2013年7月21日日曜日

7月前半の詩誌の紹介

詩誌のご恵送ありがとうございます。7月前半は少し体調を崩してしまって、読んで書いてブログに纏めるという作業ができませんでした。7月前半の詩誌をセレクトして、4誌について感想を述べつつ紹介をします。



1.黒崎立体さんの個人詩誌「終わりのはじまり」。これは表現の発表媒体がセブンイレブンの「ネットプリント」です。プリントできる日に外出できなかったので、ご本から送っていただいて手許にあります。PC.からファイルを登録すると、ファイルに「予約番号」がつけられ、この番号を店内にあるコピー機に入力するとファイルをプリントアウトできるというもの。初めて接する仕組みです。それで、作品ですが、痛々しいと感じる部分が「詩になっている」とすれば、詩人の感情や感性は、極めて病的な危機的なものの上に存在するのか、などと思う。精神の危機的状況を創造することは、詩に限らず文学作品には必要な事と思ってはいる。「とぶ」という作品のなかで(水が、不足するとささくれが できます。)というフレーズがある。この(ささくれ)が、彼女を詩人にしている。作品は、小学校低学年と思われる少女が「おしっこ」を教室でもらしてしまったときのことを書いている。着替えを持ってきた母に「帰ろう」と繰り返される声が、大人になった今も、何かの疵がぱっくり開くように繰り返される。この痛みは、「ふれるものをうつくしく見るとき、」へ、と変換されていく。それが現在の彼女の立ち位置だろうと思う。
★ここにある「痛み」は、実はとても大人の感覚なのです。だからこそ、現在の彼女が「ふれるものを」詩にすることができるのです。それで、この痛みは、「サクラコいずビューテイフルと愉快な仲間たち7号の小林坩堝さんの作品「砂漠」の2に似ているように思う。坩堝さんの作品は、けがをして血を流しているのに「保健室」へ行かないでいて結局、家へ帰るのだが、これも子どもの強情やいじっぱりではなくて、「デリケートな」感性があるのです。子どもの悲しみを、理解するとは、「子どもという小さな人」を尊重することだと二人の詩を読んで思ったのです。



2.詩誌「ひょうたん50(2013・7・16発行) 」 長田典子さんのプリシラ・ベッカーの翻訳詩と自作詩をまず読む。自作詩「空は細長く」というタイトルが生まれ育った村暮らしの幼年時代へ遡る梯子段みたいで素敵だ。少女の感性がまた凄い。「こんなにきれいなものをみつけたよ!」と両手いっぱいに乗せて寝起きの祖母に見せたものが何と「これが山羊のうんこだなんて」だったのだ。最終連が感傷的ではなくて、実に爽やかだ。それは、「朝露に濡れた叢の中に光輝く黒いもの」が〈きれい〉という価値が彼女のなかで少しも揺らいでいないからだ。引用する。「あのころ/空は細長く/幼かったわたしは/友だちと遊びすぎて遅くなると/覆いかぶさってくる漆黒の森の真上に開いた/藍色に曲がりくねる空をなぞるように見上げながら//」


 3.高塚健太郎さんからお送りいただいた詩誌「サクラコいずビューテイフルと愉快な仲間たち7(2013・6・30発行)」 より。高塚健太郎、小林坩堝さんの作品を紹介します。
高塚健太郎さんの「memories」は8つの散文詩を、あなたとの春の夜の夢という序文で書きだしていく。高塚さんの詩で時々感じるのは、女性の動きを繊細に見ているという感じを感じさせる。最初の「肺姉妹」で「息の揺れは、その美しさの妹となる」で、全ては「息」が流れていく。以前、別の詩篇で「いきすだま」という言葉が出てきたが、「息」が描かれるとき、霊気なようなものがこちらに流れてくる。最後の「ブラジリア」の「永い世代の後に革命が起こっても、それらの、花園、血液の季節、嵐が丘、という名だけは残される」が妙に生臭く記憶に残ったのは、ここで「血」が扱われているからだろう。息と血の流れが、こちらがわで書いている詩人と女性(と)の息で語られるという、春の夜の夢八夜。
 次に、ヒラッと捲ったら「あたしのこと、愛してる?」「愛してるよ、もちろん」そして男女は性交した。//誰だろうと思ったら坩堝さんの「砂漠」という作品だった。この「砂漠」は#1?#5まであるのだけれど、坩堝さんはとてもおもしろくて個性的だと思う。ここでも、知っているとか知らないとかの経験の知を超えて、子どもの心を大人の眼差しで知っている。自分のなかの子どもの心を遡って書いてはいない。子どものときから、大人の心を持っていたのかもしれない。#2が好きだった。


4.1971年7月20日創刊の詩誌「孔雀船」82号。

 巻頭は海埜今日子さんの「うつつゆめ」。ますます自由で、ひらがな文字に託したたおやかな感情は「そらゆくゆめの、なんて、しじまよ」夏の夜の夢よ。と思う。


  「児童文学とポエジー」の連載で『「夕鶴」と〈罪と罰〉』を藤田晴央さんが、亡くなられた奥様と木下順二の「夕鶴」のつうのことに絡めて書いておられます。奥様は中学三年生のときに「つう」を演じているとのことでした。「見るなのタブー」とは、世界各地の神話や民話に見られるモチーフの一つ...で、何かをしている所を「見てはいけない」とタブーが課せられたにも拘らず、それを見てしまったために悲劇が訪れるというものです。または決して見てはいけないと言われた物を見てしまったために恐ろしい目に遭うという類型パターンを持ちます。「見るなの禁止」とも言います。民話の類型としては禁室型(きんしつがた)とも言います。藤田さんの考察は、「夕鶴」における「見るなのタブー」は、与ひょうに下った〈罪と罰〉という見解でした。

