2020年3月28日土曜日

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2012328日の想い出)
いろいろな郵便物に混じって、郵便局の宅配便が届きました。箱は大きいのですがとても軽くて「紙類」と書いてあります。春休みで隣の県へ帰省しているRさんからです。箱を開けると、去年、1ヶ月だけ付き合った中学3年生の二人の男子生徒からのメッセージと卒業記念写真。模造紙に書かれた英文は2月の英語科の授業の課題だったらしい。私の詩を「むずかしくてわからないけれど美しい」って感じてくれてありがとう。宝物にするよ。志望高校に合格、おめでとう。よい日よ、きょうは!


2012328日のFace Book 投稿からの写真です。このとき1ヶ月だけ付き合った、中学3年生の男子2人は、その後希望する高校へ進学しました。そして、長野県の仕事である進学高校へ2015年の7月に行ったら、「ええっ!まじ!」とか言って近づいてきた男子生徒がいました。「きょう、参観日で来たの?」「違うよ。仕事だよ」いま、この3月、彼等は順調に行けば、20154月に大学生となり、既に20193月に卒業していたのだ。どうしていますか?みんな元気でいますか?都会の暮らしは、どうなんだろう。

2020年3月27日金曜日

―― 元木幸治の舞踏「絶句」の強度 ――


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詩論集『思考のパサージュ』(
2001年私家版)

小島きみ子詩論集『思考のパサージュ』(20017/エウメニデス社)より。
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元木幸治の舞踏「絶句」の強度 ――

元木幸治の舞踏「絶句」に出会ったのは、九八年十月、元公衆浴場のボイラー室がその舞台だった。元木のパウダーまみれの皮膚に出会い、すぐさま異次空間に引き込まれていった。彼の皮膚と内臓は激しいヨーガの修行者そのものだった。そして露出する脳ともいうべき手の動きにひどく引きつけられた。その手、その指は、非言語的言語を表現する肉体の言語だった。  以前から、手話(Sign Language)や身振り言語によるノンバーバル言語(非言語的言語)の言葉と音の存在の仕方に関心があり、元木幸治の舞踏との出会いは言語をめぐる「声の在り処」を思索する思考のパサージュとなった。
 今回この場所では「絶句」の強度が観客に及ぼすエモーション([emotion] 情動)と肉体の言語について考えてみたいと思う。元木の舞踏の強度に対抗する強度が文字言語で表現することができたら、読者にも彼の映像を脳内視覚の内にエモーションとして伝えられると思う。
 元木の舞踏は空間を裂く両腕とそのしなやかな指先の動きに魅せられる。彼はすでに人間のかたちを離れて水中生物のごとく、空気の水の流れを掻く。水は裂かれ、時間のゲルが、彼の指のかたちに開く。私たちは開いた時間のドアを彼とともに移動する。異次元の扉は私たち自身の自我と肉体との境界の扉であり、肉体への信頼がなければ、私たちは内的自己(インナー・セルフ)を開放して彼とともに時空を越えることはできない。この空間は絶対的な時間と相対的な時間が混在する場所で、いわば無意識が意識のうえによびだされた魂の開放された場所ということになる。それゆえに象徴的な人間の姿として、パウダーの皮膚を露出する必要があるのだろうと思う。彼はほとんど瞼を閉じているように見える。目で見える物のかたちを私たちに伝えようとしているのではなく、心で感じ取るものを伝えようとしているのだろう。この目に見えないかたちを伝えるために、彼が裂き続ける空間のなかに畳まれていたものを言葉に翻訳することがこの場所で私が物を書くという作業になる。自己開示された肉体は、魂の限りなく自由な存在であり、その発信されているものを受けとめることは、私たちもまたこの身体を自己開示していくことになる。この開放された魂の肉体の言語を翻訳することは、無意識と意識を往復することになり、意識のうえに無意識を意識的に反転させる「異常」が彼の舞踏に対抗する私の文章の強度となる。
 「魂の開放」という目に見えないものを表現することはVirtualiteの空間を現出させることになり、象徴的な言語のサインを魂のフォルムで受け止めることになる。そのとき、私たちは舞踏を通して魂が共振する。この共振がエモーション(情動)であり、彼の指先が切り裂いた時空を飛ぶ。飛び越えることは、超えることでもあり、自我を超えて新しい自己と出会うことをも意味する。「絶句」を鑑賞するその空間でトランス・パーソン(自己超越)を自我の段階で経験する。このとき、舞踏の表現が最高の相互的コミュニケーションとしてそこに存在する。
 Virtualiteとは一種の虚像であると同時に表現不可能なものの潜在する可能性を成立させる空間であり、その空間に存在する肉体の言語が元木幸治の言葉で言う「BUTO」だと言うことができるだろう。裂かれた時間の襞に畳まれていた言葉が元木自身の「そっちはあぶないよ。こっちへおいでよ。」とその口腔から音声言語として聞かれる時、思想が純粋な感覚として結晶したすべてがそこにあるように思う。私たちは既成の概念の「意味と存在」の解体と生成を果たし得ただろうか。彼の存在にふれたあと、私は自分の手と指を彼に真似て空中を掻いてみた。この動作を三分間程度でも継続させることは至難の技である。思うことと、かたちになることの何と遠いことか。そのことはいかに私たちの自我と肉体が遠い存在であることかを知らされる。また、その逆に自我と肉体がひとつであるとする思考の矛盾にも気づかされる。つまり、この肉体の主体は自己自身であり、自己の外側に絶対なるものの存在は無いのだということをも知るのだ。そしてまた、魂が開放されるとき、その肉体が言葉の初源としての声を発するとすれば、内的自己こそが自己自身を導くものであるということが自然と知れる。このことが元木のメッセージ「人は泥から誕生する」ということと連動して考えられる、「BUTO」の強度だろう。肉体のエクリチュールから見えないものの形にふれる「美」への接近は元木の独自の方法で、この社会の人間の存在のありように挑戦しているとも見える。
「そっちはあぶないよ。こっちへおいでよ」と。




