2025年2月2日日曜日
鳥になった弟へ
鳥になった弟へ
小島きみ子
鳥になった弟よ
日曜日の朝にはそうっとやって来て
洗濯物を干す私の肩を掠めて
羽を一枚落としていくのだ
どういう了見なのよ?
と思っていると
姉さん
たろう山が先月燃えたのは
あいつのせいだ
わかっている?
姉さんも鳥になって
ぼくらの秘密基地
を取戻そう
さきに行って待っているからね
弟が落として行った羽を拾い集めて
羽ペンを作った
ゼブラの黒いインクで
弟が言っていた「ドゥルカマラ」
という島へ宛てた手紙を書いている
「ドゥルカマラ」って、パウル・クレーに絵があるようだから
調べてみよう
鳥になった弟よ 早く帰っておいで
赤ちゃんだったころの
小さなきみの絵を描いているよ
クレーの天使を真似して描いているよ
(こんなことで どうして怒られるのか
ぼくにはわからないよ
鳥って職業もたいへんなんだ
とうさんには怒られても
姉さんにまで怒られるとはおもわなかったよ )
嘆くな、弟よ。
たろう山が燃えたのは、
異常乾燥気象のせいで、
誰のせいでもないのだよ。
はやく帰っておいで。
ヨー子ちゃんを泣かせてどうする。
ああ、洗濯物に糞を落とすの、やめて。
1
白い空、
白い空、
秘奥の薔薇いろの空、
水鳥が飛び立っていく湖のほとり、
((おお天使の羽がこぼれてくる))
2
湖に奇蹟の物語を映す灰色の森、
まぶしい空は、
水鏡の深奥に、
有情なるものの感情を隠蔽すると同時に、
表層の仮面を剥がしてゆく。
実相を揺らすたゆたう湖の聖なる水鏡、
剥がれ落ちる表層の上に付加される仮装のペルソナをもって、
変容する森の陰影。
3
けれど神は、ほんとうに最初に「光、あれ」と言ったのだろうか。
「初めに(原初に)、言葉があった( In principio erat verbum.)」(『ヨハネ福音書』第1章1節))神もまた人間とともに生きるために、陰影のなかにそのペルソナを隠したのではなかったのか。恋人たちが愛を探して、有情なものと無常なものとが融合した感情が、湖の漣を追いかけていく。神話の中の愛、それは白鳥のレダ、黒雲のイオ、金色の雨粒に変身したゼウス。やわらかな愛の曲線。そして、もうどこにも隠れる必要のなくなった、異形なものの逆さまの陰影は、復活したイエスのように《光》に向かって言うだろう、《触れるな》と。私たちは、誘われ、私たちに訪れたものを、ふたたび、誘い訪れ返すことによって、この身が永遠(とわ)の手前で、果てしないものとなる。
4
私たちの初めての詩は、どこからやってきたのでしょうか。詩の言葉が書かれた紙を捲る、やさしい吐息のように、…夏が逝く高原の山荘ではコスモスが黄色い花粉を風に飛ばし、M! あなたのノオトの断片が燃えています…ああ、Mの声がする《 こたへもなしに私と影とは 眺めあふ いつかもそれはさうだつたやうに》*…いつかもそれはそうだっように、私にとってこの地上ではもう愛し合い見つめあうものが何も無いので、私と湖の木の影とは、世界を数値で示すために『中世の秋』を黙読しあう。詩によって「希望の意味(方向)」を見つけるために、白い空と私は、もはや形姿(figure)を失ってお互いの声だけを見つめあう。指し示すものは無く、記憶の場所だけがある。その欠落した記憶の場所に辿りつく事。それは、人の輪郭に沿う、言葉の息に重なること。信仰の薔薇を詩のうえに、詩への幻想を誘うアシジの聖クララ(名も無き薔薇)という恋人までのあらたなる霊知を見いだそうというのだ。おお、(名も無き薔薇)という天上の(秘奥の薔薇)をもとめて書物を捲る指にかけられる、限りなくやさしい先人の吐息よ。
