2017年2月15日
自己と自我。自我と非我。そして(エス)。|小島きみ子
なぜ、こうした自己と自我。自我と非我。(エス)にこだわるかというと、文章の文体は人称によって文体が決定するからです。
①自己と自我の関係と、②自我と非我の関係を2016年の今頃から考え始めて、二冊の良い本に巡りあえた。①は、FBF,の今野哲男さんの紹介による『臨床哲学の知』。②は、高橋巌著『シュタイナー哲学入門』(角川選書 213)ここでは、①について簡単に述べます。芸術創造の現場では、外側で現象させている「私」というものと「私」を感じている自己と、「自己」を見つめ返す「自我」を統御していくのが「エス」というものではないか、と私は思う。精神の奥深く、実装と深層の間、「間=仮面」にも関わってくるなと思う。163Pにたいへん重要なことが書かれている。「エス」のことだ。
日本語で理解する、感じとる方法は、中国からきた漢字の自己、自我、非我という言葉もあり、それもまた日本語への誤訳もあり、この短い文章の中でそれらを述べることは困難です。ひとまず、木村敏著・聞き手=今野哲男『臨床哲学の知』の感想として、「エス」は、《われわれ一人ひとりが生きている人生、あるいは個々の生命といってもいいのですけれど、それがエスによって「生きられている」》163P。「第三章 生きる主体」より。私が、思うというのは、そう感じているということで、感覚がするどく文字の上をなぞって、その場所に到達した。
そして、アマゾンで購入したユーズド本『臨床哲学の知』が四月に復刻されるそうです。嬉しいです。よかったです。(この文章は、2017年2月15日にFace Bookへ投稿したもの)
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。