噴水の画像は、twitterのフォロワーさんである、「ゆたりやの亭主
@yasumine0318」 さんにお借りしました。ありがとうございました。
噴水と私
ひと夏を、詩を書くために噴水の水を見飽きるほど見ていたことがある。
それは、フランスの作曲家モーリス・ラヴェルがパリ音楽院在学中の一九〇一年に作曲したピアノ曲《水の戯れ》の煌く水を、詩で顕したいと思ったからだった。
ラヴェルの曲では、「亡き王女のためのパヴァーヌ」も好きだけれども、ラヴェル独自の作風へと昇華するきっかけとなった作品といわれている《水の戯れ》をピアノ曲と、現実の水の戯れを、夏の詩の中に書いてみたいと思った。
《水の戯れ》は、リストの「エステ荘の噴水」が、下敷きになっているといわれている。リストの「エステ荘の噴水」も聴いてみなくてはならない。
そんなわけで、ある夏の夏休みは、ピアノ曲を聴きながら過ごした。
ピアノという楽器の特徴と演奏法についての文献も読んでみた。
ラヴェルはピアノがあまり上手くなかったとされているようだが、ピアニストになれるほどではなかったということであって、ピアノ演奏のレベルが低かったわけではないという。
それで、とても興味深かったことは、「亡き王女のためのパヴァーヌ」は、弾きながら楽譜を書いているが、《水の戯れ》は、弾きながら書いていないということです。
それは、弾きながら書くときに現われる手癖というものが無いということなのです。
ピアノという楽器を弾きながら楽譜を書くことは、イメージを遠く飛ばすが、そういう部分がなく、単純な和声進行の部分が多い、けれども、噴水の水の上がるさま、落下するときの光の煌きは、単純な繰返しゆえに水の軽やかさが見事に表現されていると思う。
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