5
((白い空、…苦悶の煌きの、…それはぎっしりと空に敷き詰められたアイスバーグの白だった、ショパンの革命のエチュードを聴いた朝。神の、やさしい吐息のように、天使と見紛う水鳥の羽がこぼれ落ちてくる))
((思い出そう、指先が薔薇の香で充ちる日、レースの手袋をして薔薇を摘んだ日のことを思い出そう、思い出そう、小さな蜜蜂の魂が、白い薔薇のなかで眠っていた姿を、あのときの眩むような白い薔薇の襞を))
6
空(そら)というその明るいひびきのなかに潜んでいる、なんという空(うつ)ろ。マリアの涙のように、白樺の樹液を集めるとき、屠られた恋人の声が白い空から落ちてくる、「Noli me tangere(わたしに触れるな)」と。それは、そうであって、そうではない恋人の声、《新しくなるのだ》とイエスがマグダラのマリアに言ったとき、イエスはマリアに永遠に蘇った。イエスの《復活》とは、今の命がさらなる段階に到達することを言うのだ、だからこそ、名づけようも無い存在であるのに、確かにここに、この場所に、それは霊知のありようとして、ここに存在するのだ。たとえば、知覚と世界の「あいだ」を占めているものを、超えていくときのように。言葉ではない、感覚のうえに。失われた記憶の場所に蘇るのだ。(世界の青さの中に 散ることのほかの未来もなく。「否、 私に触れるな」と彼は彼女に言うかもしれない、だが、否と言うことも光でできているのかもしれない。と(ボヌフォア)は言った。)その世界の青さのように。
いったいどのくらいの時間が過ぎたのでしょうか、書物のなかに意味を問う時間は虚しく過ぎたというのでしょうか、夕日が投げ込まれるベッドカバーの上に、山脈から舞い降りた、ルリシジミ蝶の陰が文字のように沁み込んでいました、《主よ、あなたは偉大でした、あなたの陰を、この蝶の心臓のうえにお置きください》まだ、わたしは、あなたが死んで復活したことを心の糧にすることができないのです、あなたの御足に香油を注いだ《マグダラのマリア》、それを髪で拭うのを止めもせずに身をまかせたのに、その甘きかつ優美な恋人の名にむかって《Noli me tangere(わたしに触れるな)》と言った、その霊の姿を、夏の日に現われた私の恋人のなかに「名前の意味(方向)」を見いだそうとしていた。名も無き薔薇クララと聖フランシスコのように。((それは、白い空、天使の羽が、毟られてこぼれてくるような、苦悶の煌き《いつかもそれはそうだったように》…私には薔薇のなかで眠る、蜜蜂の恋人がいる…白い空に籠りたい、そうすることが大切な存在を失った者の希望であるように、先人の詩にあるような、かの麗しき詩の言葉《stat rosa pristina nomine, nomina nuda tenemus.:以前の薔薇は名に留まり、私たちは裸の名を手にする》と))
7
湖の岸辺にあるクリスチャン・センターでは、やがて始まる冬の行事のために、青年が被るトナカイのキャップを縫ったり、去年人気のあったシフォンのツリーに銀の粉をかけたりしていました。ショップと教会の間を行き交う恋人たちのやわらかな腰のうえに重なりあう、楓や櫻の色づいた《木》の葉の影。布を縫う指を休めて、絡まりあう糸と布の行方を追って、永遠(とわ)を求めれば、それは風に揺れる木の葉のように恋人の《約束》を翻すものであることなど、まだ知らなくてもよかった(あのころ)。けれども、秋の《木》の葉は幾とおりにもペルソナを変装するので、そのたびに、幼い言葉で《光》の呼び名を変えなければならなかった、言葉とその意味のことは、過去からの記憶の連合によって喚起される感受性ではあったけれど、網膜の真理と、脳の心理を統合するものは、(わたくし)というものの布を縫う「意識の手」にほかならなかった、闇い岸辺で反転しあう、湖の冷ややかな水面に映る逆さまの《木》の感情、鈍いろの空の深さも、私という(もの)の姿も、私が見ているように、《木》に見えているわけではなかったけれど、木と私の影は、けだるい午睡の芝生のうえで、尾の長い小鳥に啄ばまれて割けた。
