詩論集『思考のパサージュ』(2001年私家版)
小島きみ子詩論集『思考のパサージュ』(2001・7/エウメニデス社)より。
―― 元木幸治の舞踏「絶句」の強度 ――
―― 元木幸治の舞踏「絶句」の強度 ――
元木幸治の舞踏「絶句」に出会ったのは、九八年十月、元公衆浴場のボイラー室がその舞台だった。元木のパウダーまみれの皮膚に出会い、すぐさま異次空間に引き込まれていった。彼の皮膚と内臓は激しいヨーガの修行者そのものだった。そして露出する脳ともいうべき手の動きにひどく引きつけられた。その手、その指は、非言語的言語を表現する肉体の言語だった。 以前から、手話(Sign Language)や身振り言語によるノンバーバル言語(非言語的言語)の言葉と音の存在の仕方に関心があり、元木幸治の舞踏との出会いは言語をめぐる「声の在り処」を思索する思考のパサージュとなった。
今回この場所では「絶句」の強度が観客に及ぼすエモーション([emotion]・ 情動)と肉体の言語について考えてみたいと思う。元木の舞踏の強度に対抗する強度が文字言語で表現することができたら、読者にも彼の映像を脳内視覚の内にエモーションとして伝えられると思う。
元木の舞踏は空間を裂く両腕とそのしなやかな指先の動きに魅せられる。彼はすでに人間のかたちを離れて水中生物のごとく、空気の水の流れを掻く。水は裂かれ、時間のゲルが、彼の指のかたちに開く。私たちは開いた時間のドアを彼とともに移動する。異次元の扉は私たち自身の自我と肉体との境界の扉であり、肉体への信頼がなければ、私たちは内的自己(インナー・セルフ)を開放して彼とともに時空を越えることはできない。この空間は絶対的な時間と相対的な時間が混在する場所で、いわば無意識が意識のうえによびだされた魂の開放された場所ということになる。それゆえに象徴的な人間の姿として、パウダーの皮膚を露出する必要があるのだろうと思う。彼はほとんど瞼を閉じているように見える。目で見える物のかたちを私たちに伝えようとしているのではなく、心で感じ取るものを伝えようとしているのだろう。この目に見えないかたちを伝えるために、彼が裂き続ける空間のなかに畳まれていたものを言葉に翻訳することがこの場所で私が物を書くという作業になる。自己開示された肉体は、魂の限りなく自由な存在であり、その発信されているものを受けとめることは、私たちもまたこの身体を自己開示していくことになる。この開放された魂の肉体の言語を翻訳することは、無意識と意識を往復することになり、意識のうえに無意識を意識的に反転させる「異常」が彼の舞踏に対抗する私の文章の強度となる。
「魂の開放」という目に見えないものを表現することはVirtualiteの空間を現出させることになり、象徴的な言語のサインを魂のフォルムで受け止めることになる。そのとき、私たちは舞踏を通して魂が共振する。この共振がエモーション(情動)であり、彼の指先が切り裂いた時空を飛ぶ。飛び越えることは、超えることでもあり、自我を超えて新しい自己と出会うことをも意味する。「絶句」を鑑賞するその空間でトランス・パーソン(自己超越)を自我の段階で経験する。このとき、舞踏の表現が最高の相互的コミュニケーションとしてそこに存在する。
Virtualiteとは一種の虚像であると同時に表現不可能なものの潜在する可能性を成立させる空間であり、その空間に存在する肉体の言語が元木幸治の言葉で言う「BUTO」だと言うことができるだろう。裂かれた時間の襞に畳まれていた言葉が元木自身の「そっちはあぶないよ。こっちへおいでよ。」とその口腔から音声言語として聞かれる時、思想が純粋な感覚として結晶したすべてがそこにあるように思う。私たちは既成の概念の「意味と存在」の解体と生成を果たし得ただろうか。彼の存在にふれたあと、私は自分の手と指を彼に真似て空中を掻いてみた。この動作を三分間程度でも継続させることは至難の技である。思うことと、かたちになることの何と遠いことか。そのことはいかに私たちの自我と肉体が遠い存在であることかを知らされる。また、その逆に自我と肉体がひとつであるとする思考の矛盾にも気づかされる。つまり、この肉体の主体は自己自身であり、自己の外側に絶対なるものの存在は無いのだということをも知るのだ。そしてまた、魂が開放されるとき、その肉体が言葉の初源としての声を発するとすれば、内的自己こそが自己自身を導くものであるということが自然と知れる。このことが元木のメッセージ「人は泥から誕生する」ということと連動して考えられる、「BUTO」の強度だろう。肉体のエクリチュールから見えないものの形にふれる「美」への接近は元木の独自の方法で、この社会の人間の存在のありように挑戦しているとも見える。
「そっちはあぶないよ。こっちへおいでよ」と。
見えるものの意味と価値ばかりの社会の常識で生きている私たちの仮面は、脱ぎ捨てられると同時に新しい仮面を被り続けるのだが、指先に神経を集中させてこの空中を裂いて見よう。「もの(物)とかたち」の本当の意味が必ず「もの(物)」自体からやってくるはずだ。見えないもののかたちの表象を創造する芸術言語の秩序は精神が物質としての自由さを獲得することにあるだろう。やがて物そのものの自由の精神性が物語になる。
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