2025年2月14日金曜日

立原道造のメルヘンについて ーー見えるものの向こうーー  

立原道造のメルヘンについて ーー見えるものの向こうーー               小島きみ子 * はじめに 表現とは、(見えるものの向こう)を現すことではないかと思います。目に見えるものと、目に見えないものは、空間では互いに調和して存在しています。情動と翻訳される心理学用語でのエモーションが関わってくると思います。ものが有るとは見えることですが、見えないものは無いのでしょうか? 見るということを、精神がものを見る事に言及したのは、二十世紀フランスの知性といわれている、ポール・ヴァレリー(一八七一~一九四五)です。「詩人の偉大さは、精神がかすかにかいま見たものを、自分のことばでしっかりとつかまえるところだ。」(『ヴァレリー・セレクション(上)』)と述べています。見るとは、脳が知ることです。象徴主義の画家・版画家のオディロン・ルドン(一八四〇~一九一六)の「私の独創性はすべて、目に見えるものの論理を可能な限り目に見えないものに役立たせることによって、ありそうもない存在たちを、本当らしさの法則に従って、人間的に生きさせることにある」(福永武彦著『彼方の美』)と述べています。詩と美術の論理は近くにあります。日常のなかに幻想的な物を感じるとき、私たちの生活はより深い人間の生と死の真実を見る態度に変化していると思います。「美しい」と思うものは、絶えず心に音や形や色彩を、言語のように働きかけています。隠されていたものが「現れ」るのです。これについては、哲学や心理学も関わってくるのです。「現れ」とは、英語では(realization)です。原始仏教哲学の研究者であった増谷文雄(一九〇二~一九八七)は、道元の「現成考案」の「現成」について、「原語の「阿び」とは、眼の前に見ること(abhi=in front of)である。原語「abhi」の漢訳は発音のそのまま日本語では「阿び」と書かれてきた。この日本語訳したものが「現成」で、「あらわれ」を英語訳すると(realization )で悟りの成就するときを「現成」という。」(増谷文雄著『正法眼蔵』)と述べていますし、ユング心理学の河合隼雄(一九二八~二〇〇七)が著書『こころの最終講義』で、「リアライゼーション(realization)」について述べています。詩の言葉は現実の経験だけではなく、「夢のなかで夢みたこと」も、新たな経験であったように、人の想像する意識に力を与えるように思うのです。言葉の輪郭を、美術の言葉、哲学や心理学の別な言語で照射する時、言葉は新しく「見える=現れる」ように思います。立原道造が愛した信州追分の風景が、詩の言葉で見えるようになった、そのことを追っていきたいと思います。 (一)  立原道造の詩との出会い 立原道造(一九一四~一九三九)の詩に出会ったのは、高校生の時に図書館で、長野県出身の詩人・田中清光(一九三一~)の立原道造研究論考を読んだのがきっかけでした。県内の高校の文芸部へ講演に出かけた時の事が書かれていたと思います。それ以後は、日本語の特徴としてのオノマトペに注目して、中原中也(一九〇七~一九三七)との比較で立原道造を読んできました。私にとっての中原中也は、青春時代の説明しがたい危機的感情を救った詩人です。立原道造は、信州追分の場所から近い佐久平に暮らす私の、精神と身体を包み込んだ詩人でした。道造の詩の音楽性と言葉の感覚は、一八世紀のドイツロマン主義の詩人ノヴァーリス(一七七二~一八〇一)の哲学と詩の融合の深さが道造にもあると考えます。道造の詩篇を読んでいて感じるのは、ノヴァーリスの「自然とは何か」を問う姿勢と共通するものがあります。ノヴァーリスの中編小説『サイスの弟子たち』に、「感情の元素とは内的な光なのだが、その内的な光は屈折して、より美しく、より強烈な色彩となる。そうなれば、人間の心の内に星が輝き出て、いま自分の目が見ている境界や地平を越えて、もっとありありと、もっと多彩に、まったき世界を感じることができるだろう。」とあります。 (二) 立原道造と杉山平一について 『四季』は、堀辰雄が一九三三年(昭和八年)に第一次『四季』を発行し、一九三四年に第二次『四季』が創刊されました。当初の中原中也賞は、『四季』誌上で行われた詩人への賞で発案者は、広島県出身で、中原中也と別れた後、小林英雄の元に去った女優の長谷川泰子(一九〇四~一九九三)です。後に泰子の夫となった石炭商・中垣竹之助が賞の援助をしましたが、三回で終了しました。現在の、山口市が主催する「中原中也賞」とは別のものです。三回までの受賞者は、第一回、立原道造。中也の死後二年後の昭和十四年三月二十九日に、道造は二十四年八ヶ月の生涯を終えました。この一ヶ月後に四季社によって催された「第一回中原中也賞」の受賞会は道造の追悼を兼ねたものとなりました。第二回、高森文夫、杉山平一。第三回、平岡潤。第二回中原中也賞が立原道造と同年に生まれた杉山平一(一九一四年十一月二日生~二〇一二年五月一九日没)であることは感慨深いです。杉山平一が戦後に書いた作品を戦後詩とは、誰も呼んではいないことは、現代詩を区分する困難さを示しています。杉山平一は、東京帝国大学美学美術史学科在学中に、三好達治に認められ『四季』に参加、同人となります。二〇一二年に詩集『希望』で、第三十回日本現代詩人賞を受賞しました。昭和四十八年二月に発行された『立原道造全集 第五巻』(角川書店)の月報に、杉山平一が「立原道造氏のこと」という文章を寄せています。杉山平一の文章で注目するのは「上等の犬のような顔である。」という処と、「リボンで包むというような感覚は、」という処です。痩せていて長身の道造は、決して貧弱ではありませんでしたが、彼の物事への趣味が多数の人に好まれたかどうかは別の次元のことです。 「四季」に私が詩を送り始めた頃、そこに詩を書き出した立原道造というのが、同じ東大の学生らしい、しかも工学部だ、ときいていたので、どんな人だろうと興味をもった。(省略)そのうち、ある日、その仲間のなかに、真っ黒の外套をきた長身の学生がいた。上等の犬のような顔である。近づいて行って襟章を見るとTになっていた。彼が立原ではないか。ふと足もとを見ると、黒の編上靴の紐が全部ほどけたままになっていて、それをひきずっている。これは詩人だ、立原道造に違いない、と僕は心に決めた。(省略)その後、僕の留守に、僕の下宿に楽譜のような詩集アン・マイネル・ワスレグサとかいた「萱草に寄す」を届けてくれた。黒インキで杉山平一様と書き、リボンで包んであった。リボンで包むというような感覚は、そのころの弊衣破帽の学生生活を経た大学生にはできないことだった。 (三) 「萱草 わすれぐさ」について 道造の手作り詩集「萱草に寄す」の、「萱草 わすれぐさ」は「きすげ」のことです。全集第三巻 四三〇頁に「夏秋表」の(その二)に「きすげ」のことがあります。このレモンイエローの花は、信州追分の夏の花を語る上で重要な花です。引用しておきます。 夏秋表 (その二)   私はひとつの花を誹謗しよう。   信濃路の村でその花を私は田中一三にたいへんたのしく教えた。淡いかなしい黄の花びらを五つ、山百合のように、しかしあのように力強くなく寧ろ諦めきったすがすがしさで、夕ぐれ近い高原の叢に、夏のはじめから夏のなかばまで日ごとのつとめとしてひらく花である。ゆうすげという名を或るひとから習った。そのあと植物学ぶ人から萱草、わすれぐさ、きすげと習い、また時経てその花びらを食用にすることまでも習った。私は習いおぼえたかぎりを田中一三に教えた。  きょう私は最初にその花を教えてくれたひとに向って愚痴を繰返すことを情ない慰さめとして持っている。この誹謗もまたその輪のほかを出られない。恥を知るまえに、ただ私はさびしい。私はいまもあんなにありありと心に帰るあの高原のイメージのために頬を濡らした。(省略) 夏秋表〈その二〉で、「萱草、わすれぐさ、きすげ」と記されているように、橙色のカンゾウとキスゲは花の形が似ています。道造が信州追分で暮らしたその時代、キスゲがたくさん咲いていたはずです。それは土地の人は「ゆうすげ」と言っていたと思います。夏の高原では、オレンジ色のノカンゾウ=ヤブカンゾウ(ユリ科キスゲ属)や、キスゲのレモンイエローの花が愛らしく咲いています。現在では、キスゲが外国へ輸出されて園芸種のヘメロカリスとなって日本へ戻ってきています。ヘメロカリスはカンゾウの色と同じオレンジとキスゲと同じレモンイエローと二種類が私の街の街路樹の植え込みの花壇にも咲いています。それで、カンゾウには、「わすれぐさ」という別称があります。「萱草」は、万葉集にも歌われています。「わすれ草わが紐に付く香具山の古りにし里を忘れむがため  (わすれぐさ わがひもにつく かぐやまの ふりにし さとを わすれんがため)大伴旅人(万葉集・巻三ー三三四)」 ヤブカンゾウとキスゲ(=ゆうすげ)をあわせて、「萱草、わすれぐさ」でも間違いではありません。道造が滞在していた当時の追分のあたりでは、この二種類が咲いていたと思います。現在の追分の道筋の民家の花壇に咲いているキスゲは園芸種だろうと思います。 (四) 道造が生きた時代背景と音楽性 全集第五巻・月報5より、昭和十一年に東大理学部植物学科に入学した柴田南雄(一九一六年~一九九六年:後に作曲家、音楽学者)の文章を引用します。