8
遅い朝食を済ませてから、櫻木の下で、濁川で釣った岩魚の燻製を作る日でした、ほのかにアンジェラの薔薇の香りもしていました。blueな空だったのに、わたしの眼は靄のなかに現われた、その霊に釘付けになりました、白いlaceの手袋をして薔薇園で花びらを摘んでいました。薔薇のなかには、眠っている私の恋人がいるのです。何故、そう思うのか、その理由など必要でしょうか。この物語の初めは、オールドローズの薔薇のなかで眠っていた小さな蜜蜂の魂の姿だったのですから。それは、煉獄で苦しむ人の姿であったのかもしれません。
手。夢の中の夢で言葉に触れた手。言葉の皮膚に触れるために必要な手はlaceの手袋をした手でした。何故、直接に言葉の皮膚に触れることをあの手は拒んでいたのでしょうか。あなたを見たのに、言葉に触れることを拒んでいる手でした。
((laceの手袋、laceの手袋、思い出そう、その小さな蜜蜂の魂が、白い薔薇のなかで眠っていた姿を、あのときの眩むような白い薔薇の襞を))
手は、薔薇の花びらをひろげていきました。そこに重要な言の葉が隠されていることを知らせるためでした。それは、愛を発見させるためでした。眼が触れることによって。触れることを、超越することが、声が刻まれている記憶の古層を突破させるものでした。
9
そのとき、(僕は必ず君と結婚する)と言ったきり行方知れずとなり、外国の女性と結婚して、この夏の高原で、キマダラセセリの乱舞するのを見ながら死んでいった、その人のことを、咄嗟に思い出しはしたけれど、(蜜蜂)は彼の霊ではなかったのです。((その白い薔薇のなかで、幸福な苦悶、の夢を夢見ている蜜蜂の魂が、この真昼に千年の魔法をとかれて、帰ってきたのか…と思いはしたけれど、彼ではなかった、ならば初霜に打たれた、白い花びらの中心を日差しにかざして、この小さな生き物を、櫻木の燃える浄化の炎のなかへ、投げ込んでやってもよかったのでした))
10
誘う声がやってきて、湖に小船を漕ぎ出す午睡時、水の精のように!ラヴェルの楽譜のように!水は戯れ、煌く。見渡す岸辺の薔薇園で、白い薔薇を摘むその霊に、すでに、わたしには蜜蜂の恋人がいる、と話しかけると、霊は、ならば、《君が、その蜜蜂に持つ愛が、何であるかを僕に教えてくれないか》と言ったきり、岩魚が水に深く潜って、砂の中に消え去るやりかたで、低く笑いながらその場から消えました。《ああ、水の精のように!》そこで、わたしはその岩魚の、消えた辺りに向かって、《あのような蜜蜂のための恋愛詩は…》それは、まだ、《言の葉がわたしたちの愛に役立つのなら》そして、あなたがこの愛の煉獄の苦しみに耐えているのなら《貴方が夏の水辺で戯れに書いた形見の楽譜でさえ》わたしが、生きていくために、かけがえのないものになるでしょう、そして今のあなたの煉獄での境遇のために祈りもいたしましょう、隔たれた年月の苦しさが水に遊ぶ光のように融けていくならば、なおいっそう連なる光の粒になって、永遠の白い空へ昇っていきましょう、そこがわたしたちの邦となる日に再び逢いまみえんために、白い薔薇いろの空へ。
