篇はハリーへのレクイエム。哀切。合掌。
・東国 145号。長野県内の同人の小林茂さんが送ってくださって、やはりメモがある。小山和郎さんが亡くなって、今号は川島完さんの編集によるという。小山さんのご冥福をお祈り申し上げます。以前、「東国」には同人作品評を依頼されて書いたことがある。2009年のことだった。小山さんとは、そのとき電話で一度話した。その作品評が同人誌全部についてで、前号と同じ作品が掲載されていて「何故?」と思ったことも書いたら、編集ミスであった。多くの人が読んでいて、いろいろとあったなと思う。編集という仕事は、雑誌の規模に関わらず神経を擦り減らすものです。小林茂さんの作品は26Pにあります。彼は、とてもおもしろい作品を書く。見えないものに触れている。
・どうるかまら 14号
20名の同人。北岡武司さんの「負けるなよ」に心が重なるのは、杖が無いと歩行困難と母の姿と重なるせいだろうか。感情的に泣ける。たまには泣きたい。老いていく人のどの町でもどの家でも、この「負けるなよ」おじさんは生きている。昔は考えてもいなかった介護がビジスネスになった時代。朝の通勤ラッシュで見かける福祉車のさまざまな会社名。でも、このおじさんは「生まれてから死ぬまで/いざっていた」方なので下半身に障害を持っていたかただろうか。人はみな、老いていく、そして足腰が弱り、今まで知らなかった「障害」の苦しみと悲しみを知る。周囲にいる者もまた、家族が老いたことで、人間の変容を知る。「負けるなよ」と思う。
・黄薔薇 剱持俊彦追悼号 198号 この号は、心筋梗塞で亡くなった同人の追悼号。多くの同人の文章が寄せられていて、同人を温かく偲んでいる。大切なことだと思う。逝いた人の思い出を語ること。それで成仏していくんだなと思う。
全国の同人誌の仲間は、ほんとうに老いてきている。死は幻想ではなくて、本物となって連れ添った夫婦や、育んでくれた両親の上に、花びらのように降りてくる。その途中にある人、それを迎えた人、それぞれがそれぞれの愛情で、去りゆくものへ別れの言葉を述べる。そんなことを深く思った。
・藍玉 13号 水野信政さんと長瀬一夫さんの二人誌。二人はとてもロマンチストで誠実で、好青年が年齢を重ねて、なおも好青年の模範的な二人だなと思う。作品五篇と、長瀬さんの「自選谷川俊太郎詩集」エッセイ。私も購入したが、岩波文庫の自選集はなかなか良かった。この量で、自選で、文庫で、安価というのは、若い人々も、失業中の人も、「詩が必要」な人へのプレゼントだった。長瀬さんの文章は、新聞での文庫の紹介の仕方への短評であった。ところで、同人誌を離れての現代詩、あるいは「詩」は、ネットの中では、驚愕するほど多くの人々がツイートしている。詩を書く若い人々の「同人誌離れ」の現実。同人誌というコミュニケーションが嫌われるのかとさえ思う。それでも「谷川俊太郎」は彼らのほとんどが認知しているという大きな存在です。教科書で知る現代詩人の知名度の高さともいえるかもしれません。
・忍冬(すいかずら)2013・6月号 no.9 長野県伊那市で発行されている詩誌。熊井紀江さんが発行している。長野県の土地の言葉で、心の詩を書いている地道な歩み。この同人誌の特徴は、毎号「連詩」を試みていること。今回のお題は「海」ですが、合評のときにでも詩を連ねるのでしょうか。一人の文量は3行です。前者の最期の言葉を繋いでいくという掟があるようです。
・Furoru 6号。フロルベリチェリ社 が毎月発行する二人誌。川口晴美さんの作品1篇と、紺野とも さんの作品2編。これを中綴じにして、紺野さんの「エンザルパイのミーム」の散文を裏表印刷で2つ折り。横型の定型封筒でまるで親しい人からの私信のようにポストに入っている。封筒に貼られる切手が今回は漫画の主人公ドラエモンのキャラクターたち。作品は川口さんの「あわ」。美容院でのシャンプーのことが非常に鋭敏でありながら、さりげなく、やわらかな気づきで語られていく。感覚+気づきが大切。口調というリズムも。紺野さんの作品「まほうつかいのルーキー」も読んでいくと「シャンプー」のことがでてくるので、今回のテーマは「シャンプー」であったか。なるほど、森岡美喜さんの写真も「シャンプーしてる髪」だ。彼女たちは、都市生活者で若い女性たちではない。社会経験も仕事のスキルも十分に積んだ「豊かな女性」として自分の足で立っている。完全装備な女性たちから毎月届けられる「私信」のような「詩」が入った封筒は、詩を生活の価値ある読み物として届けてくれる。重たい冊子ではなく、手紙のような薄さと、深い親愛をこめて届くそれらすべての「センス」に、詩は「贈り物」と思う。