道造が生きた時代背景と、音楽家として芸術想像を目ざす青年の目から見た、道造の詩の構成の音楽性が述べられています。「立原の詩と音楽」より。    (省略)なにしろ昭和六年のいわゆる満州事変、昭和七年の上海事変、そして昭和十   二年のいわゆる支那事変と、世情はますます険悪になりつつあり、われわれには軍隊への招集という不可避な運命が待っていて、それは大いなる公算で直接死へつながっていた。(省略)同じ理科系の学徒に共通した物の感じ方、しかもあの時代に芸術の中だけに逃避の場所を求めた純粋さというものは、立原意外にわたくしの直接の周囲には見いだすことができなかった。(省略)立原は各行のシラブル数には柔軟性を与え、全体をソネットの形式でまとめているが、これもじつに賢明なやり方だと思った。それは彼が建築を学んだから、というより広い意味での理科的頭脳と文学的才能との幸福な統合だろうと思ったものである。(省略) (五) 合評で「メルヘン」と評された道造 立原道造全集 第二巻は、『さふらん』、『日曜日』、『散歩詩集』の未刊の三冊の詩篇が所収されています。解説によると未刊とは、当時高校二年生(一七歳)の道造自身による手書き詩集のことです。その三冊のうちの『さふらん』詩集をこの全集に携わっている杉浦明平氏が所持していたのでした。短い詩篇には、現在の私たちの感覚にも通じる明るくて爽やかな美意識があります。第二巻の月報4(昭和四十七年七月)では、一高文芸部時代の高尾亮一氏が、昭和六年の当時の事を書かれている。初めて書いた小説にはタイトルが書いて無くてブランクで、高尾氏が『あひみてののちの』というタイトルを付したということです。ここで、高尾氏の言葉が良かったです。昭和六年頃の日本の文学は、プロレタリア文学の台頭期でもあったので、合評で「メルヘン」と評された道造に「メルヘンでいいじゃあないか。今は誰でもがメルヘンを書けなくなってるんだ」と激励したというのです。その通りだと思います。ゲーテ(一七四九~一八三二)は、『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』(一七九六)作中の「新しいメルジーネ」などのメルヘンを残していますし、ノヴァーリスは『青い花』の作中に、数作のメルヘンがあります。このことは、道造の創作の初めから完成において重要な評価と激励であったと思います。 (六) 立原道造のソネットについて  道造の詩のほとんどは、四、四、三、三という行分け四連構成の十四行詩のソネット形式です。ソネット形式にはシェイクスピア型とペトラルカ型があります。ソネットはヨーロッパで生まれた詩形で行わけ、脚韻、音綴などさまざまな制約と法則をもっています。道造のソネットは、日本語化されたソネットです。  まず、推量の助動詞「あらう」と比況の助動詞「やうに」が多用されています。それから文字記号の・・・・・・、( )、ーーなど。ここに紹介する作品に限らず、多数の他の作品にも句読点がありません。もっとも特徴的なことは「小鳥」「風」「光」などの言葉の多用です。これらの言葉を私も、自分の作品のなかで多用しているのは、烈しく影響を受けてきた故と思います。立原道造の「暁と夕の詩」(第一巻)から「Ⅱやがて秋・・・・・・」を読んでみましょう。  やがて 秋が 来るだらう/夕ぐれが親しげに僕らにはなしかけ/樹木が老いた人たちの身ぶりのやうに/あらはなかげをくらく夜の方に投げ//すべてが不確かにゆらいでゐる/かへつてしづかなあさい吐息のやうに・・・・・・/(昨日でないばかりに それは明日)と/僕らのおもひは ささやきかはすであらう//ーー秋が かうして かへつて来た/さうして 秋がまた たたずむ と/ゆるしを乞ふ人のやうに・・・・・・//やがて忘れなかつたことのかたみに/しかし かたみなく 過ぎて行くであらう/ 秋は・・・・・・さうして・・・・・・ふたたびある夕ぐれにーー 道造が用いた言葉は、軽井沢高原の風景をよく現わしています。詩の技法は、日本語の感情を新しく「詩」という表現媒体によって、高原というものを社会化したと言えると思います。都会とは違う「高原」の独特の雰囲気を詩で示したということです。 (七) 有情なものと無情なものとの間に  道造が昭和十年三月~十三年十月まで追分で書いたノートの断片にはとても心ひかれるものがあります。こういう感覚は私には好ましいものです。魂の痛みを伴う感情の切れ切れな、切れ端に詩の言葉を滑らしています。 全集第四巻 ノートより。 私は何かのすぐそばにゐる。即ち、それを捕へてゐる。しかし、私はそれを言葉になほす、次の日私が何かのそばに行くために。  だが、何とその言葉はちがふのだらう。私を全くちがつた所に連れて行く。それは今私が捕らへたそれではないのだ。大抵は色褪せてみにくく。だから、そのために、私のそのときの今の私(その日には昔の私)を、やくざなものときめてしまふ。   私は風であり豹なのだ。   私は向こうへ行つてしまったから。ここにゐるのだ。私はひとりで同時に多くの人なのだ。私は變貌しないで私になつてゐる。それは同時に變貌している。雲は流れ消えな  がら雲なのだ。雲の行為が雲にまで何の関係があらう。あれは風であり、幻なのだ。あ れは私にもなれるのだ。 「私は風であり豹なのだ。」という言葉にあるように、「私」というものが有情なものと無情なもの、両方に「私」として有る感覚というのは、とても興味深く好ましく感じられます。浅間山の稜線が街並みの落葉松林まで霧に乗って下りて来るとき、高原の道造的な豹の姿を示しているように思います。 (八) 中也的なものとの別離と「対話」について  道造は昭和十三年六月号の『四季』に「別離」という文章を書いています。中原中也の詩「汚れつちまつた悲しみに」の批評ですが、「中也的」なものへの決別でした。「対話がない」、「魂の告白がない」としています。中也の哀切の素朴さと荒々しさには、意味など不用で惹きつけられますが、道造はこうした剥き出しの感情の吐露が苦手であったと思います。二人とも啄木的な短歌から出発して、中也はダダイストでもありました。後にフランス詩のランボー、ヴェルレーヌに影響をうけ翻訳もしました。道造は、ドイツのロマン派の詩に影響を受けました。シュトルムやリルケの翻訳もあります。リルケの翻訳は「ドゥイノの悲歌」という難しいものに挑んでいます。 評論「風立ちぬ」に道造の対話についての思考が述べられていますので引用します。 立原道造全集第四巻 評論 「風立ちぬ」一二四頁より   ここに僕らの㑹話の通路がある。 人間がいゐない。あたりには空洞のやうな闇がある。呼びかけたときに木精すらかへつて来ない。ここにゐるのは自分ばかりだ。持ってゐるものはみな失われて行った。しかし、失つたものを求めることはできない。かへつて、忘れてゐようとおもふことで、もつと完全に失ふ。失ふといふこと、滅んでゆくものだといふこと、それをひとりきりではつきりと見なくてはならない。落ち葉のやうに投げられて漂ひながら、はつきりと見なくてはならない。彼が見者であるゆゑに。深い暗い遠い見知らないものがつひに引き裂く。そして、最後にそれは本當に静なのだ、一切の喪失が完成するときに。  小説『風立ちぬ』評論のこの部分の文体は洞察が鋭く、フランス象徴派の詩人・ヴェルレーヌ(一八四四~一八九六)の詩篇、ドイツの哲学者・ハイデガー(一八八九~一九七六)の「ヘルダーリンと詩の本質」を参考にしての、詩人が語る言葉の場所の深淵が述べられていて、道造自身もまた抒情の深淵を述べている。こうした心情が、詩形を整えたソネットへ向かうとき、「対話」の問いが成立してくるのだと思うのです。 (九) メルヘンの完成 詩の創作は、「無からの創造=ポイエーシス」という現れかたをするのだと思います。そこにはどんな言葉の映像が、現れて見えてくるでしょうか。立原道造の高原のノートにみられる有情のものと無情のものとの結合による第三の自己(他者)への転移、言語記号によって喚起されるあらたな日本語の感情は、読者にとって、抒情の現在の現実の生起という(我)の現れであろうと思います。野の草や花を詩の素材にした、詩の方法とソネットの技術は、追分の風景が詩を読む者に目に見えるように感じ取れます。高原の抒情が社会化されたのでした。ノヴァーリスが、《メルヒェンは、いわばポエジーの規範[カノン]である》と述べたように、道造の抒情詩は、ポイエーシスでありメルヘンの完成でした。もう一つのメルヘンは建築物です。道造が、構想した図面に基づき、二〇〇四年に「ヒアシンスハウス」がさいたま市の別所沼公園に竣工されたことも、メルヘンの完成と言えると思います。  言葉の表現は、見た人から見ていない人に伝わるだけではなく、その事柄を見なかった第二の人から、さらに未だ見ていない第三の人にも伝わらなくてはならないでしょう。読者によって詩の言葉が社会化するということです。詩の文体は、目に見えるものを書く事ではなく、脳に描かれる、脳の心理を書く事であるという持論を持つ者です。言葉を知ること、言葉を見ることの地図を歩く者のひとりです。 参考文献:立原道造著『立原道造全集』角川書店。その他は文中で示した通り。