それから、誰か他の者に、この恋愛の行方を、ゆるやかに眠る花びらの場所を開けるため、おそらくそうでしょう、その人は、《蜜蜂の私の恋人》に替わって水と戯れる光の粒の奥深くへと消えたのですから、私が秋の、日差しの暗がりに向かって話しているあいだに、《蜜蜂》も消え去って、花びらは萎れていました、薔薇を揺らす風、かぐわしい風が吹いて、櫻木の炎がひとたび強く燃え上がって、わたしをその煉獄の霊へとそれ以上、近づくことから守りました、《去るものを追ってはいけない》それ以上、去るものに触れてはいけない《新しいものとして生まれるそのひとのために》あの幻影が霊と知とを分けたものであるならば、かならず再び現われて、彼自身の言の葉で言うでしょう、《愛と知》を包む先人の詩篇をその人は語るはずです。
11
そして夕闇が迫り、忘れていた昼間の郵便受けには、海辺の街に住む詩人からの、絵葉書が届いていました、《おお!R!どんなに待っていたことでしょう》そして、ウェブメールボックスには、都会の病院で、外国人のための医療通訳をする、《J!》からの長い、返信メールが届いていました、《先日演奏された…あのようなあなたの優美なピアノの語法は、それこそは、わたしの言の葉が、あの画家の画に役立ったのと同じように、あなたがきょう燻製を作るために使ったであろう、岩魚に突き刺したフォークでさえ、彼にとってはかけがえのない、記憶の形見となるでしょう…》彼にとって?《僕にとって、新しく来るであろう、その恋愛のために、あなたのきょうの霊魂との接触が、やがて、知と肉とを分ける、美しいテクネーとして、あなたの上にもあたらしい《霊知の力》が訪れるでありましょう、明日の朝は、どうか濁川の淵に来てください、そして櫻木の下で待っていてください、僕はやがて、灰青色の鵯の姿で、神話のなかで籠もっていた白い薔薇の空から、メアリー・ローズ、あなたをを迎えに…》あなたを迎えに?メアリー・ローズって?
12
《J!》あなたを待っていました。野焼きの煙にまみれて、私はきのう出あった霊(ルアハ)と見紛う姿で、灰青色の鵯を待っていました。《J!》あなたをどうやって探せばよかったのでしょう。((ああ、laceの手袋、laceの手袋をしていましょう))
歩き回るうちに見知らぬ薔薇園に立っていました。そこには私の大好きな、オールドローズの白薔薇が咲いていて、あなたのためにローズピローを作ることを思いたち、私はしばらく薔薇摘みに熱中しました。振り返るといつの間にか私を見つめる《J!》あなたに出会いました。そして、あなたの黒い瞳のなかに私は埋もれていきました、月光の射す眩い闇のなかで、幸福な夢を見ました。ダナエのように蹲り、苦悶の煌きが花びらのように押し寄せるのに身を任せました。
そして再び白い空が開け、鵯が鳴きました。おまえは、おそらくは絨毛な言葉の舌を持つものであったのであろう。そうでなければ鳥の化身にも薔薇の化身にも、ましてや《J!》この電子ウェブの網をくぐってわたしの皮膚に、あなたの声をどうやって浮き上がらせたのでしょう。声の書字性は、意識の反照に過ぎないものであって、痕跡や差延といってみても知の契機である他はないのだとしても、煤けた白い空からどうやって、あなたは、この私の薔薇園へやって来たというのでしょう。それがまた知の身代わりとして、メアリー・ローズの薔薇の名を呼んで。それは(聖フランシスコ)と(聖クララ)に思いを馳せることでもあるのでした。最初の(薔薇)とは、何であったか。「ロザリオ」は、サンスクリット語の(ジャパ・マーラー:唱えて祈る輪)の直訳、そして(ジャパー)とは(薔薇)を指す…白い空、こぼれんばかりのアイスバーグがまたしても降ってくるのだ《天使の羽が、神の裁きによって毟られてこぼれてくるような》…すでにそこに来ているのですか、いいえ《ただあなただけに仕えるものとして》そしてそれは、あなたのなかにある愛に仕える、ことを見出すことによって。(兄弟フランチェスコが植えた草花)と言い残したアシジの聖女クララ・シフィこそが、(名も無き薔薇)だった)
