2025年2月14日金曜日
立原道造のメルヘンについて ーー見えるものの向こうーー
立原道造のメルヘンについて ーー見えるものの向こうーー
小島きみ子
* はじめに
表現とは、(見えるものの向こう)を現すことではないかと思います。目に見えるものと、目に見えないものは、空間では互いに調和して存在しています。情動と翻訳される心理学用語でのエモーションが関わってくると思います。ものが有るとは見えることですが、見えないものは無いのでしょうか? 見るということを、精神がものを見る事に言及したのは、二十世紀フランスの知性といわれている、ポール・ヴァレリー(一八七一~一九四五)です。「詩人の偉大さは、精神がかすかにかいま見たものを、自分のことばでしっかりとつかまえるところだ。」(『ヴァレリー・セレクション(上)』)と述べています。見るとは、脳が知ることです。象徴主義の画家・版画家のオディロン・ルドン(一八四〇~一九一六)の「私の独創性はすべて、目に見えるものの論理を可能な限り目に見えないものに役立たせることによって、ありそうもない存在たちを、本当らしさの法則に従って、人間的に生きさせることにある」(福永武彦著『彼方の美』)と述べています。詩と美術の論理は近くにあります。日常のなかに幻想的な物を感じるとき、私たちの生活はより深い人間の生と死の真実を見る態度に変化していると思います。「美しい」と思うものは、絶えず心に音や形や色彩を、言語のように働きかけています。隠されていたものが「現れ」るのです。これについては、哲学や心理学も関わってくるのです。「現れ」とは、英語では(realization)です。原始仏教哲学の研究者であった増谷文雄(一九〇二~一九八七)は、道元の「現成考案」の「現成」について、「原語の「阿び」とは、眼の前に見ること(abhi=in front of)である。原語「abhi」の漢訳は発音のそのまま日本語では「阿び」と書かれてきた。この日本語訳したものが「現成」で、「あらわれ」を英語訳すると(realization )で悟りの成就するときを「現成」という。」(増谷文雄著『正法眼蔵』)と述べていますし、ユング心理学の河合隼雄(一九二八~二〇〇七)が著書『こころの最終講義』で、「リアライゼーション(realization)」について述べています。詩の言葉は現実の経験だけではなく、「夢のなかで夢みたこと」も、新たな経験であったように、人の想像する意識に力を与えるように思うのです。言葉の輪郭を、美術の言葉、哲学や心理学の別な言語で照射する時、言葉は新しく「見える=現れる」ように思います。立原道造が愛した信州追分の風景が、詩の言葉で見えるようになった、そのことを追っていきたいと思います。
(一) 立原道造の詩との出会い
立原道造(一九一四~一九三九)の詩に出会ったのは、高校生の時に図書館で、長野県出身の詩人・田中清光(一九三一~)の立原道造研究論考を読んだのがきっかけでした。県内の高校の文芸部へ講演に出かけた時の事が書かれていたと思います。それ以後は、日本語の特徴としてのオノマトペに注目して、中原中也(一九〇七~一九三七)との比較で立原道造を読んできました。私にとっての中原中也は、青春時代の説明しがたい危機的感情を救った詩人です。立原道造は、信州追分の場所から近い佐久平に暮らす私の、精神と身体を包み込んだ詩人でした。道造の詩の音楽性と言葉の感覚は、一八世紀のドイツロマン主義の詩人ノヴァーリス(一七七二~一八〇一)の哲学と詩の融合の深さが道造にもあると考えます。道造の詩篇を読んでいて感じるのは、ノヴァーリスの「自然とは何か」を問う姿勢と共通するものがあります。ノヴァーリスの中編小説『サイスの弟子たち』に、「感情の元素とは内的な光なのだが、その内的な光は屈折して、より美しく、より強烈な色彩となる。そうなれば、人間の心の内に星が輝き出て、いま自分の目が見ている境界や地平を越えて、もっとありありと、もっと多彩に、まったき世界を感じることができるだろう。」とあります。
(二) 立原道造と杉山平一について