2025年2月6日木曜日

メルヘンとは何か、ファンタジーとは何か

メルヘンとは何か、ファンタジーとは何か。 ノヴァーリス『一般草稿』には、「メルヒェンは、いわばポエジーの規範[カノン]である―詩的なものはすべからく、メルヒェン風でなければならない。詩人は偶然を崇める。」とある。 メルヒェン(独: Märchen)は、ドイツで発生した散文による空想的な物語。非常に古くて重要な文学形式の一つであり、英語ではフェアリーテール(fairy tale、妖精物語)、フランスではコント(contes de fée)と呼ばれるものに相当する(ウィキペディア参考) ファンタジーとは、(英: fantasy [ˈfæntəsi, ˈfæntəzi])超自然的幻想的空想的な事象をプロットの主要な要素あるいは主題や設定に用いるフィクション作品のジャンルである。元は小説等の文学のジャンルであったが現在はゲームや映画など他のフィクション作品を分類する際にも用いられる。ファンタジーについては、wikiでも出典の根拠が不正確なので、新たな書き込みを求めています。研究分野として面白いと思う。それで、2018/7/28の松尾真由美さんと小島きみ子の対談で、fantasyのことを述べたので、最近改めて考えています。対談では、fantasyを私は、メルヘンのように捉えて語っています。この感覚は、カフカのメルヘンもfantasyと感じている。カフカにはデビュー作「四十日と四十夜のメルヘン」がある。トルストイの物語は、「メルヘン」に分類されている、

内田隆三著『ミシェル・フーコー』(講談社学術文庫)

2020年(令和2年)9月までに読んだ本で、非常に面白かったのは、内田隆三著『ミシェル・フーコー』(講談社学術文庫)です。『夢と実存』の序文に夢や詩の表現的価値の言及があり、フロイト的分析への違和感と両義的見方を述べています。思考が整う過程での、フッサールの現象学、ハイデガーの実存哲学との結びつき、その裏返しのサルトルの想像力論への批判という思考経験を経て、語る主体の外部に立つ「外の思考」に辿りつきます。 著者 内田 隆三は、日本の社会学者。東京大学名誉教授。専門は社会理論、現代社会論。( ウィキペディア)生まれ: 1949年