  文屋順さんの「内なるものに/」は、とてもナイーブな作品でした。 ご自身の「内なるもの」と「失われた人たちの鎮魂」への衷なる思いが重なっていると思いました。
 
 この雑誌で楽しみなのは、小柳玲子さんの「詩人の散歩道」。今回は「エドゥアール・マネを巡って」。マネの弟と結婚したベルト・モリゾは私もファン。小柳さんが5P.の文章のなかで、最後にこのモリゾに触れている。モリゾは、19世紀印象派の女性画家。「すみれのブーケをつけたベルト・モリゾ(1872年)」は、優雅で優しくて、ただそれだけではない知性の眼をした肖像画です。そして、モリゾの絵は、画布に置かれた絵具の色彩が対象のそのものの存在感を現しているといつも思う。彼女の絵で好きなのは、ブージヴァルの庭のウジェーヌ・マネと娘(田舎にて) (Eugène Manet et sa fille au jardin) 1881年)
パリ郊外セーヌ河沿いのブージヴァルのプランセス通り4番地に借りた別荘の庭で、街の模型で遊ぶ娘ジュリーと、それを見守る夫ウジェーヌ・マネの姿が描かれている。愛する家族の姿を愛をこめて描くことができて、それが見る人に喜びを与えることができるなんて、芸術にとって幸福な事だと思う。
 

 

2013年7月12日金曜日

ブルーベリーの実が熟すころ






cellの外は、台風の風に煽られた時間が、吹き飛ばされながら、野原の樹木に巻きつこうとしている。 桜の花が咲いて、しだれ柳の芽が吹いて、ヒマワリが太陽の方向をグルグルと回ってゆく。夏の盛りだっただろうか。青いコットンのブラウスを着た女性が小川を飛び越えて、野原のクヌギの木の下へ行こうとしている。あの女性はたぶん、私だったと思う。

         
彼女は昨夜、子どもを産んだばかりで八時間の安静時間が過ぎたので、ゆっくりと素足をベッドの下におろしてみる。ベビーベッドでは、彼女の長男が親指をしゃぶりながら眠っている。壁には祝福の黄色のドライフラワーが飾ってある。東の窓は幸運がやってくる場所だ。

きれいなドライフラワーたち。覚えておくのよ、坊や。あなたはわたしたちの愛だけから生まれたピュアな子ども。あなたの誕生を祝福するためにこの壁は黄色のバラでママが作ったのよ。

彼女は、部屋の中をゆっくりと歩いてこれからの生活に不必要な思い出を忘れてゆく。そのたびにどんどんスリムになって腹部から大腿部にかけての妊娠線の跡さえも消えた。シャワーを浴びながら自分のからだを丁寧に調べる。

どこも傷んでいない?

ええ、だいじょうぶそうよ。うまくいったわ。そうね。うまくやったわね。これからどうする?きまっているわ。子どもを育てるのよ。そう、それがいいわ。私も経験したのよ。子どもを育てるってとてもステキなことだったわ。よろこびと悲しみとスリルに満ちていて。緊張と憂鬱と倦怠と、はげしいフラストレーションの毎日。それは失望と希望の谷と丘を経験することだった。あなたの種子がどんな未来を持って生まれてきたかによって異なるとは思うけれど。多分あなたは、テンションの高い瞬間を経験するわ。そしてそれが何度も繰り返される。生命が危機的状況のとき、私たちは単体で卵を産むことができる。このcellで生まれたこと自体が、すでに、この子の運命を決定的なものにしてはいるけれど。一度、破壊された後の世界に生まれたということは、使命(ミッション)のほうから、この子の人生に問いかけてくるのだから。大丈夫。生きていける。私が守ってあげる。あなたたちを殺して食べようとする動物はここにはいないわ。

彼女はゆっくりとベッドに戻る。

まだ、少し足がひきつれるわね。羊水のゆれる音が聞こえなくなったのは、少し寂しいけれど。からだはかるくなったし、また、もとのように活動的になれる。私のなかに別の人格がいなくなった奇妙な爽快感。これってなんだろう。私から続いている肉の塊が私の外に出て、私以外の生命として存在するなんて。彼は私であったのに、今は彼でしかない。

坊や。何か喋ってごらん。だれにも遠慮はいらないから。 (本来、子どもは生まれたときから言葉を話すことができる。それは音声ではなくタッチで始まる。ママとベビーが指と指を重ねて話すのだ。右手と左手のすべての指のタッチで始まる。もし、それができない状況下であれば、目を見つめればいい。)

ママ、ぼくはだれの子どもなの?

私と私のママの子どもよ。それと忘れてしまった思い出。心配しないで。私たちはいつもあなたを見守っているわ。ここでは、みんなそうやってピュアな種子として生まれ続けるの。死も新しい種子を誕生させる通過儀礼の意味があるわ。

ママたちの子ども?
そうよ。安心した?
安心したよ。ここで生まれて良かったよ。ぼくもきっとうまくやれる。ぼくの未来には、ママの忘れた思い出が少しだけ含まれているようだ。ぼくは水の中で息をすることができる。鳥と空を飛ぶことも。ああ、そしてこれはぼくの過去?ぼくは落ち葉のように枯れて朽ち果て土の下に埋もれる。どういうことなんだ?ぼくの土の上にママが見えるよ。ああ、ママがぼくのうえに倒れる。緑の木?ぼくは木のなかにいる。木の枝の上にも。ぼくは飛んでいく。だれ?ぼくを草の上に倒すのは。ぼくを水のなかへ連れて行くのは。ママ、これがママの思い出なの?ママ!