((神が名づけた名、原初の薔薇《stat rosa pristina nomine, nomina nuda tenemus.》の名のように、その薔薇を摘むlaceの手袋をした手、その霊と魂を分けた、《愛と知》の名前を聞いて感じました、《私の蜜蜂の恋人》その恋人が死んだ朝、苦(にが)いポプラの樹液を飲み干して、白い空(うろ)に籠もっているとき、甘きかつ優美な愛の詩を書いた先人たちの父のなかにいました))
13
《私の蜜蜂の恋人》はやってきました、《苦悶の煌き》として、意識の古層に眠るあなたを通り過ぎた、激越なるあなたのパッションの調べを纏って、おお!見よ!その人の皮膚に刻印された《風と豹の苦悶の煌き》を、ベッドに横たわる私の心臓の上に重なる声の影
《 こたへもなしに私と影とは 眺めあふ いつかもそれはさうだつたやうに》と。記憶の第四深層に、それは蘇った青年イエスがマグダラのマリアのなかで新しく生きるものであるように。きらめく水の精、戯れる水の精、私が《蜜蜂の恋人》に寄せる愛とはまさしくかのひとへの愛と見紛うものであるように、はじめの薔薇であり、ひかりであり、記憶の深層において、《蜜蜂の恋人》への愛は始まったのでした。それ以上は《触れてはならぬもの》でありながら、魂のなかにあって霊知のはたらきのように《愛と知》としてやってくるもの、詩篇はまさに、詩人《M》の言の葉のように、《私は風であり豹なのだ。私は向こうへ行ってしまったから。ここにゐるのだ。私はひとりで同時に多くの人なのだ。私は変貌しないで私になってゐる。それは同時に変貌している。雲は流れ消えながら雲なのだ。雲の行為が雲にまで何の関係があらう。あれは風であり、幻なのだ。あれは私にもなれるのだ》*…愛とは、新しい信仰の発見であり、言葉の世界の創造でもありました。
――(註)――
1.記憶の第三層と「立原道造詩集」
私の記憶の第三深層で、なつかしく私と語り合う詩人《M》、もちろん立原道造です。詩句の引用は、:「立原道造詩集」:立原道造著・第四巻・1972年初版・角川書店刊:からです。《 こたへもなしに私と影とは 眺めあふ いつかもそれはさうだつたやうに》そして、《私は風であり豹なのだ。私は向こうへ行ってしまったから。ここにゐるのだ。私はひとりで同時に多くの人なのだ。私は変貌しないで私になってゐる。それは同時に変貌している。雲は流れ消えながら雲なのだ。雲の行為が雲にまで何の関係があらう。あれは風であり、幻なのだ。あれは私にもなれるのだ》と。記憶の第三層から第四層に向けて詩人が、自己を越えて発見するもの、「この限界」とは。「個別的な実存」とは何でしょうか。
2.詩の言語空間と「記憶の最深層」
さて、詩を創造するにあたって詩人たちが苦しみながらもその言語の悦楽に出会う詩の言語空間は、どこに存在するのでしょうか。(始まり・原理)について考えていくと、実体と本質は、区別でない区別、ということになる。「始まりとは物が最初にそこから動き始めるところのものである。」と。
arkhee legetai hee men hothen an tis tou pragmatos kineetheiee prooton
beginning is said the x from which so some of the things may move first.