書評 野村喜和夫『薄明のサウダージ』

書評 野村喜和夫『薄明のサウダージ』(書肆山田2019年5月20日発行) サウダージはポルトガル語および、ガリシア語の語彙の一つで、「saudade」と表記されます。ポルトガルでは正確には「サウダーデ」と発音し、「サウダージ」はブラジルで使われている発音です。サウダージには、一言では表せない複雑な意味が含まれています。郷愁、憧憬、思慕、切なさなどの意味を含んでいますが、それらの言葉はサウダージのほんの一部の意味しか表すことができません。サウダージはそれだけ多面的な意味を持つ言葉だといえます。戻れない過去や離れた相手に対する「寂しい、悲しい」という気持ちだけではなく、「懐かしい、楽しかった」なども含まれ、思い起こす気持ち全般を表します。この他にも、叶わないものに憧れる気持ちを表す場合もあり、その意味はこの言葉でしか表現できないとされています。 この詩集の詩篇のタイトルには総て括弧が付いています。私も最近の作品のタイトルは総て括弧を付けています。私の理由と、野村さんの理由は違うと思いますが、それは此処では述べません。「薄明」については、web検索するとご本の言葉があって、「薄明」が好きだからということが述べられていた。「サウダージ」につては、これも検索すると真理子夫人のブログがヒットして、複雑なニュアンスを持つポルトガル語であると述べられている。  扉には、タイトルの無い九行の詩が添えられています。天上から零れてきた、花びらのように美しく香りたかい。「もう遅い/狂ほしく茫々と/菫のミルクが立ちこめてくる/ような 薄明のひととき/惑乱を/さがす/手つき/を集めてわたくし/とせよ」 / 第一番(薄明を遊びつくせ)から第十二番(薄明が終わるとき)までの眠り 「薄明とは/空に巨きな/魚が浮かんでゐたりしたらすてきだと思ふこと」という詩句で始める、薄明のサウダージ。この場処で十頁二行。「私よ/薄明を遊びつくせ」と。遊び尽くす薄明とはどのような薄明の時間なのか。どのような色彩の薄明なのか。そのことが、とても柔らかく、優しく、歌われていくのです。タイトルの総てに括弧が付せられていて、薄明のサウダージ第一番から第十二番まで。夜の臍1~12まで。跳ね月クロニクルⅰ~ⅻまで。眼多リリックは特別で番号は付されておらず四頁に及ぶリリックが歌われる、轍の私に沿ってⅰ~ⅻまで。閾をひらく1~12まで。薄明のサウダージ異文状片第一番~第十二番。(薄明を遊びつくせ)に始まり(薄明が終わるとき)まで、百六十七頁を想い出を思い出すように歌い尽くし、やり尽くし、遊び尽くし、嘆き尽くし、これは真昼の眩暈であったのか、夢の現実であったのか、菫のミルクが立ちこめてくるような薄明のひとときへ、帰っていく。この詩集を読みながら、目眩して、何度も睡眠障害のように眠りに陥り、目覚め、また眠り、夜を睡り朝に睡り昼を睡り、ようやく(薄明が終わるとき)に辿り着いた。さはさはと眩暈よ、散れ。

2019年詩誌評

二〇一九年詩誌評                     小島きみ子  詩誌「エウメニデス」の編集発行人宛に送付された二月から六月までに到着の詩誌を、セレクトしてて紹介と感想を述べていきます。 二月の詩誌  潮流詩派256号 巻頭詩は麻生直子さん。竹内てるよ1904年(明治37年)12月21日 - 2001年(平成13年)2月4日)のことを引いて北海道の詩を書かれている。「海のオルゴール」は、私が子どもの頃に亡母が購読していた「家の光」に連載されていた。井川博年さんがエッセイを連載されていて面白い。 光芒82号では、詩人で英文学者水崎野里子氏のエドガー・アラン・ポーの作品「アナベル・リー」に翻訳詩と解説があって実におもしろかった。 翻訳ということへの水崎さんの考えが述べられていて。今までとは、ちがう「アナベル・リー」になっているのかもしれない。ポーのアナベル・リー 引用した末尾部分。 For the moon never beams, without bringing me dreams Of the beautiful ANNABEL LEE; And the stars never rise, but I feel the bright eyes Of the beautiful ANNABEL LEE; And so, all the night-tide, I lie down by the side Of my darling -- my darling -- my life and my bride, In her sepulchre there by the sea, In her tomb by the sounding sea. 僕がアナベル・リーの夢を見ると お月さまは輝くの アナベル・リーの瞳を思えば お星さまはお空に上る 夜の浜辺で僕は眠るの 僕の恋人 すぐ脇に─僕の命さ 花嫁さ 海の畔のあの墓場─ 彼女のお墓は あの潮騒のあの海辺 「ACT」は、月刊誌で2014年よりご恵投いただいていますが、未だにこの月刊誌のことがよく分かっていません。内容は、演劇のことばかりではなく、社会批評、文学、映画、音楽、詩、と多岐にわたり、それぞれの分野の専門家の短文がじつに見事に核心を突いているのです。