ぼくは遠くへは行かない。ぼくは仮想と呼ばれたcellの窓から出て行き、無常の記憶の現実のドアへ戻ってくる。ぼくはぼくの望みのように生きて終わる。きっと戻ってくるよ。ママのそばへ。しずかにそっとブルーベリーの実が熟すころに。ママ、ぼくは行かなくちゃ。野原のクヌギの木の下で、ぼくを待っている人がいるんだ。ぼくが生まれる前からぼくに与えられていた使命だから。ぼくの生まれて来た意味がそこから始まるんだ。ぼくの未来のすべて。ぼくがママの長男であったことの使命だ。ここを出て行くということが。この黄色のバラの窓はひとつのcellなんだ。ぼくたちは固有の環境だけれど、連鎖している。さよなら。ママ、また会えるよ。この季節、ブルーベリーの季節に必ず戻って来るよ。

彼女の長男は東の窓から飛び立ち、水の中に魚の影を映し、再び雲の上にたち、鳥の形の声で鳴き、クヌギの木の下で一人の女性と出会った。彼らは懐かしい記憶に木の葉のように体を揺すった。二人はもはや、自分がだれであるのかさえも忘れた。今、二つの魂がひとつのものになろうしていた。(やがて、そのときがみちた)彼らは枯れて朽ち果て、土の中に埋もれ、一粒の種子を残した。  高原から運ばれて来る真っ青な空の深い吐息に乗って、季節の小鳥たちが集まって来る。ブルーベリーの実が熟したのだ! cellが一斉に開かれている。

2013年7月11日木曜日

葦の荒地における読書ノート


『神の仮面 西洋神話の構造(上)(下)』 J.キャンベル著。山室静訳。(青土社)

  「葦の荒地における読書ノート」を読んでいると、2012年の夏はたいへんな日々であったことがしのばれます。39度の熱を出して市立病院の緊急外来へ続けて2日も通院したということ。途切れた文章でしたが、紛失したフォルダから救出したばかりなのです。なぜ、このノートが「葦の荒地」なのかというと、本屋へ本を買いに行く裏道が「葦の荒地」なのです。背丈を超える原野が、街中にあるということの奇異な風景を、楽しんでいたのですが、とうとう買い手がついて、葦は刈り取られ、火が放たれて、新しいマンションが建ったという、どこの街でもあるごく普通の出来事がここでもあったのです。そんな夏の読書でした。山室静(1906年(明治39年)12月15日 - 2000年(平成12年)3月23日)先生は詩人・文芸評論家・翻訳家であり、北欧文学の研究者で、トーベヤンソンの「ムーミン」を翻訳して日本に紹介されました。山室先生は長野県佐久市に縁があり、私は、先生の名前を冠した「第19回・山室静佐久文化賞」を2002年に受賞しました。山室先生の広範囲のお仕事を学ぶことは至難のことですが、2012年から少しずつお仕事の後を追っています。この大著を読み通すことも発熱の原因でした。2013年の夏に、リライトすることも夏の因果は巡るということでしょうか。



1)『ヨブ記』が示すもの
東洋と西洋の神話と祭式の境界はイランの台地である。東には、インドと極東との二つの精神的地域があり、西にはヨーロッパとレバント(小アジアの地中海沿岸地帯をさす)がある。東洋を通じて、存在の究極の根拠は思考、想像、定義を超えるという観念が優勢である。定義づけることができないのだ。そこで、神、人間或いは自然が善い、正しい、慈悲深い、或いは親切だと論じることは、問題に届かないのである。人は同様の適当さ、或いは不当さで、悪、不正、無慈悲さ、或いは悪意をもつものと論じえたろうから。すべてこのような神人同性的な叙述は絶対的に合理的な考察の彼方にある実際のエニグマ(謎)を遮閉するか仮面をかぶせるかするのだ。しかもこの見地によると、まさしくそのエニグマが、われわれ各人の、またあらゆる事物の存在の究極の根底なのである。かくて、東洋神話の最高の目的は、その神々やそれと結びついた祭式のどれをも実体的なものとして確立することではなく、それらを通してその彼方に行く経験、内在的でもあり超越的でもあり、しかもそのどちらでもなく、ないでもない、かの存在通の存在との同一性を提示することなのだ。『知るとは知ることではなく、知らないことが知ること(インドのケーナ・ウパニシャッド2章3節)『おお、なんじ、行ける者よ、なんじは行けるなり、彼方の岸に行ける者よ、彼方の岸から船出せる者よ、悟り!ようこそ!(般若波羅蜜多心経)』神話的思想と想像の西の系列では、人間だけが内部に向かって、ただ彼自身の被造物としての魂の経験をすることができるのだ。『ヨブ記』が示すように、彼はおのれが神の荘厳を見るところのものを前にして、自己の人間的判断を放棄するかもしれない。「見よ、わたしはまことに卑しい者です。あなたに何を答えられましょう?(ヨブ記40章2)」と。或いは他方で、彼はギリシャ人がするように神々の人格を審くかもしれない。*発達と伝播の新石器時代時代村落の段階において、あらゆる神話と礼拝の中心の姿は、生命の母で養育者で、また再生のための死者の受け取り手なる、物惜しみしない大地母神であった。彼女の礼拝の最初期(レバントでは紀元前7500年から3500年頃)では、このような母神は多くの人類学者が想像するごとく、ただ地方的な豊穣の女守護者とかんがえられたのかもしれない。青銅時代が週末に向かうにつれて、古い宇宙観と母神の神話は急激に変形されて説明しなおされて、おおまかにいえば抑圧されさえした。突然に侵入してきた父権的な戦士の部族によって。*母神:イヴ:皮を脱いで若さを取り戻す蛇の不思議な能力は、そのために世界を通じて生まれ変わりの神秘の師匠たる性格を得た。その天における徴が、満ちては欠け、その蔭を脱いではまた成長する月なのだ。月は生命を創造する子宮のリズムの、それと共にまた、それを通して存在が来たり去ったりする時間の主でまた尺度であり、誕生と同様にまた死の神秘の主なのである。蛇は死の果実のようにぶらさがる。