『四季』は、堀辰雄が一九三三年(昭和八年)に第一次『四季』を発行し、一九三四年に第二次『四季』が創刊されました。当初の中原中也賞は、『四季』誌上で行われた詩人への賞で発案者は、広島県出身で、中原中也と別れた後、小林英雄の元に去った女優の長谷川泰子(一九〇四~一九九三)です。後に泰子の夫となった石炭商・中垣竹之助が賞の援助をしましたが、三回で終了しました。現在の、山口市が主催する「中原中也賞」とは別のものです。三回までの受賞者は、第一回、立原道造。中也の死後二年後の昭和十四年三月二十九日に、道造は二十四年八ヶ月の生涯を終えました。この一ヶ月後に四季社によって催された「第一回中原中也賞」の受賞会は道造の追悼を兼ねたものとなりました。第二回、高森文夫、杉山平一。第三回、平岡潤。第二回中原中也賞が立原道造と同年に生まれた杉山平一(一九一四年十一月二日生~二〇一二年五月一九日没)であることは感慨深いです。杉山平一が戦後に書いた作品を戦後詩とは、誰も呼んではいないことは、現代詩を区分する困難さを示しています。杉山平一は、東京帝国大学美学美術史学科在学中に、三好達治に認められ『四季』に参加、同人となります。二〇一二年に詩集『希望』で、第三十回日本現代詩人賞を受賞しました。昭和四十八年二月に発行された『立原道造全集 第五巻』(角川書店)の月報に、杉山平一が「立原道造氏のこと」という文章を寄せています。杉山平一の文章で注目するのは「上等の犬のような顔である。」という処と、「リボンで包むというような感覚は、」という処です。痩せていて長身の道造は、決して貧弱ではありませんでしたが、彼の物事への趣味が多数の人に好まれたかどうかは別の次元のことです。
「四季」に私が詩を送り始めた頃、そこに詩を書き出した立原道造というのが、同じ東大の学生らしい、しかも工学部だ、ときいていたので、どんな人だろうと興味をもった。(省略)そのうち、ある日、その仲間のなかに、真っ黒の外套をきた長身の学生がいた。上等の犬のような顔である。近づいて行って襟章を見るとTになっていた。彼が立原ではないか。ふと足もとを見ると、黒の編上靴の紐が全部ほどけたままになっていて、それをひきずっている。これは詩人だ、立原道造に違いない、と僕は心に決めた。(省略)その後、僕の留守に、僕の下宿に楽譜のような詩集アン・マイネル・ワスレグサとかいた「萱草に寄す」を届けてくれた。黒インキで杉山平一様と書き、リボンで包んであった。リボンで包むというような感覚は、そのころの弊衣破帽の学生生活を経た大学生にはできないことだった。
(三) 「萱草 わすれぐさ」について
道造の手作り詩集「萱草に寄す」の、「萱草 わすれぐさ」は「きすげ」のことです。全集第三巻 四三〇頁に「夏秋表」の(その二)に「きすげ」のことがあります。このレモンイエローの花は、信州追分の夏の花を語る上で重要な花です。引用しておきます。
夏秋表 (その二)
私はひとつの花を誹謗しよう。
信濃路の村でその花を私は田中一三にたいへんたのしく教えた。淡いかなしい黄の花びらを五つ、山百合のように、しかしあのように力強くなく寧ろ諦めきったすがすがしさで、夕ぐれ近い高原の叢に、夏のはじめから夏のなかばまで日ごとのつとめとしてひらく花である。ゆうすげという名を或るひとから習った。そのあと植物学ぶ人から萱草、わすれぐさ、きすげと習い、また時経てその花びらを食用にすることまでも習った。私は習いおぼえたかぎりを田中一三に教えた。
きょう私は最初にその花を教えてくれたひとに向って愚痴を繰返すことを情ない慰さめとして持っている。この誹謗もまたその輪のほかを出られない。恥を知るまえに、ただ私はさびしい。私はいまもあんなにありありと心に帰るあの高原のイメージのために頬を濡らした。(省略)
夏秋表〈その二〉で、「萱草、わすれぐさ、きすげ」と記されているように、橙色のカンゾウとキスゲは花の形が似ています。道造が信州追分で暮らしたその時代、キスゲがたくさん咲いていたはずです。それは土地の人は「ゆうすげ」と言っていたと思います。夏の高原では、オレンジ色のノカンゾウ=ヤブカンゾウ(ユリ科キスゲ属)や、キスゲのレモンイエローの花が愛らしく咲いています。現在では、キスゲが外国へ輸出されて園芸種のヘメロカリスとなって日本へ戻ってきています。ヘメロカリスはカンゾウの色と同じオレンジとキスゲと同じレモンイエローと二種類が私の街の街路樹の植え込みの花壇にも咲いています。それで、カンゾウには、「わすれぐさ」という別称があります。「萱草」は、万葉集にも歌われています。「わすれ草わが紐に付く香具山の古りにし里を忘れむがため (わすれぐさ わがひもにつく かぐやまの ふりにし さとを わすれんがため)大伴旅人(万葉集・巻三ー三三四)」
ヤブカンゾウとキスゲ(=ゆうすげ)をあわせて、「萱草、わすれぐさ」でも間違いではありません。道造が滞在していた当時の追分のあたりでは、この二種類が咲いていたと思います。現在の追分の道筋の民家の花壇に咲いているキスゲは園芸種だろうと思います。
(四) 道造が生きた時代背景と音楽性