2025年2月2日日曜日

鳥になった弟へ

鳥になった弟へ 小島きみ子 鳥になった弟よ 日曜日の朝にはそうっとやって来て 洗濯物を干す私の肩を掠めて 羽を一枚落としていくのだ どういう了見なのよ?  と思っていると 姉さん たろう山が先月燃えたのは あいつのせいだ わかっている?  姉さんも鳥になって ぼくらの秘密基地 を取戻そう さきに行って待っているからね 弟が落として行った羽を拾い集めて 羽ペンを作った ゼブラの黒いインクで 弟が言っていた「ドゥルカマラ」 という島へ宛てた手紙を書いている 「ドゥルカマラ」って、パウル・クレーに絵があるようだから 調べてみよう 鳥になった弟よ 早く帰っておいで 赤ちゃんだったころの 小さなきみの絵を描いているよ クレーの天使を真似して描いているよ (こんなことで どうして怒られるのか ぼくにはわからないよ  鳥って職業もたいへんなんだ  とうさんには怒られても  姉さんにまで怒られるとはおもわなかったよ ) 嘆くな、弟よ。 たろう山が燃えたのは、 異常乾燥気象のせいで、 誰のせいでもないのだよ。 はやく帰っておいで。 ヨー子ちゃんを泣かせてどうする。 ああ、洗濯物に糞を落とすの、やめて。 1 白い空、 白い空、 秘奥の薔薇いろの空、 水鳥が飛び立っていく湖のほとり、 ((おお天使の羽がこぼれてくる)) 2 湖に奇蹟の物語を映す灰色の森、 まぶしい空は、 水鏡の深奥に、 有情なるものの感情を隠蔽すると同時に、 表層の仮面を剥がしてゆく。 実相を揺らすたゆたう湖の聖なる水鏡、 剥がれ落ちる表層の上に付加される仮装のペルソナをもって、 変容する森の陰影。 3 けれど神は、ほんとうに最初に「光、あれ」と言ったのだろうか。 「初めに(原初に)、言葉があった( In principio erat verbum.)」(『ヨハネ福音書』第1章1節))神もまた人間とともに生きるために、陰影のなかにそのペルソナを隠したのではなかったのか。恋人たちが愛を探して、有情なものと無常なものとが融合した感情が、湖の漣を追いかけていく。神話の中の愛、それは白鳥のレダ、黒雲のイオ、金色の雨粒に変身したゼウス。やわらかな愛の曲線。そして、もうどこにも隠れる必要のなくなった、異形なものの逆さまの陰影は、復活したイエスのように《光》に向かって言うだろう、《触れるな》と。私たちは、誘われ、私たちに訪れたものを、ふたたび、誘い訪れ返すことによって、この身が永遠(とわ)の手前で、果てしないものとなる。 4 私たちの初めての詩は、どこからやってきたのでしょうか。詩の言葉が書かれた紙を捲る、やさしい吐息のように、…夏が逝く高原の山荘ではコスモスが黄色い花粉を風に飛ばし、M! あなたのノオトの断片が燃えています…ああ、Mの声がする《 こたへもなしに私と影とは 眺めあふ いつかもそれはさうだつたやうに》*…いつかもそれはそうだっように、私にとってこの地上ではもう愛し合い見つめあうものが何も無いので、私と湖の木の影とは、世界を数値で示すために『中世の秋』を黙読しあう。詩によって「希望の意味(方向)」を見つけるために、白い空と私は、もはや形姿(figure)を失ってお互いの声だけを見つめあう。指し示すものは無く、記憶の場所だけがある。その欠落した記憶の場所に辿りつく事。それは、人の輪郭に沿う、言葉の息に重なること。信仰の薔薇を詩のうえに、詩への幻想を誘うアシジの聖クララ(名も無き薔薇)という恋人までのあらたなる霊知を見いだそうというのだ。おお、(名も無き薔薇)という天上の(秘奥の薔薇)をもとめて書物を捲る指にかけられる、限りなくやさしい先人の吐息よ。 5 ((白い空、…苦悶の煌きの、…それはぎっしりと空に敷き詰められたアイスバーグの白だった、ショパンの革命のエチュードを聴いた朝。神の、やさしい吐息のように、天使と見紛う水鳥の羽がこぼれ落ちてくる)) ((思い出そう、指先が薔薇の香で充ちる日、レースの手袋をして薔薇を摘んだ日のことを思い出そう、思い出そう、小さな蜜蜂の魂が、白い薔薇のなかで眠っていた姿を、あのときの眩むような白い薔薇の襞を)) 6 空(そら)というその明るいひびきのなかに潜んでいる、なんという空(うつ)ろ。マリアの涙のように、白樺の樹液を集めるとき、屠られた恋人の声が白い空から落ちてくる、「Noli me tangere(わたしに触れるな)」と。それは、そうであって、そうではない恋人の声、《新しくなるのだ》とイエスがマグダラのマリアに言ったとき、イエスはマリアに永遠に蘇った。イエスの《復活》とは、今の命がさらなる段階に到達することを言うのだ、だからこそ、名づけようも無い存在であるのに、確かにここに、この場所に、それは霊知のありようとして、ここに存在するのだ。たとえば、知覚と世界の「あいだ」を占めているものを、超えていくときのように。言葉ではない、感覚のうえに。失われた記憶の場所に蘇るのだ。(世界の青さの中に 散ることのほかの未来もなく。「否、 私に触れるな」と彼は彼女に言うかもしれない、だが、否と言うことも光でできているのかもしれない。と(ボヌフォア)は言った。)その世界の青さのように。 いったいどのくらいの時間が過ぎたのでしょうか、書物のなかに意味を問う時間は虚しく過ぎたというのでしょうか、夕日が投げ込まれるベッドカバーの上に、山脈から舞い降りた、ルリシジミ蝶の陰が文字のように沁み込んでいました、《主よ、あなたは偉大でした、あなたの陰を、この蝶の心臓のうえにお置きください》まだ、わたしは、あなたが死んで復活したことを心の糧にすることができないのです、あなたの御足に香油を注いだ《マグダラのマリア》、それを髪で拭うのを止めもせずに身をまかせたのに、その甘きかつ優美な恋人の名にむかって《Noli me tangere(わたしに触れるな)》と言った、その霊の姿を、夏の日に現われた私の恋人のなかに「名前の意味(方向)」を見いだそうとしていた。名も無き薔薇クララと聖フランシスコのように。((それは、白い空、天使の羽が、毟られてこぼれてくるような、苦悶の煌き《いつかもそれはそうだったように》…私には薔薇のなかで眠る、蜜蜂の恋人がいる…白い空に籠りたい、そうすることが大切な存在を失った者の希望であるように、先人の詩にあるような、かの麗しき詩の言葉《stat rosa pristina nomine, nomina nuda tenemus.:以前の薔薇は名に留まり、私たちは裸の名を手にする》と)) 7 湖の岸辺にあるクリスチャン・センターでは、やがて始まる冬の行事のために、青年が被るトナカイのキャップを縫ったり、去年人気のあったシフォンのツリーに銀の粉をかけたりしていました。ショップと教会の間を行き交う恋人たちのやわらかな腰のうえに重なりあう、楓や櫻の色づいた《木》の葉の影。布を縫う指を休めて、絡まりあう糸と布の行方を追って、永遠(とわ)を求めれば、それは風に揺れる木の葉のように恋人の《約束》を翻すものであることなど、まだ知らなくてもよかった(あのころ)。けれども、秋の《木》の葉は幾とおりにもペルソナを変装するので、そのたびに、幼い言葉で《光》の呼び名を変えなければならなかった、言葉とその意味のことは、過去からの記憶の連合によって喚起される感受性ではあったけれど、網膜の真理と、脳の心理を統合するものは、(わたくし)というものの布を縫う「意識の手」にほかならなかった、闇い岸辺で反転しあう、湖の冷ややかな水面に映る逆さまの《木》の感情、鈍いろの空の深さも、私という(もの)の姿も、私が見ているように、《木》に見えているわけではなかったけれど、木と私の影は、けだるい午睡の芝生のうえで、尾の長い小鳥に啄ばまれて割けた。 8 遅い朝食を済ませてから、櫻木の下で、濁川で釣った岩魚の燻製を作る日でした、ほのかにアンジェラの薔薇の香りもしていました。blueな空だったのに、わたしの眼は靄のなかに現われた、その霊に釘付けになりました、白いlaceの手袋をして薔薇園で花びらを摘んでいました。薔薇のなかには、眠っている私の恋人がいるのです。何故、そう思うのか、その理由など必要でしょうか。この物語の初めは、オールドローズの薔薇のなかで眠っていた小さな蜜蜂の魂の姿だったのですから。それは、煉獄で苦しむ人の姿であったのかもしれません。 手。夢の中の夢で言葉に触れた手。言葉の皮膚に触れるために必要な手はlaceの手袋をした手でした。何故、直接に言葉の皮膚に触れることをあの手は拒んでいたのでしょうか。あなたを見たのに、言葉に触れることを拒んでいる手でした。 ((laceの手袋、laceの手袋、思い出そう、その小さな蜜蜂の魂が、白い薔薇のなかで眠っていた姿を、あのときの眩むような白い薔薇の襞を)) 手は、薔薇の花びらをひろげていきました。そこに重要な言の葉が隠されていることを知らせるためでした。それは、愛を発見させるためでした。眼が触れることによって。触れることを、超越することが、声が刻まれている記憶の古層を突破させるものでした。 9 そのとき、(僕は必ず君と結婚する)と言ったきり行方知れずとなり、外国の女性と結婚して、この夏の高原で、キマダラセセリの乱舞するのを見ながら死んでいった、その人のことを、咄嗟に思い出しはしたけれど、(蜜蜂)は彼の霊ではなかったのです。((その白い薔薇のなかで、幸福な苦悶、の夢を夢見ている蜜蜂の魂が、この真昼に千年の魔法をとかれて、帰ってきたのか…と思いはしたけれど、彼ではなかった、ならば初霜に打たれた、白い花びらの中心を日差しにかざして、この小さな生き物を、櫻木の燃える浄化の炎のなかへ、投げ込んでやってもよかったのでした)) 10 誘う声がやってきて、湖に小船を漕ぎ出す午睡時、水の精のように!ラヴェルの楽譜のように!水は戯れ、煌く。見渡す岸辺の薔薇園で、白い薔薇を摘むその霊に、すでに、わたしには蜜蜂の恋人がいる、と話しかけると、霊は、ならば、《君が、その蜜蜂に持つ愛が、何であるかを僕に教えてくれないか》と言ったきり、岩魚が水に深く潜って、砂の中に消え去るやりかたで、低く笑いながらその場から消えました。《ああ、水の精のように!》