2)善と悪
近東の早期の神話組織では、後の聖書の厳格な父権的組織と対照的に、神聖は男性の姿に劣らず、女性の姿で表現されることができ、資格づける姿そのものは、究極は無限定な、あらゆる名と形を越えてしかも内在的な、原理の単なる仮面にすぎぬことを認識する。知恵(悟り)の実と不死の生命の実。つねに死にゆき、つねに復活したシュメルの神。月がその影をぬけだし、蛇がその皮を脱ぎ捨てるように、死んで宇宙の大母神の彼女の許に帰ることで、その神は再生する。ブッダの教義と伝説では、死からの解放の観念は1つの新しい心理学的説明を受けた。エデンの園では、主なる神はアダムが善悪を知る知恵の木の実を食べたと知ったときは蛇を呪い、天使に告げた。「見よ、人は善と悪を知ってわれらの一人のようになった。だから、いま、彼が手を伸ばして、またもや生命の木の実をとり、それを食べて永遠に生きることのないように」と。
「隣人を愛し、敵を憎め」マタイ伝5章43?48・敵を愛し迫害するもののために祈れ。このようにすれば、あなたは天にいます父の子となるであろう。キリスト教神話の起源はペルシャの影響による旧約聖書の思想からの発展として説明できるように見えるかもしれない。愛と、恐らくは特にユダヤ人という代わりの人類の観念の強調を除いて。


「神の似姿」として。
160P。もし「神の似姿」として作られたアダムとイヴが一緒に現れたのならその時は神は単に男性ではなく、二重性を超えた両性具有者だったはずだ。その場合はなぜ神は男性形で礼拝されるのと同様に本来は女性として礼拝されてはならなかったか。

2013年6月25日火曜日

エル・グレコとマニエリスムの美


 

 私の好きな画家にエル・グレコがいます。きょうは、エル・グレコとマニエリスムの美について紹介をしたいと思います。

 

 マニエリスムは、「窒息しかかっていたルネッサンスの古典回帰に、新しい命を与えた」のです。ミケランジェロや、ラファエロの後期の作品の中にも、既にマニエリスムを思わせる技法がみられます。三大巨匠の手によって、完成の域に達していたルネッサンス芸術に、新たな可能性を見出そうと、試行錯誤の末の賜物としてのあり方が、マニエリスムでした。画家の主観によって引き伸ばされた人体、炎の光のように揺らめく非物質的な空間は、劇的な緊張感を演出し、見る者の内面を上方へ、上方へ、つまり天へと引き上げようとするかのようです。

  

 グレコはエーゲ海に浮かぶクレタ島が、生まれ故郷でした。トレドにやって来たのは三七歳の頃。宮廷画家になるという野心を秘めていました。そのグレコに与えられたのが、大聖堂からの仕事だったのです。それは、聖具室の祭壇を飾る絵の制作でした。聖具室は、僧侶達が法衣などを保管し着替える場所です。この部屋に相応しいテーマとして考え出したのが、『聖衣剥奪』だったのです。一五七七年、グレコは制作を開始します。宗教画には、一つの目的があります。中世は、文字を読めない人が多い時代でした。宗教画が、聖書の代わりを務めたのです。そのため絵のモチーフは、聖書に基づかなければなりません。教義の解釈を誤ることも許されません。聖書を読み、時には断食をし、瞑想に耽ります。 



1 『胸に手を置く騎士』El Caballero de la mano en el pecho

プラド美術館の公式ページに行くとこの有名なエル・グレコの絵が紹介されています。
「手の指を開き、中指と薬指だけを閉じなさい。罪が犯される時。困難に出会った時。絶望の淵に立たされた時。その手を、痛み続ける胸に当てなさい」。この言葉は、イエズス会の創始者イグナティウス・デ・ロヨラが著した『心霊修養』という本の中の一節です 
「キリストの不思議な手の形」。苦しみと悲しみに打ちひしがれた時、生きていくために。その謎を解く鍵が、この本に記されています。イエズス会の創始者イグナティウス・デ・ロヨラが著した『心霊修養』というグレコの愛読した本です。 困った時には、この手の形。誰かがあなたを救ってくれる。
 
 


 

2 『聖衣剥奪』

グレコの絵が再評価されたのは、三百年後の一九世紀半ばの事でした。トレドのシンボル大聖堂に『聖衣剥奪』はあります。『聖衣剥奪』は、キリストが十字架にかけられる直前の姿です。グレコは、本来粗末な外套を宝石のように輝く赤で描きました。これから磔の刑を受けるキリストと、取り囲む男達の混乱と緊張。三人のマリアが、息を呑みながら十字架を見つめています。

全身全霊を打ち込んで神に仕え、世俗の欲望を捨て、絵に向かいます。画家は、神の意思を伝える道具になるのです。スケッチを重ね構図を作り上げます。高価な鉱物の顔料を買い求め、自ら絵の具を作ります。こうしてグレコは、『聖衣剥奪』に取り組んでいったのです。
 

 ご興味のある方は拙著『人への愛のあるところに(洪水企画)』を手に取ってお読みいただければ嬉しいです。出版社には残部がありませんが、購入希望のある方は、「詩誌・エウメニデス」のメッセージボックスからご注文ください。http://jarry.sakura.ne.jp/eu/
拙著『人への愛のするとこに』洪水企画・2011年発行。
この本の帯文は、詩人の松尾真由美さんです。
「表象の深層にせまろうとすれば音楽も美術も哲学も召喚される。 小島きみ子の詩への問いかけは、 我々を光のもとへとともに歩もうとする言葉の連なりであり、 その在るものへの探求は、理知と愛で満たされている。(松尾真由美)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2013年6月21日金曜日