画像に含まれている可能性があるもの:1人


 見えるものの意味と価値ばかりの社会の常識で生きている私たちの仮面は、脱ぎ捨てられると同時に新しい仮面を被り続けるのだが、指先に神経を集中させてこの空中を裂いて見よう。「もの(物)とかたち」の本当の意味が必ず「もの(物)」自体からやってくるはずだ。見えないもののかたちの表象を創造する芸術言語の秩序は精神が物質としての自由さを獲得することにあるだろう。やがて物そのものの自由の精神性が物語になる。 

2020年3月25日水曜日

Pansy 月光ほか

探していたPansy 月光を買い、プランターに移植できて良かった。(2020/03/25)










濃いブルーから、真珠色のブルーまで。






Pansy Blue.色の濃さ、花の大きさともに探していたもの。



パールブルー。これも美しい色です。






小さな黄色い光。




シクラメンの鉢の中で、零れた種から開花。
野生の花のたくましい力。




白いミニシクラメンは、昨年直売所で購入したポット苗。
夏は路地で休眠して、11月に室内に取り込んで、花芽を出して開花した。
その鉢のなかに零れていたタネツケバナも咲いて、莢をつくり、既に種子を飛ばした。
限りなく、つなぎ合う小さな花の命。











2020年3月22日日曜日

2020/03/22   春彼岸の花たち

Cedar Roseの木の実が今年は採集できなかったのですが、ドイツトウヒを採集しました。洗浄して彩色。パンジーと。
箱を探して、オブジェにできると良いです。








きょうの高原地方の梅の花。盛りなり。2020/03/22



オドリコソウ





今のところ、この鉢はタネツケバナだけ。




ムスカリが、20本咲き始めました。









ハルノゲシ・ビオラソロリア・タネツケバナ・ワスレナグサ。
木々のなかには、人の手による世話を受けなくても、落ちた種子から自発的に芽を吹き、めでたく成長して枝を張り葉を茂らせ、強大な木として聳えるものがある。ローマの詩人ウェルギリウスはその「農耕の歌」(Gergica,ゲォールギカ)の第2巻に歌っている。泉井久之助著「ヨーロッパの言語」(岩波新書)を参考.