そこで、わたしはその岩魚の、消えた辺りに向かって、《あのような蜜蜂のための恋愛詩は…》それは、まだ、《言の葉がわたしたちの愛に役立つのなら》そして、あなたがこの愛の煉獄の苦しみに耐えているのなら《貴方が夏の水辺で戯れに書いた形見の楽譜でさえ》わたしが、生きていくために、かけがえのないものになるでしょう、そして今のあなたの煉獄での境遇のために祈りもいたしましょう、隔たれた年月の苦しさが水に遊ぶ光のように融けていくならば、なおいっそう連なる光の粒になって、永遠の白い空へ昇っていきましょう、そこがわたしたちの邦となる日に再び逢いまみえんために、白い薔薇いろの空へ。 それから、誰か他の者に、この恋愛の行方を、ゆるやかに眠る花びらの場所を開けるため、おそらくそうでしょう、その人は、《蜜蜂の私の恋人》に替わって水と戯れる光の粒の奥深くへと消えたのですから、私が秋の、日差しの暗がりに向かって話しているあいだに、《蜜蜂》も消え去って、花びらは萎れていました、薔薇を揺らす風、かぐわしい風が吹いて、櫻木の炎がひとたび強く燃え上がって、わたしをその煉獄の霊へとそれ以上、近づくことから守りました、《去るものを追ってはいけない》それ以上、去るものに触れてはいけない《新しいものとして生まれるそのひとのために》あの幻影が霊と知とを分けたものであるならば、かならず再び現われて、彼自身の言の葉で言うでしょう、《愛と知》を包む先人の詩篇をその人は語るはずです。 11 そして夕闇が迫り、忘れていた昼間の郵便受けには、海辺の街に住む詩人からの、絵葉書が届いていました、《おお!R!どんなに待っていたことでしょう》そして、ウェブメールボックスには、都会の病院で、外国人のための医療通訳をする、《J!》からの長い、返信メールが届いていました、《先日演奏された…あのようなあなたの優美なピアノの語法は、それこそは、わたしの言の葉が、あの画家の画に役立ったのと同じように、あなたがきょう燻製を作るために使ったであろう、岩魚に突き刺したフォークでさえ、彼にとってはかけがえのない、記憶の形見となるでしょう…》彼にとって?《僕にとって、新しく来るであろう、その恋愛のために、あなたのきょうの霊魂との接触が、やがて、知と肉とを分ける、美しいテクネーとして、あなたの上にもあたらしい《霊知の力》が訪れるでありましょう、明日の朝は、どうか濁川の淵に来てください、そして櫻木の下で待っていてください、僕はやがて、灰青色の鵯の姿で、神話のなかで籠もっていた白い薔薇の空から、メアリー・ローズ、あなたをを迎えに…》あなたを迎えに?メアリー・ローズって? 12 《J!》あなたを待っていました。野焼きの煙にまみれて、私はきのう出あった霊(ルアハ)と見紛う姿で、灰青色の鵯を待っていました。《J!》あなたをどうやって探せばよかったのでしょう。((ああ、laceの手袋、laceの手袋をしていましょう)) 歩き回るうちに見知らぬ薔薇園に立っていました。そこには私の大好きな、オールドローズの白薔薇が咲いていて、あなたのためにローズピローを作ることを思いたち、私はしばらく薔薇摘みに熱中しました。振り返るといつの間にか私を見つめる《J!》あなたに出会いました。そして、あなたの黒い瞳のなかに私は埋もれていきました、月光の射す眩い闇のなかで、幸福な夢を見ました。ダナエのように蹲り、苦悶の煌きが花びらのように押し寄せるのに身を任せました。 そして再び白い空が開け、鵯が鳴きました。おまえは、おそらくは絨毛な言葉の舌を持つものであったのであろう。そうでなければ鳥の化身にも薔薇の化身にも、ましてや《J!》この電子ウェブの網をくぐってわたしの皮膚に、あなたの声をどうやって浮き上がらせたのでしょう。声の書字性は、意識の反照に過ぎないものであって、痕跡や差延といってみても知の契機である他はないのだとしても、煤けた白い空からどうやって、あなたは、この私の薔薇園へやって来たというのでしょう。それがまた知の身代わりとして、メアリー・ローズの薔薇の名を呼んで。それは(聖フランシスコ)と(聖クララ)に思いを馳せることでもあるのでした。最初の(薔薇)とは、何であったか。「ロザリオ」は、サンスクリット語の(ジャパ・マーラー:唱えて祈る輪)の直訳、そして(ジャパー)とは(薔薇)を指す…白い空、こぼれんばかりのアイスバーグがまたしても降ってくるのだ《天使の羽が、神の裁きによって毟られてこぼれてくるような》…すでにそこに来ているのですか、いいえ《ただあなただけに仕えるものとして》そしてそれは、あなたのなかにある愛に仕える、ことを見出すことによって。(兄弟フランチェスコが植えた草花)と言い残したアシジの聖女クララ・シフィこそが、(名も無き薔薇)だった) ((神が名づけた名、原初の薔薇《stat rosa pristina nomine, nomina nuda tenemus.》の名のように、その薔薇を摘むlaceの手袋をした手、その霊と魂を分けた、《愛と知》の名前を聞いて感じました、《私の蜜蜂の恋人》その恋人が死んだ朝、苦(にが)いポプラの樹液を飲み干して、白い空(うろ)に籠もっているとき、甘きかつ優美な愛の詩を書いた先人たちの父のなかにいました)) 13 《私の蜜蜂の恋人》はやってきました、《苦悶の煌き》として、意識の古層に眠るあなたを通り過ぎた、激越なるあなたのパッションの調べを纏って、おお!見よ!その人の皮膚に刻印された《風と豹の苦悶の煌き》を、ベッドに横たわる私の心臓の上に重なる声の影 《 こたへもなしに私と影とは 眺めあふ いつかもそれはさうだつたやうに》と。記憶の第四深層に、それは蘇った青年イエスがマグダラのマリアのなかで新しく生きるものであるように。きらめく水の精、戯れる水の精、私が《蜜蜂の恋人》に寄せる愛とはまさしくかのひとへの愛と見紛うものであるように、はじめの薔薇であり、ひかりであり、記憶の深層において、《蜜蜂の恋人》への愛は始まったのでした。それ以上は《触れてはならぬもの》でありながら、魂のなかにあって霊知のはたらきのように《愛と知》としてやってくるもの、詩篇はまさに、詩人《M》の言の葉のように、《私は風であり豹なのだ。私は向こうへ行ってしまったから。ここにゐるのだ。私はひとりで同時に多くの人なのだ。私は変貌しないで私になってゐる。それは同時に変貌している。雲は流れ消えながら雲なのだ。雲の行為が雲にまで何の関係があらう。あれは風であり、幻なのだ。あれは私にもなれるのだ》*…愛とは、新しい信仰の発見であり、言葉の世界の創造でもありました。   ――(註)―― 1.記憶の第三層と「立原道造詩集」  私の記憶の第三深層で、なつかしく私と語り合う詩人《M》、もちろん立原道造です。詩句の引用は、:「立原道造詩集」:立原道造著・第四巻・1972年初版・角川書店刊:からです。《 こたへもなしに私と影とは 眺めあふ いつかもそれはさうだつたやうに》そして、《私は風であり豹なのだ。私は向こうへ行ってしまったから。ここにゐるのだ。私はひとりで同時に多くの人なのだ。私は変貌しないで私になってゐる。それは同時に変貌している。雲は流れ消えながら雲なのだ。雲の行為が雲にまで何の関係があらう。あれは風であり、幻なのだ。あれは私にもなれるのだ》と。記憶の第三層から第四層に向けて詩人が、自己を越えて発見するもの、「この限界」とは。「個別的な実存」とは何でしょうか。 2.詩の言語空間と「記憶の最深層」  さて、詩を創造するにあたって詩人たちが苦しみながらもその言語の悦楽に出会う詩の言語空間は、どこに存在するのでしょうか。(始まり・原理)について考えていくと、実体と本質は、区別でない区別、ということになる。「始まりとは物が最初にそこから動き始めるところのものである。」と。 arkhee legetai hee men hothen an tis tou pragmatos kineetheiee prooton beginning is said the x from which so some of the things may move first. 「記憶の最深層」のイメージがビジョンを導くという図式が、関連付けられるのは、アウグスティヌスのいう、人間の記憶の第四層。アウグスティヌスによると、第一層は動物も持つもので、物体的な事物の心象を蓄える。第二層は心の感情を蓄えている。第三層は記憶の中で自分の心が占めている心そのものの座所。これらの三層には神は存在しない。そしてこれらの層を超越した「記憶の最深層=第四層」において、『私の記憶を超えた、あなた(神)において』神を知ることができるとされる。 3.「個別的な実存」  「個別的な実存」とは:イヴ・ボヌフォアの『ありそうもないこと―存在の詩学』(阿部良雄、田中淳一、島崎ひとみ、宮川淳、松山俊太郎訳、現代思潮新社、2002年):(「ここに投げ出され、ここに在ることに驚き、自分にとって謎であるのと同じように詩人にとっても謎であり、詩へと運命付けられてしかもなお、その逆境の極みにおいて、自らのうちに逆説的な歌を生きさせることの出来る白鳥とは、死に絶えようとする、あるひとつの詩の中で初めて、至上権者として確認された、個別的な実存なのです。白鳥はここであり、いまであり、この限界である。それこそは、詩が絶えず、純粋で激しい危機、感情のでもあり思惟のでもあるような危機の中で、発見し直さなければならないものなのです」)。 4.「私に触れるな=Noli me tangere( ノリ・メ・タンゲレ )」  そのとき、『私の記憶を超えた、あなた(神)において』、言葉の光はやってきているだろう。「言葉」とは「霊」と「知」。そして「魂」と「霊」。「知」と「愛」…「愛」の創造こそが「詩」かもしれない。  イエスという名前は、ヘブル語では「神は救い主」という意味。「ナザレのイエス」、「キリスト・イエス」(キリストとは姓ではなく、ある職務のために香油を注がれた者の意味)という場合はこの聖書で啓示されている神:人であるイエスを指す。イエスという名。その名の持ち主が、復活した朝、最愛の女性に言った言葉が、「私に触れるな( ノリ・メ・タンゲレ )」です。この(パロール)は詩と言う世界が存在する場所、「記憶の最深層」への挑戦ではないでしょうか。ジャン=リュック・ナンシーの著書「私に触れるな」も絵画表象に潜む触覚に論及していきます。ベラスケスやティツィアーノによって描かれたこのイエスの復活というテーマは、新しい愛を表現しています。「きみが眼前に見た者はすでに出会いの場所を離れているのだ(36P)」知ることは触れることですが、触れるとは、脳髄において知の変容を経験することだと思うのです。経験とは変状です。