6月の詩誌・詩集紹介


6月の詩誌・詩集紹介:2013年5月でweb公開誌「詩客」詩時評の担当が終了しましたので、送付されてくる詩集・詩誌は、前半と後半に分けてfacebookでも紹介しました。20日までで締切って、ブログ「風と光と詩論の場所」にまとめて書いていきます。6月は6月1日より6月20日までに届いたものの紹介をします。

 

 

 

1.詩集:

・池井昌樹さんの『明星』を日本の詩祭会場で購入して帰りの新幹線で読んだ。何気ない日常の人間の心の襞をじっくり書き上げていると思った。家族愛が書かれているが、人間の孤独が書かれてもいて、絶え間なく行き過ぎる時間への、生へのノスタルジイを感じた。

 

・岩井昭詩集『この片隅の夕暮れに』(私家版)「木というもの」から。木がでかけるのを/みてしまった/いっしゅんの目くばせだったが/いまごろどんなかぜのいんぼうを/たくらんでいるのか/葉がそよぎ/いつもの場所にあるにはあるが/木というものはいなかった//」短詩の方ですが、ゆったりとした情緒があります。その中には、詩人の喜びや哀しみも。フランス装のこだわりのある瀟洒な1冊。一六編を所収。中日詩人会の詩人。

 

・秋山基夫詩集『長篇詩 宇津の山辺』(和光出版)和綴じ本。こういう方法もあったのか、という軽い衝撃。序に始まり後註まで49P.繊細な言葉使いだなあ。先日の詩祭では、挨拶もできずに失礼しました。どの辺を引用すればいいのか、区切ることができないほどに、言葉がよどみなく続く、おもしろさ。贅沢な本だなあ、とても真似ができない。長篇詩、それだけをとりだして私家版で発行できたらいいなあ、うらやましいため息。

 

・新・日本現代詩文庫『阿部堅磐詩集』(土曜美術社)阿部さんは中日詩人会の会員。阿部さんは神職でもあり、教職はすでに退職されて久しいはず。10冊の詩集と1冊のエッセイ集を発行されている。里中智沙さんの解説に頷く。「一見なくてもいい無駄な部分にも見える。・・・「無駄」が楽しいのだ。阿部のことばは説明ではなく、それを物語っている。

 

・松本賀久子詩集『惑星詩集』(土曜美術社)1962年生まれの方ですが、すでに詩を書き始めて37年余りということですから、なかなかの詩歴です。あとがきに「五歳の時既に私は、普通のオンナではなかった」とありますが、オンナであるかどうかはともかくとして、普通の人であると思いました。私も「シンデラ」になりたいとは思っていませんでした。松本さんは薬剤師さんです。そもそも感受性の鋭い人は、変わった面白い子とみられがちです。そういう子が、詩が好きで大人になった。そう考えればいいと思います。彼女の詩は、科学的な感受性で書かれています。「惑星」のことが九作品。それから「止水栓から」が十三作品。

 

・山田兼士評論集『高階杞一論』(澪標) 詩人高階杞一の十二冊を読み解く。「びーぐる」という季刊誌の編集同人。高階さんは十二冊もの詩集を出しておられるが、わたしは一冊も読んでいないという不届きもの。いろいろな賞を受賞されているので、その都度の選評から想像はしているにすぎない。山田さんの詩人論を読むと、引用された詩の解説が実に的確で親愛に満ちていて、新鮮で日常の概念を崩しながら、詩の核心へせまっていく。そのことは作品そのものが「新鮮で日常の概念を崩している」ということを浮き彫りにする。そこにくっきりと現れてくるのは「詩の未来」であろうと思う。

 

・中森美方詩集・思潮社現代詩文庫199 この詩集は、解説を書いておられる神山睦美さんに送っていただいたものです。中森美方さんには、昨年の夏にお会いしたような気がしています。解説は、北川透さんも書かれています。北川透さんの「手紙」もまた、中森さんの(暗黒)に呼応する〈暗黒〉でありました。(暗黒)とは、おそらく詩を書くものに宛てられた「挨拶」なのでしょう。

それで、巻頭の「詩人への手紙」。「暗い淵へ踏み出すためにはどうしても挨拶が要るのだ/血走っているきみの眼に影を落として過ぎてゆくのは春の雪だけだ/おれたちは河べりの街で暗い貌をして/食事をしたり煙草をくゆらせたりした/そして陽気に笑ってもみせた/血縁にも見離されてゆくきみの貌がうつる/・・・」そして神山さんの「取りかえのきかない不幸」のなかにある「人間の生というものは、それが誰の生であっても修復可能なものは一つもない。そのかぎりにおいて誰もが、その人に刻印された取りかえのきかない不幸を背負って生きている」というところが、やがて大正九年八月二日に「七鬼村」で起こった津波へとその共苦(コンパッション)を引き継いでいくのです。

 

