2016年1月19日火曜日

詩誌「エウメニデス」からのお知らせ

お知らせ

「詩と思想」1・2月号(年鑑号)、詩集・詩誌の書評の論調は、現在の日本の社会言語背景を突くもので良かった。詩の言葉が向かう方向をともに希求していきたい。詩誌評で青木由弥子さんに詩誌「Eumenides Ⅲ」のシュルレアリスム連載論考について述べていただいた。氏名が文字変換誤りで京極裕彰とあますが、京谷裕彰ですので宜しくお願いします。50号では1年間の連載を振り返り、お二人のエッセイと、小笠原鳥類さんに、連載を読んでのエッセイを寄せていただきます。どうぞお楽しみに。



詩誌「Eumenides Ⅲ(エウメニデス第三期)」記念50号は、3月発行の予定です。新たな購読申し込みは小島へ。49号の在庫あります。*49号の内容は京谷裕彰さんのブログでご確認ください。。http://zatsuzatsukyoyasai.blogspot.jp/2015/12/eumenides49.html













論考執筆者名 京谷裕彰と平川綾真智









2015年11月20日金曜日

現実はどこにあるか 

    


1.無意識と詩の関係



 現在の日本におけるシュルレアリスム表現の言葉の使われ方は、「既存の状態を超越している」というような意味で「シュル」と用いられることが多いと思います。シュルレアリスムは、フロイトの精神分析を導入していることにより、無意識における心象風景を捉えるところに重きを置いているため、一見すると現実離れしている様に見られるのです。シュルレアリスムの意味は、日本語では「超現実主義」です。「現実を超えた現実」で、現実が強化された現実と考えます。

詩の創造という行為は、時間を扱うのではなく、言語空間を「世界」として差し出す行為であろうと考えています。詩はあらゆる現実の幻想を追って「見つけようのないもの」を探求する「世界」なのです。シュルレアリスムの名称は一九一七年、アポリネールが、自作の戯曲の装置を担当したパブロ・ピカソの舞台美術を指して言ったことに由来するのですが、一九二四年、アンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム第一宣言』において、精神分析的な考察を加えた「夢の全能性への信頼に基づく」芸術の総称へと採用し、以後も指導的役割を演じました。「現実」とはどこに在るのでしょうか。「現実は記憶の中に作られる」というマルセル・プルーストの提言を思い起してみてください。記憶の場所は「いま・ここ=Here and Now」という生きた現在のこの「現実の場所」に在るのだと思うのです。無意識の底へ鎮められた「記憶」は「いま・ここ=Here and Now」という空間の身体に喚起されてくるのです。芸術が創造されるこの場所は、また「無意識の意識への転移」が行為される空間です。

無意識と「詩」とはどのような関わりがあるのでしょう。無意識の底は「主体」的なものと「客体」的なものとが出会う場所で、「自己」と「他者」を媒介するものと、人類学者・レヴィ=ストロースは考えていました。ラングとは、それぞれの文化に内在する言語の体系ですが、この「無意識」を「ラング」とおきかえても良いのです。無意識的幻想が機能していて、覚醒したままで「夢」を見させている、そこは、言葉の表現は違いますが、オリジン=原初なるものであり、究極のリアル=真理の場所であり、精神分析家ジャック・ラカンの言葉では「現実界」、哲学者カントの言葉では「物自体」です。

「夢」については、レム睡眠は真の意味では睡眠ではなく、覚醒しているが麻痺した幻覚を体験している状態であり、覚醒と睡眠の本質的な相違点は、意識があるかどうかということです。睡眠中に見る夢のうち、自分で夢であると自覚しながら見ている夢のことです。前頭葉が半覚醒状態のために起こると考えられ、「明晰夢」の内容は見ている本人がある程度コントロールできるとされています。「夢」という睡眠における詩の言葉をどのような方向で読み取るか、その方向づけをしておこうと思います。

まず、「REM(レム)睡眠の発見」の著者・ウィリアム・C・デメント(William C Dement)によると、「人間は、睡眠期間中律動的に交代で出現する、REM(レム)睡眠と NREM(ノンレムnon REM)二種類の睡眠を経験している。眠りは意識の無いNREMの状態で、REM睡眠は真の意味では睡眠ではなく、覚醒しているが麻痺した幻覚を体験している状態をいう。(翻訳・大熊輝雄)」覚醒と睡眠の本質的な相違点は意識があるかどうかということです。深い眠りはNREMの段階が下降していくことであるということです。


2.「いま・ここ」から



知覚的現実と、具体的現実の現在に生きることは、同時に過去と未来に生きることなしにはありえないし、この場所における生こそが、芸術創造の「虚妄の生」であり、ポール・ヴァレリーが「第四の生」と呼んだものであるだろうし、この「虚妄の生」を生きることが、詩のヴィジョンが到達しようとする「無」ではなかったか。それは、インド仏教の「空(くう)」に到達する過程であり、歴史上の人物ナザレのイエス・キリストの「愛」と釈尊の「一切皆苦」の愛の相違を知る過程でもあると思う。