全集第五巻・月報5より、昭和十一年に東大理学部植物学科に入学した柴田南雄(一九一六年~一九九六年:後に作曲家、音楽学者)の文章を引用します。道造が生きた時代背景と、音楽家として芸術想像を目ざす青年の目から見た、道造の詩の構成の音楽性が述べられています。「立原の詩と音楽」より。
(省略)なにしろ昭和六年のいわゆる満州事変、昭和七年の上海事変、そして昭和十 二年のいわゆる支那事変と、世情はますます険悪になりつつあり、われわれには軍隊への招集という不可避な運命が待っていて、それは大いなる公算で直接死へつながっていた。(省略)同じ理科系の学徒に共通した物の感じ方、しかもあの時代に芸術の中だけに逃避の場所を求めた純粋さというものは、立原意外にわたくしの直接の周囲には見いだすことができなかった。(省略)立原は各行のシラブル数には柔軟性を与え、全体をソネットの形式でまとめているが、これもじつに賢明なやり方だと思った。それは彼が建築を学んだから、というより広い意味での理科的頭脳と文学的才能との幸福な統合だろうと思ったものである。(省略)
(五) 合評で「メルヘン」と評された道造
立原道造全集 第二巻は、『さふらん』、『日曜日』、『散歩詩集』の未刊の三冊の詩篇が所収されています。解説によると未刊とは、当時高校二年生(一七歳)の道造自身による手書き詩集のことです。その三冊のうちの『さふらん』詩集をこの全集に携わっている杉浦明平氏が所持していたのでした。短い詩篇には、現在の私たちの感覚にも通じる明るくて爽やかな美意識があります。第二巻の月報4(昭和四十七年七月)では、一高文芸部時代の高尾亮一氏が、昭和六年の当時の事を書かれている。初めて書いた小説にはタイトルが書いて無くてブランクで、高尾氏が『あひみてののちの』というタイトルを付したということです。ここで、高尾氏の言葉が良かったです。昭和六年頃の日本の文学は、プロレタリア文学の台頭期でもあったので、合評で「メルヘン」と評された道造に「メルヘンでいいじゃあないか。今は誰でもがメルヘンを書けなくなってるんだ」と激励したというのです。その通りだと思います。ゲーテ(一七四九~一八三二)は、『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』(一七九六)作中の「新しいメルジーネ」などのメルヘンを残していますし、ノヴァーリスは『青い花』の作中に、数作のメルヘンがあります。このことは、道造の創作の初めから完成において重要な評価と激励であったと思います。
(六) 立原道造のソネットについて
道造の詩のほとんどは、四、四、三、三という行分け四連構成の十四行詩のソネット形式です。ソネット形式にはシェイクスピア型とペトラルカ型があります。ソネットはヨーロッパで生まれた詩形で行わけ、脚韻、音綴などさまざまな制約と法則をもっています。道造のソネットは、日本語化されたソネットです。
まず、推量の助動詞「あらう」と比況の助動詞「やうに」が多用されています。それから文字記号の・・・・・・、( )、ーーなど。ここに紹介する作品に限らず、多数の他の作品にも句読点がありません。もっとも特徴的なことは「小鳥」「風」「光」などの言葉の多用です。これらの言葉を私も、自分の作品のなかで多用しているのは、烈しく影響を受けてきた故と思います。立原道造の「暁と夕の詩」(第一巻)から「Ⅱやがて秋・・・・・・」を読んでみましょう。
やがて 秋が 来るだらう/夕ぐれが親しげに僕らにはなしかけ/樹木が老いた人たちの身ぶりのやうに/あらはなかげをくらく夜の方に投げ//すべてが不確かにゆらいでゐる/かへつてしづかなあさい吐息のやうに・・・・・・/(昨日でないばかりに それは明日)と/僕らのおもひは ささやきかはすであらう//ーー秋が かうして かへつて来た/さうして 秋がまた たたずむ と/ゆるしを乞ふ人のやうに・・・・・・//やがて忘れなかつたことのかたみに/しかし かたみなく 過ぎて行くであらう/ 秋は・・・・・・さうして・・・・・・ふたたびある夕ぐれにーー
道造が用いた言葉は、軽井沢高原の風景をよく現わしています。詩の技法は、日本語の感情を新しく「詩」という表現媒体によって、高原というものを社会化したと言えると思います。都会とは違う「高原」の独特の雰囲気を詩で示したということです。
(七) 有情なものと無情なものとの間に
道造が昭和十年三月~十三年十月まで追分で書いたノートの断片にはとても心ひかれるものがあります。こういう感覚は私には好ましいものです。魂の痛みを伴う感情の切れ切れな、切れ端に詩の言葉を滑らしています。
全集第四巻 ノートより。
私は何かのすぐそばにゐる。即ち、それを捕へてゐる。しかし、私はそれを言葉になほす、次の日私が何かのそばに行くために。