・池田康詩集『ネワエワ紀』洪水企画の詩人の遠征シリーズとして発行された。魅力的な企画。表紙カヴァーの裏の文章に「詩は必ずしもいつも詩のなかにあるのではない。詩はあらゆる創造行為の内部にかくれることができる。そして悪さを企て、あばれ、火花をまき散らす。詩はしばしば冒険する詩であり、遠征する詩である。それは例外的な行動ではなく、むしろ詩の本来的な遺伝子に属することなのではなかろうか。ジャンルの枠を浸す〈洪水〉的思考とともに生まれてきた二編を収録。」といように二編の長篇詩によって構成される。これは、バシュラールの空間の詩学を実践したような詩集だな、と思う。「夢の動脈は間昼間も脈打っている。」「錯覚の対話は錯覚の余韻であり、夢への入り口である」「港から船に乗る。ネワエワの水は鈍色で、急 ではないが力強い」ようやく「ネワエワ」の名前が出てくる。「気がつくと新宿伊勢丹の前に転がっていた。占い師のババがしゃがんでSを覗きこんで、告げる。「夢の動脈は脈打ちつづける。昼も夜も。ここでも、あそこでも」。」・・魅力的。こうした領野への挑戦が、現代詩を思考し創造することだと思う。

 

 

詩誌

・橄欖・第96号。日原正彦さんの発行する同人誌。発行の遅れた原因が書かれていますが、日原さんの奥さんが癌を患っていらして、三月に亡くなった。凄まじい闘病に寄り添いながらそれを超えて詩を書いていく。書くということの激しさと素晴らしさ。人の命の不思議さ。辛いことも苦しいことも書いて、乗り越えていく。命が通う、とはそういうことだろう。心よりご冥福をお祈り申し上げます。合掌。

 

・馬車no.48.春木節子さんが発行責任者。一六人の同人のうち男性が二名参加されています。巻頭詩は馬場晴世さんの「月の光に」。昨年、馬場さんの文庫の書評を書かせていただきましたが、馬場さんの静かな深い言葉の井戸はとても魅力的です。「月の光を浴びている/波紋が消えてゆくように/気持ちが静まってくる」。滝川優美子さんの「お医者様に」も愉快な作品です。春木節子さんの「ランドルト環について・指をなくして」は、「コートのポケットに 手を入れたあなた」の指は、ドキッとする素敵な指だった。「冷えきったわたしの指を/小指からひとつひとつ  たしかめるように触れている」。そんな指のあなたに私もそっと近づいてきて欲しいものです。

 

Griffon32 川野圭子さんが発行するカード型の同人誌。メモが入っていて、一五歳のヨークシャーテリア、愛犬ハリーが四か月の闘病の後に亡くなったとある。「潮が引くように命が去る」。哀切。川野さんの今回の作品三篇はハリーへのレクイエム。哀切。合掌。

 

・東国 145号。長野県内の同人の小林茂さんが送ってくださって、やはりメモがある。小山和郎さんが亡くなって、今号は川島完さんの編集によるという。小山さんのご冥福をお祈り申し上げます。以前、「東国」には同人作品評を依頼されて書いたことがある。2009年のことだった。小山さんとは、そのとき電話で一度話した。その作品評が同人誌全部についてで、前号と同じ作品が掲載されていて「何故?」と思ったことも書いたら、編集ミスであった。多くの人が読んでいて、いろいろとあったなと思う。編集という仕事は、雑誌の規模に関わらず神経を擦り減らすものです。小林茂さんの作品は26Pにあります。彼は、とてもおもしろい作品を書く。見えないものに触れている。

 

・どうるかまら 14号

 20名の同人。北岡武司さんの「負けるなよ」に心が重なるのは、杖が無いと歩行困難と母の姿と重なるせいだろうか。感情的に泣ける。たまには泣きたい。老いていく人のどの町でもどの家でも、この「負けるなよ」おじさんは生きている。昔は考えてもいなかった介護がビジスネスになった時代。朝の通勤ラッシュで見かける福祉車のさまざまな会社名。でも、このおじさんは「生まれてから死ぬまで/いざっていた」方なので下半身に障害を持っていたかただろうか。人はみな、老いていく、そして足腰が弱り、今まで知らなかった「障害」の苦しみと悲しみを知る。周囲にいる者もまた、家族が老いたことで、人間の変容を知る。「負けるなよ」と思う。

 

・黄薔薇 剱持俊彦追悼号 198号 この号は、心筋梗塞で亡くなった同人の追悼号。多くの同人の文章が寄せられていて、同人を温かく偲んでいる。大切なことだと思う。逝いた人の思い出を語ること。それで成仏していくんだなと思う。
 全国の同人誌の仲間は、ほんとうに老いてきている。死は幻想ではなくて、本物となって連れ添った夫婦や、育んでくれた両親の上に、花びらのように降りてくる。その途中にある人、それを迎えた人、それぞれがそれぞれの愛情で、去りゆくものへ別れの言葉を述べる。そんなことを深く思った。

 

・藍玉 13号 水野信政さんと長瀬一夫さんの二人誌。二人はとてもロマンチストで誠実で、好青年が年齢を重ねて、なおも好青年の模範的な二人だなと思う。作品五篇と、長瀬さんの「自選谷川俊太郎詩集」エッセイ。私も購入したが、岩波文庫の自選集はなかなか良かった。この量で、自選で、文庫で、安価というのは、若い人々も、失業中の人も、「詩が必要」な人へのプレゼントだった。長瀬さんの文章は、新聞での文庫の紹介の仕方への短評であった。ところで、同人誌を離れての現代詩、あるいは「詩」は、ネットの中では、驚愕するほど多くの人々がツイートしている。詩を書く若い人々の「同人誌離れ」の現実。同人誌というコミュニケーションが嫌われるのかとさえ思う。それでも「谷川俊太郎」は彼らのほとんどが認知しているという大きな存在です。教科書で知る現代詩人の知名度の高さともいえるかもしれません。

 

   ・忍冬(すいかずら)2013・6月号 no.9 長野県伊那市で発行されている詩誌。熊井紀江さんが発行している。長野県の土地の言葉で、心の詩を書いている地道な歩み。この同人誌の特徴は、毎号「連詩」を試みていること。今回のお題は「海」ですが、合評のときにでも詩を連ねるのでしょうか。一人の文量は3行です。前者の最期の言葉を繋いでいくという掟があるようです。