今年の3月は水分が少ない。
実生のビオラソロリアがあまり芽吹かず、花が咲かない。
購入したパンジーとビオラを移植して、株が増えていくのを待つ。


枯れ葉のなかで咲いたポリアンサ。健気に次々と咲く。



花の手入れの合間に、詩集書評を書いている。手強い。


アフリカコーヒーと♥形の煎餅で休憩する。

お裾分けした林檎ケーキ。


魚肉練り製品とジャガイモを千切り生姜で煮る。
三陸細切り昆布など。



カサブランカは、鬱陶しい気分を鎮める。








カサブランカとスプレーマム(アメリカ菊)



広瀨大志さんの詩集を読む。



ビオラトリコロール(3色スミレ)
青黄色白。





今年のお気に入りビオラ。




Pansy Picasso Brooch.





Pansy Picasso Brooch blue.



Viola Sororia.ビオラ・ソロリア(パピリオナケア) 青いスミレ色。
アメリカスミレで、原産は北米です。
アロエの鉢に種が零れていて増えています。
少し色が薄いのは、ビオラ・ソロリア(プリケアナ)で、もうじき、
実生のものが発芽してきます。
絶えてきているので、心配です。
5月に咲きます。





先日の雪の中のガラスの花。
球根です、増えてきて嬉しいです。
咲くのは5月です。






プリムラ・ポリアンサ





パンジーの形を整えて押花にします。






白いミニシクラメンとタネツケバナ





ミニ薔薇・スカーレット。



鶏肉と細切り昆布の和風煮物。
生姜の千切りを入れるのは、免疫力をつけるため。




スカーレット。




アフリカコーヒーで休憩。




ジャムパン。
レッドルバーブジャム。









ピンクのパンジー。
あまり咲かない。







今年の収穫のマツボックリ。





新しいPansy。
とても良く咲く。



















エウメニデス59号批評 柴田望




北海道の詩人柴田望さんが、エウメニデスⅢ 59号の批評文を寄せてくださいました。
詳細な解説、嬉しく思います。詩作品への理解、詩集批評文への理解、ともに「言葉への愛」の力、無くしては到達できません。
詩は、現実の時間を追うことが理解では無くて、詩の空間が存在して、言葉を越えて、画像の作品イメージ(脳内映像)と批評が導き合うとき、至福の瞬間が来ていますね。言葉にとっての至福の空間は、「音楽になっているとき」かもしれません。私にとっての音楽の喜びは、音が描く像ですから。それは、作者と読者の「響き合い」です。ありがとうございました


詩誌「エウメニデス
」第59号(2020130日発行)を購読させて戴き、先月届いておりましたのですが、ようやく読むことができました。詩三篇、書評、散文、30ページに込められた広大な詩世界。


 高塚謙太郎氏の「音をつれて」を、ラフマニノフ、モーツァルトのソナタ、ドボルザーク等、様々なピアノ連弾曲を聴きながら何度も拝読。「舫いは雫のしたに降りていて」「舫い(もやい)」とは船を綱でつなぎ止めること。二人の弾き手の呼吸をつなぐ、飼い主と犬、姉と妹(弟?)による航行に奏でられる街のビジョン。「目は凝らされる方から 静かに」 店の窓、少女の笑顔、日差しの進行、水の流れ、国境の通り、山なみ、音として立体的に浮かびあがるよう。


 小笠原鳥類氏の「牛の首の版画 牛の音の図鑑」。「牛」「テレビ」「ピアノ」「版画」「図鑑」「粘土」「恐竜」「馬」「木」「魚」何度も繰り返し登場する詩句のレコードの回転によりイメージが醸成されている過程、錬金術空間を体験させられる詩法は、詩誌「まどえふ」の橋場仁奈さんの諸作品の詩句の繰り出し方も共通するように感じました。会社で一つのプロジェクトに携わって、何度も同じ言葉が登場する会話を、限られた少人数と交わしていることがあります。語彙(関係者以外にはわからない専門用語)は増減を繰り返しつつもだんだん変化して、突如、問題解決の啓示が降りてくること。「いろいろな熱帯魚図鑑があるなあ。熱帯魚が、小さな虫なんだ/虫を食べる。「牛の先祖の化石の出る黄色い崖」が/黄色い絵の具だ。あの土が、絵の具になるんだ、絵の具の材料である/黄色い、ひまわりの、絵を、描いて、回転、している…… 太古の化石や鉱石が神秘的な発色の画材に。


