2024年8月29日木曜日

あなたの手の影

去年の夏、 草むらで死にかけていた蝉を、 助けて、 登らせてあげた木。 あなたの手の影が、 ほら、 たくさん伸びている。 人間の愛を、 信じていようと思う。 人間は弱いけれど、 もっと弱いものを、 助けることができる。 それが、 あなたの手の影。

2021年10月9日土曜日

横浜の詩人・下川敏明さんより詩集『楽園のふたり』をFB,で紹介して頂きました。

小島きみ子詩集『楽園のふたり』|下川敬明 「愛」をめぐる思弁と情感が波立ち、溶け合う。 大空の広やかさ――希望、理想、博愛――と 「わたしのなかのあなた」への秘めやかな囁き。 わたしとあなたは 一つの文字になって溶ける (「カロライナジャスミンの繁みで」冒頭部分) 他にも、「(声の影が、)」のかなしく美しい二重唱、 あるいは、 わたしたちは夫でも妻でもなく、ようやく晴れて、ただのなんでもないものだった。タンポポの種子とともに、わたしたちは無為な物として芽吹くのだろうか。 (「私たちは誰も愛さなかった」部分) 樹皮の内側をながれる樹液のように、言葉の皮膚をめくれば、作者の血と汗と涙が噴き出してくる。何と豊かなこと! 深謝いたします。

2021年8月25日水曜日

大阪の詩人・今野和代氏のFB.投稿記事転載しました。

小島きみ子詩集『楽園のふたり』| 対峙してくる世界をとらえ、そのざわめきを、怒りを、問いを、歓喜を、くきやかなメロディーラインにして放ってる。限りなく透きとおっていくシンフォニー ! 小島きみ子第5詩集『楽園のふたり』を今、読了。虚空と地上。沈黙と囁き。抱擁と喪失。色彩と陰影。邂逅と別れ。戦略と無垢。・・・それら極みから極みへの限りない往還が、伸びやかな空中ブランコの軌跡になって、私の前に広がっていく。 メジロのチュルチュルを、綱渡りする夢遊病者の喘ぎを、ゼラニウムが果てていくサヨナラの合図を、黒い蝉の嘆きの羽音を、遠い物語の水音を、聴くことのできる、何と研ぎ澄まされた柔らかな耳。 それぞれ固有のつましい暮らしの呼吸を終えて、いつか死んでしまう私。わたしたち。薔薇も蝉も蟻もハナミズキもキジバトも・・。父。母。夫。子供たち。恋人や弟や兄や妹や友たちの真あたらしい足音。別れ。怒り。嘆きやおののき。吐息。 単独者の通奏低音のような、自由な優しい魂の鼓動が、わたしの胸にも柔らかく響いて来ています。

2021年8月23日月曜日

詩集『楽園のふたり』柴田望(詩誌「フラジャイル」発行人) 批評文 転載しました。

柴田望 最近、YouTubeなどで「ツインレイ」という言葉をよく見かけます。都市伝説?のようなもの、「自分の魂の片割れ」という意味だそうで、サイレント期間と呼ばれる理不尽な一時的別離を経験したり、再会し統合(と呼ぶ)することで魂を成長させる、お互いに唯一の存在とのことです。身近な人との関りで、ある日ふとした瞬間に、一瞬にして蘇らせる前世の記憶……。  W・B・イェイツは結ばれることのなかった生涯の恋人モード・ゴンを、詩(『葦間の風』「エイ、心の薔薇を語る」など)の中で薔薇に喩えています。イェイツにとって「この世」で生きる目的は、過去世で関りのあった上述の「ツインレイ」のような、無二の存在と巡り会う、薔薇を探す旅でした。  小島きみ子さんの新詩集『楽園のふたり』を拝読させて戴き、第Ⅰ章に収められた「あなた」へ向けて、「あなた」について書かれた絶唱ともいえる作品群の行間から、今は語られない、たくさんの思い出の会話が交響曲のように聴こえてくるようです。「(あなた)と僕の内部にはいつも(交響詩)が存在する」(「(交響詩)のように」)、作品「(声の影が、)」は、此の世とあの世の声が平行して、一篇の詩の中で、一人の詩人の中で二人の詩人が、即興のインタープレイを展開しているような壮絶な緊張感です。前頁「カロライナジャスミンの繁みで」の最終連でオフィーリアの川の流れがえがかれていますが、水のイメージ、生と死の狭間から過去世の記憶が噴き出し、ある時止まる。「はなれて響き会う ⅷ噴水の時間が止まった時間のこと」は、「あっ という瞬間の」「水の煌めき」、詩句の響きから得られるビジョンが本当に美しく、この世のものとは思えないほどです。自然の理(ことわり)として諭される「苦しみのあとの安らぎのように」、命をもった詩の言葉に、深い安らぎを覚えています。  第Ⅱ章は、神話や聖書、哲学、現代の様々な問題など、詩の言語が豊かな学びへ読者を誘い、楽しませます。最後の詩、臨死体験のような「黄泉の國は此の世と瓜二つなのです」を読み、この詩集のⅠ章とⅡ章は、どちらかが黄泉の國であり、どちらかが此の世なのだろうか、それぞれに両方の要素があるのだろうかなど、空と海の境と通路を探すような、永久の謎に導かれ、あとがきの「詩の言葉にして振り返れば、苦しみすらも安らぎのように語ることができます。」という御言葉に、幸せと不幸、苦しみと安らぎ、希望と絶望、無理に二極化する必要はないのだと、気づかされ励まされるような深い希望を戴いております。貴重な学びの機会を賜り、心より感謝申し上げます。