 

   ・Furoru 6号。フロルベリチェリ社 が毎月発行する二人誌。川口晴美さんの作品1篇と、紺野とも さんの作品2編。これを中綴じにして、紺野さんの「エンザルパイのミーム」の散文を裏表印刷で2つ折り。横型の定型封筒でまるで親しい人からの私信のようにポストに入っている。封筒に貼られる切手が今回は漫画の主人公ドラエモンのキャラクターたち。作品は川口さんの「あわ」。美容院でのシャンプーのことが非常に鋭敏でありながら、さりげなく、やわらかな気づきで語られていく。感覚+気づきが大切。口調というリズムも。紺野さんの作品「まほうつかいのルーキー」も読んでいくと「シャンプー」のことがでてくるので、今回のテーマは「シャンプー」であったか。なるほど、森岡美喜さんの写真も「シャンプーしてる髪」だ。彼女たちは、都市生活者で若い女性たちではない。社会経験も仕事のスキルも十分に積んだ「豊かな女性」として自分の足で立っている。完全装備な女性たちから毎月届けられる「私信」のような「詩」が入った封筒は、詩を生活の価値ある読み物として届けてくれる。重たい冊子ではなく、手紙のような薄さと、深い親愛をこめて届くそれらすべての「センス」に、詩は「贈り物」と思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2013年6月8日土曜日

幻影の、声


 ギリシャ語の「自然」ピュシス(physis)と、女性という肉体が生み出す「出産」という二つの野生の命をコントロールするもの(being)について、泉井久之助著「ヨーロッパの言語」(岩波新書)を参考に、naturaの語根から自然の意味を考える。

 木々のなかには、人の手による世話を受けなくても、落ちた種子から自発的に芽を吹き、めでたく成長して枝を張り葉を茂らせ、強大な木として聳えるものがある。ローマの詩人ウェルギリウスはその「農耕の歌」(Gergica,ゲォールギカ)の第2巻に歌っている。

 なんといっても大地には、
 もともとものを生んで成す
 力がひそんでいるゆえに、

というのが、その理由であった。
この理由を述べる原詩に「Quippe  solo  natura subest.」とある。読み方は「クィッペ.ソ|ロー・.ナー-|トゥーラ・スブ|エスト」と読む。原句の「ナートゥーラ」(natura)につけた訳語が「ものを生んで成す力」というように比較的長くなっているからである。ラテン語のnaturaは英仏語にはnature、ドイツ語にはNaturの形でそのまま入っている。Naturaは「生成の力」として力動的に解さなくては原句の意味は生きてこない。正しい解釈も現われてこない。ラテン語naturaにおいて語根の役目を果たしているのは、naである。古典期のラテン人はこの語をcuitura(クルトゥーラ)「耕作、教養、文化」(col「耕す」)などの接尾辞―turaによってつくられる一連の名詞とならべて、その構成の様式を一様に考え、又そう感じていた。しかしまだ、このnaはほんとうの語根ではない。「幻影の声」の背景にある論理である。


「幻影の、声」

 社会心理学に精神分析学的考えを取り入れたE.フロムの「生きるということ」(TO HAVE OR TO BE ?・佐野哲郎訳)によると、「あること(being)は、人または物の本質に言及することであって外観に言及しない。動詞としての(ある)の意味はインド=ヨーロッパ語族においては、(ある)語源 (es) によって表現される「存在する。真の現実に見いだされる」ことに言及していく。そして、ラテン語naturaにおいて語根の役目を果たしているのは、naである。古典期のラテン人はこの語をcuitura(クルトゥーラ)「耕作、教養、文化」(col「耕す」)などの接尾辞―turaによってつくられる一連の名詞とならべて、その構成の様式を一様に考え、又そう感じていた。しかしまだ、このnaはほんとうの語根ではない。(泉井久之助著「ヨーロッパの言語」)


すずやかなアルトの声が
樹木の名を歌うように呼ぶ
((プラタナス・ポプラ・シャラ・メイプル))
外被に張り巡らされた
Netの波をほどいては絡めとる漣が
声となってわたしを呼ぶ
漂泊する葉脈が共振する夏の音階
あなたを見守っている
あなたを確認する
受精したときからずっと
あなたを見つめてきた
あなたの死へと続くあなたのよろこびを
見つめている
開かれていた本の頁がめくられる
また
ちがう声がする
さらに頁をめくる
そよぐ声
だれ?
ぼくらが読み解くべき文字
ウェルギリウスの「農耕の歌」における「ものを生んで成す力」
natura(ナートゥーラ)の遙かな、声
そう
夏をみつめる文字だね
文字が呼んでいる
beingとphysisはつながっている
naturaからnatureへと引き継がれているから
網膜の上を
はげしくよぎる文字の漣
それが何であるかの前に何であったか
ポプラの葉叢を揺らす
あの小枝で囀っている鳥の姿
あそこにいるよ
ぼく
あなたを確認する
きわやかなテノールの声の影が頁のうえに落ちる
((プラタナス・ポプラ・シャラ・メイプル))
あなたを見つめている
あなたの愛
かなしみ
いとしいあなた
あなたが
あなたとして成ったことを

2013年5月31日金曜日

詩人という「道化」

(二〇一三年三月二十九日「詩客」詩時評)