だが、何とその言葉はちがふのだらう。私を全くちがつた所に連れて行く。それは今私が捕らへたそれではないのだ。大抵は色褪せてみにくく。だから、そのために、私のそのときの今の私(その日には昔の私)を、やくざなものときめてしまふ。
私は風であり豹なのだ。
私は向こうへ行つてしまったから。ここにゐるのだ。私はひとりで同時に多くの人なのだ。私は變貌しないで私になつてゐる。それは同時に變貌している。雲は流れ消えな がら雲なのだ。雲の行為が雲にまで何の関係があらう。あれは風であり、幻なのだ。あ れは私にもなれるのだ。
「私は風であり豹なのだ。」という言葉にあるように、「私」というものが有情なものと無情なもの、両方に「私」として有る感覚というのは、とても興味深く好ましく感じられます。浅間山の稜線が街並みの落葉松林まで霧に乗って下りて来るとき、高原の道造的な豹の姿を示しているように思います。
(八) 中也的なものとの別離と「対話」について
道造は昭和十三年六月号の『四季』に「別離」という文章を書いています。中原中也の詩「汚れつちまつた悲しみに」の批評ですが、「中也的」なものへの決別でした。「対話がない」、「魂の告白がない」としています。中也の哀切の素朴さと荒々しさには、意味など不用で惹きつけられますが、道造はこうした剥き出しの感情の吐露が苦手であったと思います。二人とも啄木的な短歌から出発して、中也はダダイストでもありました。後にフランス詩のランボー、ヴェルレーヌに影響をうけ翻訳もしました。道造は、ドイツのロマン派の詩に影響を受けました。シュトルムやリルケの翻訳もあります。リルケの翻訳は「ドゥイノの悲歌」という難しいものに挑んでいます。
評論「風立ちぬ」に道造の対話についての思考が述べられていますので引用します。
立原道造全集第四巻 評論 「風立ちぬ」一二四頁より
ここに僕らの㑹話の通路がある。
人間がいゐない。あたりには空洞のやうな闇がある。呼びかけたときに木精すらかへつて来ない。ここにゐるのは自分ばかりだ。持ってゐるものはみな失われて行った。しかし、失つたものを求めることはできない。かへつて、忘れてゐようとおもふことで、もつと完全に失ふ。失ふといふこと、滅んでゆくものだといふこと、それをひとりきりではつきりと見なくてはならない。落ち葉のやうに投げられて漂ひながら、はつきりと見なくてはならない。彼が見者であるゆゑに。深い暗い遠い見知らないものがつひに引き裂く。そして、最後にそれは本當に静なのだ、一切の喪失が完成するときに。
小説『風立ちぬ』評論のこの部分の文体は洞察が鋭く、フランス象徴派の詩人・ヴェルレーヌ(一八四四~一八九六)の詩篇、ドイツの哲学者・ハイデガー(一八八九~一九七六)の「ヘルダーリンと詩の本質」を参考にしての、詩人が語る言葉の場所の深淵が述べられていて、道造自身もまた抒情の深淵を述べている。こうした心情が、詩形を整えたソネットへ向かうとき、「対話」の問いが成立してくるのだと思うのです。
(九) メルヘンの完成
詩の創作は、「無からの創造=ポイエーシス」という現れかたをするのだと思います。そこにはどんな言葉の映像が、現れて見えてくるでしょうか。立原道造の高原のノートにみられる有情のものと無情のものとの結合による第三の自己(他者)への転移、言語記号によって喚起されるあらたな日本語の感情は、読者にとって、抒情の現在の現実の生起という(我)の現れであろうと思います。野の草や花を詩の素材にした、詩の方法とソネットの技術は、追分の風景が詩を読む者に目に見えるように感じ取れます。高原の抒情が社会化されたのでした。ノヴァーリスが、《メルヒェンは、いわばポエジーの規範[カノン]である》と述べたように、道造の抒情詩は、ポイエーシスでありメルヘンの完成でした。もう一つのメルヘンは建築物です。道造が、構想した図面に基づき、二〇〇四年に「ヒアシンスハウス」がさいたま市の別所沼公園に竣工されたことも、メルヘンの完成と言えると思います。
言葉の表現は、見た人から見ていない人に伝わるだけではなく、その事柄を見なかった第二の人から、さらに未だ見ていない第三の人にも伝わらなくてはならないでしょう。読者によって詩の言葉が社会化するということです。詩の文体は、目に見えるものを書く事ではなく、脳に描かれる、脳の心理を書く事であるという持論を持つ者です。言葉を知ること、言葉を見ることの地図を歩く者のひとりです。
参考文献:立原道造著『立原道造全集』角川書店。その他は文中で示した通り。
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