先日、FBF.の松尾 一廣さんのウォールで「自己実現」のポストを読んで、「実現」ということをボンヤリ考えながら、2008年の4月の読書日記を見ると、『現成公案』道元著・全訳註:増谷文雄を読んでいた。ここで、述べていることは、仏教用語の「不生不滅」ということなのだけれども。「実現」ということが、現在生きて有ることの実現については、若く多感な時は、現在ということが重要になるのだが、職場をリタイアした私は時々死後のことを考えるようになっているので、死後を含めた現在の現実を考えるようになった。
『現成公案』増谷文雄訳。28.29P.
薪は灰となる。だが、灰はもう一度もとに戻って薪とはなれぬ。それなのに、灰はのち、薪はさきと見るべきではなかろう。知るが良い。薪は薪として先があり後がある。前後はあるけれども、その前後は断ち切れている。灰もまた灰としてあり、後があり、先がある。だが、かの薪は灰となったのち、もう一度薪とはならない。
それとおなじく、人は死せるのち、もう一度生きることはできぬ。だからして、生が死になるといわないのが、仏法のさだまれる習いである。このゆえに不生(ふしょう)という。死が生にならないとするのも、仏の説法のさだまれる説き方である。このゆえに不滅という。
生は一時のありようであり、死もまた一時のありようである。たとえば、冬と春とのごとくである。冬が春となることも思わず、春が夏となるともいわないのである。
それで、ウォールのコメントに「self-realisation」という言葉が使われていて、もやもやしていたものが明るくなったという気持ちでいる。
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