2021年6月19日土曜日

「山鳥の」花と斎藤秀雄さんの俳句とのコラボレーション

 「山鳥の」花と斎藤秀雄さんの俳句とのコラボレーション
額にいれました。


山頭火に「だまって あそぶ 鳥の一羽が 花の中」という句があります。私の誕生鳥ヤマドリと、春の押花額をいくつか制作してきました。ヤマドリは、春の季語。俳句をされている、斎藤秀雄さんの山鳥の句と押花を纏めました。4つ作っていただいたのですが、「山鳥が写真の枝を踏みにけり」「山鳥の廊下がうすく見えてくる」の句で、押花の画面を作りました。

斎藤秀雄さんの句「山鳥の」

山鳥の目の高さから生まれくる

山鳥の深さの闇へ手を入れる

山鳥が写真の枝を踏みにけり

山鳥の廊下がうすく見えてくる

2021年6月1日火曜日

花と短詩のコラボレーション

 
春の思いでの、Pansy押花、Viola押花の作品と、twitter.のお友達、天野行雄さん、斎藤秀雄さん、白島真さん、鳥見 徒躬於さんと「花と短詩・俳句」のコラボレーションをしました。お立寄りください。


高原より
●スミレ熱強の狂熱のスミレ咲く小径を  スミレの名を呼びながら  独り歩いて来た

●高原の湖の岸辺にはハルリンドウが咲いていた  水面に鳥影の行方を映す  水鏡の人のペルソナ
●ビオラソロリア  アロエの鉢に混ざって発芽して雪の日も咲き続けた  あなたが此の場所に居たので  憎しみと悲しみの純愛の愛の変容を知った  最後の春だったBlue.と名乗った人よ

●押花の作品とコラボレーションしました。
規定は、百文字程度。4行程度で。
個展会場が見つかれば、テキストも飾りたいので、短めの詩、俳句をお願いしました。

1番の押花赤い部屋のヤマドリ。

2番桃色と黄色の部屋のヤマドリ。

3番橙色と黄色の部屋のヤマドリ。


●ヤマドリは5月1日生まれの私の誕生鳥です。ハンコをtwitterのフォロワーさんに制作していただきました。花の中にいる、鳥のイメージで押花を制作しています。本当は個展を開きたいのですが、web.で公開しつつ、先ず詩と歌とコラボします。押花には、小島きみ子の作品タイトルを付けていますが、自由に変えてください。

1番 赤い部屋のヤマドリ

2番。桃色と黄色の部屋のヤマドリ。

3番。橙色と黄色の部屋のヤマドリ。


●天野行雄さん
3番のフラワーアートとのコラボレーション
水源より

物言わぬひとつの地平にボクを関連づける
森の水源から所有の徴を載せた笹舟を放つ
不思議を負うヤマドリはパンジーを届けに来たよ
空といのちを飾るものたちを繕って土曜日を流れる

●斎藤秀雄さん
3番のフラワーアートとのコラボレーション
「山鳥の」   


山鳥の目の高さから生まれくる

山鳥の深さの闇へ手を入れる

山鳥が写真の枝を踏みにけり

山鳥の廊下がうすく見えてくる



白島真さん
1番のフラワーアート作品とのコラボレーション

「赤い部屋のヤマドリ」

花びらを吸うと憶いだす
生と死のうらおもて ひりひり
大勢のなかの二人きり
ヤマドリが歌う誕生歌 
花のふくらみからこぼれ落ちる 
しらしら



●鳥見 徒躬於さん
1番「赤い部屋のヤマドリ」


あの山鳥の尾羽のやうにわたくしの命もまた果テがないやうな氣がしてゐた若き日日にはただ鳥影を追ふのみのゆふぐれもあつた橋の上から川明りのなか塒に急ぐ鳥鳥のその黑い姿を數えてゐた鳥鳥はたれかのいのちの姿だと思うた



2番 「桃色と黄色の部屋のヤマドリ」 1行3文字詩

よるの

はての

とりの

こゑを

ひるの

すゑの

とりの

それに

かさね

あはせ

われの

なかに

つもる

こゑの

いみを

さとる


2021年3月25日木曜日

カボチャンの大冒険|詩人とは言語の巨人になることです。

 


 子どもたちが小さかったころ、上の子が7歳くらいで下の子が保育園へ行っていたころ、とにかくこの二人を早く寝かしつけないと自分の勉強どころではなくて、空想御伽噺を作っては寝かしつけた。タイトルは「カボチャンの大冒険」。スイカなのだけれど、名前はカボチャンで、宇宙で生まれたカボチャンが何故か日本の山の谷から転がり落ちてきてさまざまな地球的経験をして宇宙へ帰るというお話。子どもたちには結構受けて、話しているうちに自分も一緒に寝てしまうこともしばしばだった。

 言葉のセンスというものが、どのように作られるかは、幼児教育に多いに係ってくるものです。朝はこの二人にご飯を食べさせながら、「じゃ、お母さんはお仕事に行ってきますからね。」だった。そんなで、二人は、これから地球における「カボチャンの大冒険」が始まるのだ。 

 さて、「詩人」とはどういう人をいうのでしょう。
そして「詩」とはどういうものでしょうか。言語活動とはどのようなことをいうのでしょうか。どのような言語を選び取って社会活動をしていくか、どのような色彩言語を身に纏って自分をデザインしていくか、言語の輪郭とは人間の衷なる輪郭にほかならない。言語の外に立って言語の内を覗くとは、言語の無意識を意識に反転させることで、この現代の社会環境の社会言語の背景を表層の実相を纏いながら、深層のペルソナとどのようにレンジさせていくか。その言語の力を技として身につけたものが「詩人」と呼ばれるものに成っていくのだろう。詩人とは、言語の巨人になることだ。と、思うのです。自分ではとうていなれない大きな虚像を言っておきましょう。