肉体を伴うことなく、それよりも深い愛の経験をすること。詩の創作とは、激越なるパッションを経験する言語の悦楽。言の葉が霊と知とに出会い、愛と知を経験することです。「私に触れるな( ノリ・メ・タンゲレ )=Noli me tangere」(Jean-Luc Nancy ジャン=リュック・ナンシー著 ; 荻野厚志訳・ 未來社, 2006.年)から引用しましょう。「(…)そこでイエスは自らに触れるように彼らを招き、彼が生身でそこにいるということを彼らに確認させるのだ。信仰は劇的なものを期待し、必要とあらばそれを発明する。信とは、普通の眼と耳にとってなんら例外的なもののないところで見ることと聞くことである。」そして、記憶を遡れないものを感受すること、「私に触れるな( ノリ・メ・タンゲレ )」とは、「手」ではなく、記憶を超越する霊知によって(触れる)ことを要求しているのではないか。「私に触れるな( ノリ・メ・タンゲレ )」という言葉によって、記憶の最深層:第四層へ誘っているのです。広い愛とは、狭義の宗教ではなく生命の深層へ触れることへの「言葉の手」の触覚を誘(いざな)っているのです。 E.M.シオラン「絶望のきわみで」( 翻訳:金井裕・紀伊国屋書店) ● 15P.:私たちが真に情熱的になるのは、深刻な有機体の混乱に見舞われたあとに限られる。偶発的な情熱は外的要因から生まれ、そして外的要因とともに消えうせる。内的狂気の一片、これがなければ情熱はない。(・・・)狂気とは、情熱の発作ではないか。・・・情熱とは一個の野蛮な表現である。すなわち、その真の価値はまさしく血、率直さ、そして炎以外の何ものでもないところにある。 58P:メランコリーの審美的諸要素には、有機体の悲しみによっては与えられぬ未来の調和のさまざまの潜在性が含まれている。有機体の悲しみはかならず償いがたきものに行き着くが、これに対して、メランコリーは夢と気品にみちている。 生死を越えた同時性の微笑みとは                 小島きみ子 ヘルマン・ヘッセ「シッダールタ」を読む  ヘッセの「シッダールタ」を再読した。若いときに読んだ数々の小説のことも思い出していた。二〇一一年三月十一日から引き続いているのは、精神(スピリット)と、自然という身体の傷を克服することだと思っている。ありとあらゆるものがそのあるべき姿を破壊され瓦礫となった。セシウムが降っている。元素の有毒性はわずかであっても、放射性同位体は体内被曝を引き起こすという。これは第二次世界大戦後の日本における人災のなかでも最大規模の恐怖だと思う。ここから精神(スピリット)が立ち上がるには、ヨブのような絶望を克服することから始まるのかもしれない。そして、言葉は深く野望することだ。どんな知恵をだし、どんな愛で立ち向かえばよいのかを。知と愛はちかくにいて、知の技術は愛を行為することだから。  「知と愛(原題Narziss und Goldmund ナルシスとゴルトムント)」は、ヘルマン・ヘッセ(Hermann Hesse一八七七年~一九六二年)の青春小説。ヘッセは二十世紀前半のドイツ文学を代表する文学者。車輪の下、デーミアン、知と愛、と読んだのは十五歳のときで、その後に詩集も読んだけれどもあまり覚えていなくて、ドイツの詩人は、主にリルケとゲーテを読んだ。それで今回は、ヘッセ全集第十六巻・全詩集(臨川書店)も読んでみることにした。全詩集は一八九五年から一九六二年までの作品を網羅し、時代を七つに区切って編集されて、解説まで五三一ページ。同じタイトルで書かれた作品もいくつかあります。心がそこへ戻っていき、もう一度見つめ返すことを恐れない、ひるまない、強い精神があります。青年期は恋愛の時期で甘くロマンティックです。恋人に捧げた詩篇から失恋まで。失意ののちまた新しい愛を得て、小説を書けるようになるまでの心の奇跡。ヘッセの愛の遍歴が自然の風景とともに精神の風景画のように描かれています。豊かな愛情が人にも自然にも降り注ぐまなざしを感じます。十八行の詩的な序文で言っているように、「それらは過ぎし日のかけがえのないあかし」こうしたすべてがあって、ヘッセの文章は深く心にしみとおるのだと思う。そんなことを思いながら、この稿では、高橋健二訳の「シッダールタ」のみを再読していきます。 *  ヘッセとの出会いを思い出すと、「知」を考えるときの根底には若いときの読書経験によるヘッセの「知」があったのだと、改めて思った。以前のエッセイを修正していて気がついたのは「哲学とはphilosophia 知恵を愛する事であり、その言葉との格闘は、詩情poetic sentiment へ向かう過程にある」ということだった。「知恵」と「愛」を結びつけるものが、知を実践へと誘う思考の力だと思う。これを経て「エートス」、「エチカ」へと、さらにはその通路にこそ「タナトス(死)」と「エロス(生)」が存在すると思う。  ヘッセのシッダールタを読みながら、こころの中に泉が湧き出るように、憧れや希望をもたらすような思想を超えた、無上の微笑みのその「顔」に出会えたら幸いだと思う。今は仕舞われた新潮文庫の「シッダールタ(ヘルマン・ヘッセ著 高橋健二訳)」の付箋のある箇所を再び読む。「互いに助け合い、愛し合い、憎しみ会い、滅ぼし会い、新しく生みあっているのが見えた。どれもが死のうとする意思、無常の痛切な告白であった。しかも、どれもが死にはせず、変化するだけであった。絶えず新しく生み出され、絶えず新しい顔を与えられた。」  無数の生死を越えた同時性の微笑みとは、あのコリント書十三章の第十二節にある What we see now is like a dim image in a mirror; then we shall see face-to-face.(いま、わたしたちは、鏡に映ったおぼろげな像をのぞいている。しかし来るべきときには、わたしたちは真の像と正面から対峙することになろう。)にも微妙に符合するのではないかと思う。「シッダールタ」の最終行に。 「身動きもせずに座っている人の前に、彼は深く地面まで頭を下げた。その人の微笑が彼に、彼が生涯の間にいつか愛したことのあるいっさいのものを、彼にとっていつか生涯の間に貴重で神聖であったものを思いださせた。」無上に深い愛と無上につつましい尊敬の感情がこころのなかで火のように燃えた。というこの箇所にも深く感動した。ここで「無上」という言葉が使われているが無上とは「この上もない」という最高のものを言います。美しいひびきです。一五〇ページに。「御身は罪びとのなかに、御身のなかに、一切衆生のなかになりつつある。あらゆる乳飲み子は死をみずからの中に持っている。死のうとするものはみな永遠の生をみずからの中に持っている」とある。誕生した子どもがその中に死を持っているように、朽ちていく老人のなかにもあらたな生があるはずだ。生きているものが一切の苦しみから解放されるのは「死」しかない。このときの「死」は成就であって絶望ではない。「幸福」のように存在するのはなぜなのか。死とは神聖なもの。無上のもの。それなのに、もとめている途中で無上の微笑みに出会わずして、生きることが破壊されてしまうのは無常の無念でしかない。 * シッダールタとは、釈尊の出家以前の名前です。成就したもの「シッドハ」と目的「アールトハ」との結びついたことばによっています。ヘッセ自身の宗教的体験の告白ですが、心に沁みるように、というよりも心が文字と一つになるように、エチカの知、あるいは知のエロスといったものが、魂と魂の対話のように書かれた文章です。「一つ」なるものの姿が示されています。人の完成に向かって、人の形象のうえを巡礼するシッダールタの姿にヘッセ自身を重ね合わせた、「知と愛」の告白でもあります。心が開放されていきながら、文学に浸る喜びのなかにいる自分の魂を感じ取ることができると思います。そして心の衷からあふれてくる内なる「声」に気づかされるでしょう。困難に立ち向かう時に、どういう心であるべきかと問われたら、「虚栄」を棄てていれば、道はひらかれてくる。そのように思わされます。老いたシッダールタがゴーヴィンダと再会したときの言葉。シッダールタがシッダールタになるための完成に向かっています。認識のその「識」が深まり超えていくときの様子がみずみずしくありありと書かれている。その深いよろこび。「認識の超越」の場面。ヘッセ自身が自分を探求するなかで、「超える」ということを掴んだ瞬間が描かれていて、みずみずしい。まずはゴーヴィンダの問いがあります。彼はまだ、自分を認識することができない。故にシッダールタに問う。 「だが、おん身が『物』と呼ぶものは、実在するもの、実在のあるものであろうか。それはマーヤ(迷い)のあざむき、形象、幻影にすぎないのではないか。おん身の石、木、川ーそれらはいったい実在であろうか」シッダールタは次のように応える。「それもさして私は意に介さない。物が幻影であるとかないとか言うなら、私も幻影だ。物は常に私の同類だということ、それこそ、物を私にとって愛すべく、とうとぶべきものにする。だからわたしは物を愛することができる」と。愛のありようとして、「物」が「同類」と捉えられています。 応答のなかで、言葉が言葉の核心に向かっていきます。言葉の輪郭が見えてくる。物が現れてくる。「現れる」ということは「命」があるということです。それ故に、物は自分と同じである。だから物の命を愛することができる。それなのに、この現実がすべて幻影であるという、現実とはいったい何か。個人的な見解を述べると、見えているものは見えているようには無いということ。知っているようには無いということ。それが「認識」を超越するということ。「こころ」を「こころ」で知るということ。仏教唯識学派の「識」の姿がここには在ると思う。この「識」の考え方は、釈尊の原始仏教の考え方なのです。 ヘッセはこの応答の場面で、川の流れから「愛」のありようの時間の超越の境地に達するのです。きびしい苦行の果てに、ようやく達した「微笑み」でした。 *  「シッダールタ」は一六〇ページほどの短編です。けれどもここにあるのは、清らかな抒情と、求道するものの苦しみ、愛の懊悩、眼に見えている幸福を棄てたときに見えた「同時性の微笑み」、それによってはじめてやってきた魂のやすらぎがあります。 参考文献 ・ヘッセ全集第十六巻・全詩集(臨川書店) ・「シッダールタ」・ヘルマン・ヘッセ著 高橋健二訳(新潮文庫)