「記憶の最深層」のイメージがビジョンを導くという図式が、関連付けられるのは、アウグスティヌスのいう、人間の記憶の第四層。アウグスティヌスによると、第一層は動物も持つもので、物体的な事物の心象を蓄える。第二層は心の感情を蓄えている。第三層は記憶の中で自分の心が占めている心そのものの座所。これらの三層には神は存在しない。そしてこれらの層を超越した「記憶の最深層=第四層」において、『私の記憶を超えた、あなた(神)において』神を知ることができるとされる。
3.「個別的な実存」
「個別的な実存」とは:イヴ・ボヌフォアの『ありそうもないこと―存在の詩学』(阿部良雄、田中淳一、島崎ひとみ、宮川淳、松山俊太郎訳、現代思潮新社、2002年):(「ここに投げ出され、ここに在ることに驚き、自分にとって謎であるのと同じように詩人にとっても謎であり、詩へと運命付けられてしかもなお、その逆境の極みにおいて、自らのうちに逆説的な歌を生きさせることの出来る白鳥とは、死に絶えようとする、あるひとつの詩の中で初めて、至上権者として確認された、個別的な実存なのです。白鳥はここであり、いまであり、この限界である。それこそは、詩が絶えず、純粋で激しい危機、感情のでもあり思惟のでもあるような危機の中で、発見し直さなければならないものなのです」)。
4.「私に触れるな=Noli me tangere( ノリ・メ・タンゲレ )」
そのとき、『私の記憶を超えた、あなた(神)において』、言葉の光はやってきているだろう。「言葉」とは「霊」と「知」。そして「魂」と「霊」。「知」と「愛」…「愛」の創造こそが「詩」かもしれない。
イエスという名前は、ヘブル語では「神は救い主」という意味。「ナザレのイエス」、「キリスト・イエス」(キリストとは姓ではなく、ある職務のために香油を注がれた者の意味)という場合はこの聖書で啓示されている神:人であるイエスを指す。イエスという名。その名の持ち主が、復活した朝、最愛の女性に言った言葉が、「私に触れるな( ノリ・メ・タンゲレ )」です。この(パロール)は詩と言う世界が存在する場所、「記憶の最深層」への挑戦ではないでしょうか。ジャン=リュック・ナンシーの著書「私に触れるな」も絵画表象に潜む触覚に論及していきます。ベラスケスやティツィアーノによって描かれたこのイエスの復活というテーマは、新しい愛を表現しています。「きみが眼前に見た者はすでに出会いの場所を離れているのだ(36P)」知ることは触れることですが、触れるとは、脳髄において知の変容を経験することだと思うのです。経験とは変状です。肉体を伴うことなく、それよりも深い愛の経験をすること。詩の創作とは、激越なるパッションを経験する言語の悦楽。言の葉が霊と知とに出会い、愛と知を経験することです。「私に触れるな( ノリ・メ・タンゲレ )=Noli me tangere」(Jean-Luc Nancy ジャン=リュック・ナンシー著 ; 荻野厚志訳・ 未來社, 2006.年)から引用しましょう。「(…)そこでイエスは自らに触れるように彼らを招き、彼が生身でそこにいるということを彼らに確認させるのだ。信仰は劇的なものを期待し、必要とあらばそれを発明する。信とは、普通の眼と耳にとってなんら例外的なもののないところで見ることと聞くことである。」そして、記憶を遡れないものを感受すること、「私に触れるな( ノリ・メ・タンゲレ )」とは、「手」ではなく、記憶を超越する霊知によって(触れる)ことを要求しているのではないか。「私に触れるな( ノリ・メ・タンゲレ )」という言葉によって、記憶の最深層:第四層へ誘っているのです。広い愛とは、狭義の宗教ではなく生命の深層へ触れることへの「言葉の手」の触覚を誘(いざな)っているのです。
E.M.シオラン「絶望のきわみで」( 翻訳:金井裕・紀伊国屋書店)
●
15P.:私たちが真に情熱的になるのは、深刻な有機体の混乱に見舞われたあとに限られる。偶発的な情熱は外的要因から生まれ、そして外的要因とともに消えうせる。内的狂気の一片、これがなければ情熱はない。(・・・)狂気とは、情熱の発作ではないか。・・・情熱とは一個の野蛮な表現である。すなわち、その真の価値はまさしく血、率直さ、そして炎以外の何ものでもないところにある。