自分の皮膚や内臓が感じる熱さ寒さなどの感触や、脳が捉える映像や文献から得る知識が統合されて、手が自動的に文字を書いていく。そんなもう一つの第三の「彼」の存在が詩の高みに連れ去ってくれる至福が訪れるでしょうか。夢のなかで出会っている数々の映像と言葉。それが現実のなかで出会うことは異常な体験にほかならない。「語の現前」、という哲学的な言葉があるけれども、画家にとっては「画=語」であるだろうし、この「現われ=現象」はわたしたちが普通では見ることのできない「わたし」を捉えた瞬間だろうと思う。この「瞬間」という「入り口」に向かって、言葉を扱うものは、この身を裂いて侵入していくのだろう。いま見ている言葉を裂いてその輪郭を崩しながら言語のなかへ侵入していく。こちらも人間の輪郭を崩して、言語の輪郭になって言語を騙しながら、言語と合体する。やがてすべてが軌範から開放されて、あらたな「眼」が芽生えているのだろうと思う。

2015年11月8日日曜日

小島きみ子Xmas.オブジェ展




長野県佐久市の古民家カフェ「花桃果」で、Xmas.オブジェ展を開催します。古民家の洋間をお借りして1日だけの小さな作品展をします。どうぞ、お出かけくださいませ。当日は、客間で「朗読会」も開催しております。よろしくお願いいたします。










クロホオズキの種子のプレゼントを用意しました。少しだけですが。
紫の花が咲きます。そばにある、赤いホオズキではありません。
赤いホオズキは白い小さな花が咲きます。















































































































































クリスマス朗読会」のお知らせ








2015年12月5日(土)2時~4時半、長野県佐久市カフエ&ギャラリー花桃果で、小島きみ子主催による「クリスマス朗読会」を開催します。
どうぞ、お出かけくださいませ。参加費はテキスト+珈琲付きで1000円です。
*「花桃果」:長野県佐久市上平尾865―5 TEL:0267―68―6675









朗読会内容

*シンガーソングライター・俊智(シュンチー)さんの♪ピアノ演奏による♪クリスマスソングと♪オリジナル曲。富田昌利さんの詩に曲をつけた♪「ロハス」の演奏もあります。

*横浜市在住の朗読家・内海宣子さんによる宮沢賢治詩の朗読。「永訣の朝」ほか2篇。内海宣子さんは、ほるぷ社から絵本『雪の女王』の翻訳出版をしています。

*東信州在住の詩人たちの自作詩の朗読:平野光子・作田教子・富田昌利・菊池かえ子・塩塚加奈子。

*習志野市在住の詩人・大原鮎美さんのスピーチ「自由律と詩作について」

*甲府市在住の詩人・中村みゆきさんのスピーチ「短歌と詩作について」

*小島きみ子と塩塚加奈子による朗読。小島きみ子詩集から「ジーザズ・ラブズ・ミー」。香川県の詩人・勅使河原冬美の楽曲付き。

2015年10月22日木曜日

カニエ・ナハ新詩集ほか。十月に読んだ詩集。


1.カニエ・ナハ詩集『用意された食卓』  株式会社ポプルス

 カニエ・ナハさんのまとまった詩篇は、この詩集で初めて読みます。広瀬弓さんと創刊された詩誌「ドルフィン」は広瀬さんを通して拝読していました。

 さて、詩集では、表紙を捲った扉から、「塔」という詩が始ります。とても静かな詩です。この詩が創作されている背景に人の気配がしません。死後の世界なのです。透明な絶望感が、なぜか明るい光のように、言葉の上に射しています。

「生まれている人が、存在しない/静かな一日を置く、/いま覚えていることを/つぎの8月まで覚えておくこと。/故郷に近い/他の土地で/恐れる様に/人の話に耳を傾けてきた、/私は自分の記憶の深い/終わりに近い/生誕で、/隣り合った、離れない/領域、家の一つ同じ名前の/様々なものに/鎮守のために/静かに/風に、私がはためく音を聞いていた。/太古からの雲/(風の流れ)と呼ばれる意図/それに従う/生まれただけで純粋な木/今あなたの庭にくる鳥のように、/自分自身を清潔に保つこと/火を汚染しないこと/世界のどこかで探している/自分と同じ火/血液の哀悼の/それは厚さであった/(後半省略)」


 それから、この詩集は全篇が特徴のある句読点で繋がれていく行分け詩です。句読点のない詩句の1行の文末は、形容詞であったり名詞であったりしますが、句点までの距離はとても短くて、一言一言がゆっくりと噛みしめられるように、息を吐き続けます。
 静かな息。静かな、低い声の息が、絶望をやりつくしたあとに湧いてくる清い水のように、小石のうえに流れる光が、さんさんと光りながら泣いている。その声を聞いてしまったものは、刃を呑みこむしかなかったのだろうと思う。
41P.「小石」全行。