中原中也を夢中にさせたランボーのジェニー(想像力

ランボーは自分の眼で見ることに徹した。見ることは知ることだった。ランボーはハシッシュの服用者だったということ。そればかりではないが、そのことにより知ったことを書いた。「少年の小さな悲しみ、小さな喜び、それが絶妙の感受性によって途方もなく大きいものになり、やがて大人のなかで、いつのまにか、一つの芸術作品の原則となる。(ボードレール「阿片吸引者」翻訳・井上究一郎)より」「一つの芸術作品の原則」とは、脳が見て知った幻惑だった。美とは、醜そのものの美を讃えることになるだろうと予言したボードレール。ボードレールの死後マラルメは、《醜についての普遍的な理論》へと分け入っていきますが、脚韻を踏むことによって構築された、詩の意味と思想を困難にさせる人工的詩語の自然という美と音楽は、マラルメにとっては、醜というものの予期しない美への羨望が生み出した精神の甘美な絶望だったのではないか。絶望とは、肉体を失わずに芸術の側から死を垣間見ることです。言葉が《魂》としてだけ存在すること。それは《放棄の美》です。 (2014年エッセイ・抒情の宿命から超・抒情詩へ)

2025年1月24日金曜日

絵本作家・田島征三について

とても面白かった。後で、文章をまとめたい。 絵本作家では、他にも興味深く思っている人がいて、本を買ったままにしてあったので、これから考えを纏める。田島征三の絵は、力強くて、自然から発生した動物、植物、人間の命の尊厳を絵で描き出した。1977年、78年に書かれた児童文学者たちの「田島征三論」が、すごくて時代を越えて真理を突き詰めている。「すばる書房」は絵本とは別件で1979年に倒産してしまったことが惜しい。別件とは何か分からないが、検索するとそのように書かれている。

2025年のハーブ計画

今年のハーブ計画。昨年の実生苗も発芽すると思うので、露地か鉢植えにするか計画して行きます。|ディルとカモミールは、たくさん実生のものが発芽すると思う。もしかするとフェンネルも発芽すると思う。この3種類は発芽したばかりは、葉っぱが似ていて区別ができない。ローズマリーが越冬できたか確認していない。(寒冷紗で巻いてある)