58P:メランコリーの審美的諸要素には、有機体の悲しみによっては与えられぬ未来の調和のさまざまの潜在性が含まれている。有機体の悲しみはかならず償いがたきものに行き着くが、これに対して、メランコリーは夢と気品にみちている。
生死を越えた同時性の微笑みとは 小島きみ子
ヘルマン・ヘッセ「シッダールタ」を読む
ヘッセの「シッダールタ」を再読した。若いときに読んだ数々の小説のことも思い出していた。二〇一一年三月十一日から引き続いているのは、精神(スピリット)と、自然という身体の傷を克服することだと思っている。ありとあらゆるものがそのあるべき姿を破壊され瓦礫となった。セシウムが降っている。元素の有毒性はわずかであっても、放射性同位体は体内被曝を引き起こすという。これは第二次世界大戦後の日本における人災のなかでも最大規模の恐怖だと思う。ここから精神(スピリット)が立ち上がるには、ヨブのような絶望を克服することから始まるのかもしれない。そして、言葉は深く野望することだ。どんな知恵をだし、どんな愛で立ち向かえばよいのかを。知と愛はちかくにいて、知の技術は愛を行為することだから。
「知と愛(原題Narziss und Goldmund ナルシスとゴルトムント)」は、ヘルマン・ヘッセ(Hermann Hesse一八七七年~一九六二年)の青春小説。ヘッセは二十世紀前半のドイツ文学を代表する文学者。車輪の下、デーミアン、知と愛、と読んだのは十五歳のときで、その後に詩集も読んだけれどもあまり覚えていなくて、ドイツの詩人は、主にリルケとゲーテを読んだ。それで今回は、ヘッセ全集第十六巻・全詩集(臨川書店)も読んでみることにした。全詩集は一八九五年から一九六二年までの作品を網羅し、時代を七つに区切って編集されて、解説まで五三一ページ。同じタイトルで書かれた作品もいくつかあります。心がそこへ戻っていき、もう一度見つめ返すことを恐れない、ひるまない、強い精神があります。青年期は恋愛の時期で甘くロマンティックです。恋人に捧げた詩篇から失恋まで。失意ののちまた新しい愛を得て、小説を書けるようになるまでの心の奇跡。ヘッセの愛の遍歴が自然の風景とともに精神の風景画のように描かれています。豊かな愛情が人にも自然にも降り注ぐまなざしを感じます。十八行の詩的な序文で言っているように、「それらは過ぎし日のかけがえのないあかし」こうしたすべてがあって、ヘッセの文章は深く心にしみとおるのだと思う。そんなことを思いながら、この稿では、高橋健二訳の「シッダールタ」のみを再読していきます。
*
ヘッセとの出会いを思い出すと、「知」を考えるときの根底には若いときの読書経験によるヘッセの「知」があったのだと、改めて思った。以前のエッセイを修正していて気がついたのは「哲学とはphilosophia 知恵を愛する事であり、その言葉との格闘は、詩情poetic sentiment へ向かう過程にある」ということだった。「知恵」と「愛」を結びつけるものが、知を実践へと誘う思考の力だと思う。これを経て「エートス」、「エチカ」へと、さらにはその通路にこそ「タナトス(死)」と「エロス(生)」が存在すると思う。
ヘッセのシッダールタを読みながら、こころの中に泉が湧き出るように、憧れや希望をもたらすような思想を超えた、無上の微笑みのその「顔」に出会えたら幸いだと思う。今は仕舞われた新潮文庫の「シッダールタ(ヘルマン・ヘッセ著 高橋健二訳)」の付箋のある箇所を再び読む。「互いに助け合い、愛し合い、憎しみ会い、滅ぼし会い、新しく生みあっているのが見えた。どれもが死のうとする意思、無常の痛切な告白であった。しかも、どれもが死にはせず、変化するだけであった。絶えず新しく生み出され、絶えず新しい顔を与えられた。」
無数の生死を越えた同時性の微笑みとは、あのコリント書十三章の第十二節にある
What we see now is like a dim image in a mirror; then we shall see face-to-face.(いま、わたしたちは、鏡に映ったおぼろげな像をのぞいている。しかし来るべきときには、わたしたちは真の像と正面から対峙することになろう。)にも微妙に符合するのではないかと思う。「シッダールタ」の最終行に。