 小島きみ子さんが丁寧に書かれた〈書評〉に導かれ、昨年発行された下川敬明さんの詩集『雨 その他の詩篇』(土曜美術社出版販売・2019817日)を再読。「一如(いちにょ)」の思想と感受性、「存在の連鎖」の観念の基盤となる「一にして全」、ペルセウスの母ダナエのクリムトの美しい絵のこと、新たな発見とともに下川敬明さんの詩作品への理解とイメージを深めることができました。一昨日25年を迎えたオウム真理教事件、死刑確定者の刑執行を題材にした「1120」や北朝鮮からの大陸間弾道「Missile」。世界の悲しみを、雨が洗う。小島きみ子さんが「人が人を愛して、愛する者を守って生きる決意をするとき雨はふたりを、溶け合ってもはやこの瞬間を逃れることのできない一つのもの(一如)として表現している。」と評された『雨 その他の詩篇』各章冒頭の「雨」と題された下川さんの作品に登場する「きみ」と「ぼく」の俤が、「エウメニデス」第59号の小島きみ子さんの詩作品「秋の小箱」の「あなた」と「わたし」に重なる瞬間を感じました。


 「花と花が/地上に有るように/人と人も/この地上に/有るものだから/ただひとつの 心と魂だった/離れて響きあう愛の声だった/ただひとつの 心と魂だった」(「秋の小箱」)。
 WB・イェイツがWind among the Reeds 『葦間の風』で「薔薇」にたとえた、生まれ変わりの後でもこの世で出会う「大切な人」。「離れて響きあう」 私たちが暮らす時空では、「引き合う力(万有引力)」と「引き離す力(万有斥力)が混在している。生と死の、虚と実の空間が重なりあう、宇宙の中心のような出会い、接するゆらぎを詩は捉える。

2020年3月17日火曜日

20200317 memo「カシ語」


カシ語(Khasi)はオーストロアジア語族に属する言語である。話者は主にインドのメーガーラヤ州に居住するカシ族の人々である。カシ語はモン・クメール語派に属し、同じ東部インドで使われ、オーストロアジア語族に属するムンダ語派とは言語学分類的に遠縁である。アッサム州のカシ人。サンスクリット語で『雲の住みか』という意味。ノカリカイ滝の名は昔滝の上流に住んでいた Khasi(カシ族)の Ka Likai(カ・リカイ)という名の美しい女性の悲しい伝説に由来している。 Khasi Hills(カシ高原)と呼ばれる地域がある。(カシ語とカシ族のこと)

「アッサム州のカシ人のある者は、毎年疫病の悪魔を放逐する。この祭儀は〈バー・ディエン・カラム〉すなわち「杖(dieng)で疫病(khlam)を追い払う(beh)」で、これは満水の月(一月)に行われる。追放日には、男達が早く起きて、屋根を杖で叩き、疫病の悪魔が家から出て行くように叫ぶ。」神成利男訳『金枝篇』(国書刊行会)

2020年3月13日金曜日

20200313 日記

晴天の13日の金曜日。
とても良い声で鳴いていた、白い鳥がいて、撮影しようとして逃げられました。
いつか撮影したい。時々来ます。







室内で育てていたパンジーとビオラを、プランターへ植え替え。
今週の日中の平均気温が15度を超えるので、大丈夫かなと思います。



青・黄色・白と咲いてくれた。
ビオラ・トリコロール(3色菫)です。が、青・黄色の2色だけもあります。


白が綺麗に出ている、3色菫。2色菫がトリコロールになるのは、とても珍しいのです。
自家製の種だと、何年も咲いているうちに、3色になります。
でも、年数がかかります。
実生のビオラソロリアも僅かしか出ません。


Pansy Picasso yellow.

ポリアンサと実生のビオラソロリア。


休憩。


窓辺のカサブランカ。


スプレーマム(アメリカ菊)。


ガラスの花の発芽。球根です。咲くのは5月。



実生のビオラソロリア、庭の彼方此方で、だんだん咲きます。


1号の大きさの押花。




1号の大きさの押花。



ワスレナグサではなさそうだけれども、プランターに移植した。青青している葉っぱ。