「ここに、空洞があり、さんらんしている。ひと/粒の、小石の泣く、あまりに泣くので、私の/目が潰れる。S駅を出てすぐ、一瞬、見えた。かつて、柳が/あって、その下に、お地蔵様がおられて、(夢は削られた。星明りを消せ。/地めん深くこうべを垂れろ。烈火、轟音、硝煙/の匂いが、扉を通るたびに、遠ざけられた、私が消える/まで、放置された、小石の泣く、あまりに泣くので/私の目が潰れる。神経がやみにとどいて、光景を構築する、/かつての時間が、右往左往している。そうして、/世界の半分の門は閉ざされた」










2.佐久間隆史詩集『あるはずの滝』(土曜美術社出版販売)

 前詩集より十年ぶりの詩集という。いろいろと好きないい詩が多数ありますが、2編くらい紹介をします。詩集タイトルの「あるはずの滝」は巻頭より二番目に配され、「あるはずの滝」の立札の写真が詩編中に挿入されている。この立札は、箱根塔の沢の老舗旅館「環翠楼」の離れ座敷の前にたてられている。

中ほどを引用する。
「その立札は、離れ座敷の少し先にある露天風呂の扉に手をかけたとたん、それまでなかった意味を持って、私の前に突如立ち現れたのであった」

後半部分。
「悠久不変の、かの「絶対の滝」の音をふと耳にしたそこにたてられた立札と思われてきたからである。」なんとも興味深く、その離れ座敷の立札を見てみたいものだと思う。66P.「読経」より。「ひとの生涯とは/いったいいかなるものなのか//朝起き/そして夜には寝て/たかが八十年/二九二〇〇日//しかし そんなことを考えていること自体/自分が自分の生を失っているあかしなのかもしれない//やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」








3.阿部嘉昭・新詩集『束』(思潮社)

 作品のタイトルは全て漢字1文字です。
詩篇の特徴は、平仮名で書かれた詩句のなかに、作品タイトルに沿う意味と漢字が幾つか配置されていることです。
106P.詩集タイトルの「束」を紹介します

「たばであることに/かたちの謝意がある/ふくすうをまとめ/さしだすにやりよく/しかもそれが顔を/かくすのだから/みずからもあいまいな/数本にかわるのだ/ひとつかのたむけは/かるくつかまれて/ゆれのようなものを/あいだへつたえる/にぎるほうのゆびも/つかのまとまりをなして/せかいが諧のたばなら/一会などせいぜい/まにあわせの数本で/てりあってしまう/このせかいがこしかたで/なびくわらたばなら」












4.颯木あやこ詩集『七番目の鉱石』思潮社刊。

 彼女とは熱海の歴程セミナーで初めてお会いした。
凛としていて、まだ学生かと思うような方だった。新詩集は、野村喜和夫氏の解説にもあるように一瞬驚いたが、美しく変貌した。伊武トーマさんの解説が愛おしい妹を見つめる兄のような視線で書かれていて温かかった。送られてくる詩集は、家事の合間に開いて読みます。

「苺踏む」も好きですが、きょう開いたページは、「待つ夜」でした。紹介したいと思います。


「膣のほとりに ひとりの修道女がいて/うすいくちびるから/蜘蛛の糸を吐き出している//織り成された巣は 影のようにくぼみを覆う//小石を投げてくる少年がいて巣をたわませ(省略)わたしの膣の深くでは/草の芽が ひっそりと/空とはどんな色だろうかと夢想している」









5.2014年10月に発行された伊藤浩子詩集『undefined』(思潮社)をようやく読み終えました。

 この詩集の内容を、詩情だの詩的だの、という言葉で読んではならないと思う。
彼女は、選りすぐったundefinedを書きたいように書いた。そして、その内容は現代の人間の孤独が、星屑の夜の星の光のようにちりばめられている。男と女のセックスにまつわる哀しみや、怖れや愁いが、秋の夜の冷たい星の光のように照らし出されているのです。

伊藤浩子の愁いに充ちた眼差しを文章の奥に感じた。
一番おもしろかったのは「刺青」の最後から3行目〈あんたはおれを捨てた母親なんだ〉という言葉。

その次は「古だぬきの手紙、一人息子のメール」という作品のやはり終わりから3行目〈僕にとって愛情とは、赤い満月とモーツァルトのアリアと同じように、妖しく美しく同時に飢餓そのものなんです。〉という言葉だった。

もう1つ。不倫をしながら盗みを重ねる女の物語=「クレプトマニア」は、その相手のワタナベの心理にとても興味を持った。
エディプスコンプレックスが関わってくるのかな、と思った。






6.高塚謙太郎詩集『ハポン絹鞘』(思潮社)ほか2冊


 画像だけで、申し訳ありませんが、高塚謙太郎詩集『ハポン絹鞘』(思潮社)を10月までに読んだ詩集のなかにいれておきます。





『memories』については、詩誌『エウメニデス』49号(12月発行します)で、お読みください。
『ハポン絹鞘』、『memories』、『花嫁』と、2014年からの高塚謙太郎の充実ぶりは、すばらしいと思った。昨年は、送付されてくる詩集を読むので手がいっぱいでした。気になる人は、今から読んでもいいのです。