「身動きもせずに座っている人の前に、彼は深く地面まで頭を下げた。その人の微笑が彼に、彼が生涯の間にいつか愛したことのあるいっさいのものを、彼にとっていつか生涯の間に貴重で神聖であったものを思いださせた。」無上に深い愛と無上につつましい尊敬の感情がこころのなかで火のように燃えた。というこの箇所にも深く感動した。ここで「無上」という言葉が使われているが無上とは「この上もない」という最高のものを言います。美しいひびきです。一五〇ページに。「御身は罪びとのなかに、御身のなかに、一切衆生のなかになりつつある。あらゆる乳飲み子は死をみずからの中に持っている。死のうとするものはみな永遠の生をみずからの中に持っている」とある。誕生した子どもがその中に死を持っているように、朽ちていく老人のなかにもあらたな生があるはずだ。生きているものが一切の苦しみから解放されるのは「死」しかない。このときの「死」は成就であって絶望ではない。「幸福」のように存在するのはなぜなのか。死とは神聖なもの。無上のもの。それなのに、もとめている途中で無上の微笑みに出会わずして、生きることが破壊されてしまうのは無常の無念でしかない。
*
シッダールタとは、釈尊の出家以前の名前です。成就したもの「シッドハ」と目的「アールトハ」との結びついたことばによっています。ヘッセ自身の宗教的体験の告白ですが、心に沁みるように、というよりも心が文字と一つになるように、エチカの知、あるいは知のエロスといったものが、魂と魂の対話のように書かれた文章です。「一つ」なるものの姿が示されています。人の完成に向かって、人の形象のうえを巡礼するシッダールタの姿にヘッセ自身を重ね合わせた、「知と愛」の告白でもあります。心が開放されていきながら、文学に浸る喜びのなかにいる自分の魂を感じ取ることができると思います。そして心の衷からあふれてくる内なる「声」に気づかされるでしょう。困難に立ち向かう時に、どういう心であるべきかと問われたら、「虚栄」を棄てていれば、道はひらかれてくる。そのように思わされます。老いたシッダールタがゴーヴィンダと再会したときの言葉。シッダールタがシッダールタになるための完成に向かっています。認識のその「識」が深まり超えていくときの様子がみずみずしくありありと書かれている。その深いよろこび。「認識の超越」の場面。ヘッセ自身が自分を探求するなかで、「超える」ということを掴んだ瞬間が描かれていて、みずみずしい。まずはゴーヴィンダの問いがあります。彼はまだ、自分を認識することができない。故にシッダールタに問う。
「だが、おん身が『物』と呼ぶものは、実在するもの、実在のあるものであろうか。それはマーヤ(迷い)のあざむき、形象、幻影にすぎないのではないか。おん身の石、木、川ーそれらはいったい実在であろうか」シッダールタは次のように応える。「それもさして私は意に介さない。物が幻影であるとかないとか言うなら、私も幻影だ。物は常に私の同類だということ、それこそ、物を私にとって愛すべく、とうとぶべきものにする。だからわたしは物を愛することができる」と。愛のありようとして、「物」が「同類」と捉えられています。
応答のなかで、言葉が言葉の核心に向かっていきます。言葉の輪郭が見えてくる。物が現れてくる。「現れる」ということは「命」があるということです。それ故に、物は自分と同じである。だから物の命を愛することができる。それなのに、この現実がすべて幻影であるという、現実とはいったい何か。個人的な見解を述べると、見えているものは見えているようには無いということ。知っているようには無いということ。それが「認識」を超越するということ。「こころ」を「こころ」で知るということ。仏教唯識学派の「識」の姿がここには在ると思う。この「識」の考え方は、釈尊の原始仏教の考え方なのです。
ヘッセはこの応答の場面で、川の流れから「愛」のありようの時間の超越の境地に達するのです。きびしい苦行の果てに、ようやく達した「微笑み」でした。
*
「シッダールタ」は一六〇ページほどの短編です。けれどもここにあるのは、清らかな抒情と、求道するものの苦しみ、愛の懊悩、眼に見えている幸福を棄てたときに見えた「同時性の微笑み」、それによってはじめてやってきた魂のやすらぎがあります。
参考文献
・ヘッセ全集第十六巻・全詩集(臨川書店)
・「シッダールタ」・ヘルマン・ヘッセ著 高橋健二訳(新潮文庫)
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