 昨年の三月十六日に吉本隆明氏が亡くなってから「親鸞」に関する書をしばらく読んでいた。親鸞の「愚者」という「むなしさ」にはまってしまった。愚者にとって愚はそれ自体であるが、知者にとって(愚)は近づくのが不可能なほど遠くにある最後の課題であるとする。〈知〉にとって、〈無知〉と合一することは、最後の課題だが、どうしても〈非知〉と〈無知〉の間に紙一重の〈無知〉を持っている人々は、それ自体の存在であり、浄土の理念によって近づこうとする。(吉本隆明著『〈信〉の構造 吉本隆明著・全仏教諭集成19445?1983・9 春秋社』希望と絶望の光と闇は、表裏一体で存在する。生と死の世界を反転させるものは遠く離れたものではない。この境界を跨いで、幻想と現実を同時に生き、それらの間を自由に往還して、世界の隠れた襞を現象させる、という存在が詩人という「道化」ではないか。

 寂しいことに、この三月十日に文化人類学者の山口昌男氏が亡くなった。日本と世界の危機的状況を仲介する者「トリックスター」はまだ現れていない。翌日は、二年目の3.11を迎えた。日本だけではなくフランスやドイツでも原発廃止への抗議デモがあった。それ以後、西脇順三郎の「イロニイ」ということが少しわかった。釈尊の根本仏教も「一切皆苦」と言っているが、人生は寂しさと苦しみの極みを乗り越えて、生きていくしか生きようがない。もう考えるのは止めましょうよ、という地点にきて、新しい気持ちがやってきた。物を書くことに必要な、「声明」が見えたのだった。
                                       
 それでは、二月初めから三月中旬までに届いた同人誌・個人誌・二人誌で手許にとどめた雑誌について紹介をしたいと思います。届いた、ということで発行が一月の物があるかもしれません。別の場所で紹介した物は割愛しました。雑誌としての形態などを中心に述べていきます。詩を志す者は、いつでも詩の材料を探しているものです。詩を書いても発表する場所がなくては、紙屑でしかありません。詩誌に集うのは、その詩誌の創刊時の思いや、志の継続にあると思うのです。表紙には、強い思い入れが現れるものです。編集発行人の苦労が忍ばれるからです。


柵no.314.(詩画工房・七百円)三月号で終刊になりました。月刊誌でしたが、廃刊の理由は、同人の激減による経営悪化で、第三種郵便の認可が下りなくなったということもありました。石原武氏らの散文が充実していました。

孔雀船vol.81(望月苑巳・七百円)執筆者三六人。一〇九P.特集はパク・ミサンの韓国詩をハン・ソンレ氏が翻訳。ゲストと同人の詩。とくに注目は、孔雀画廊のエッチングです。見開きニP.ですがとても素敵です。小柳玲子さんの「絵に住む日々」の散文と写真はとても興味深いものでした。
鹿首3号(小林弘明)特集は「変わる時間」。詩と歌と句と美術の総合誌で「鹿首」。表紙画の美しさに見惚れた。高柳蕗子さんが〈時間〉の背後霊、を書いている。時間論ではなく、歌に詠まれた時間を読み解いていく。万葉集の一―二五の天武天皇の長歌を紹介している。時の流れの絶え間なさを、雨と雪の降るようすでうたう。流れている水の流れに時間も流れて、水音だけが聞こえてくる。水音、癒しの音の水音を見つけたいと思う。

詩誌侃々 2013no.19(田島安江)同人の詩作品のほかに、田島安江さんのエッセイ「詩を読む十九」は、膵臓癌で亡くなった関西の詩人・島田陽子さんの『森へ』と「わたしが失ったのは」の作品解説。普通の親しさの間柄で、別な詩人の癌闘病詩を読んで、再読しての解説。詩は、思いもよらぬ方向から再びやってきて人の心を抉っていくものだと思う。この散文を読んで私も島田陽子という詩人を考え直した。それは、当然ながら、明るさのなかに暗く重く痛く潜んで、詩人を闇に連れ去った病と言葉との関係についてだった。写真でマップを載せないとその「かたち」がわからないかもしれない。

Furoru創刊号(フロルベリチェリ社)定型封筒八十円で送付できて、気持ちよく掌に乗る月間の二人誌です。「フロル」創刊号から三月の三号まで順調な発行です。創刊号では、紺野ともさんが「環」、「NOJESS」、川口晴美さんが「こゆびの思いで」を書いている。二つ折の紙片は、あいさつ文と紺野さんの「現代詩赤文字系」という付録の文章がとてもおもしろく、第3回の「胸キュンがほしい!」の後半も、女性として「ずっとかわいくいたい」層は確実に広がっている。は、そうさせている社会の広がりがあるとして考えると、文化と商品がジェンダーにもたらすものの影響力は恐怖だと感じる。

黄薔薇百九十七号(高田千尋・五百円)奥付まで六十四ページ。表紙の写真がいつも美しい。永瀬清子さんが創刊した詩誌。永瀬さん亡き後百九十七号まで継続されているのは、「永瀬さんの理想と詩を慕っているからだ」と後書きにある。二五人の同人のうち、この号に参加された方が亡くなって次号は追悼号。大勢の同人の方を纏めていくのは、たいへんなことです。ところで、永瀬清子という詩人の個別の作品は読み知っていたが、詩集を読んではいなかったので、一九九〇年思潮社発行の現代詩文庫『永瀬清子詩集)』を読んでみた。飯島耕一の解説に共感した。「村にて」という作品に触れて、「永瀬清子は美しい風景も、美しい労働も、他者(共同体)と分かち合いたいという強い願いを持っており、それのみたされない時、限りない失意を覚えるのである」と述べている。同人誌を発行してそれが長く継続しているのは、「他者(共同体)と分かち合いたいという強い願い」かもしれないと思った。

ぱぴるす102号(頼圭二郎・四〇〇円)パソコン印刷で中綴じ本。二二ページ。椎野満代さん、岩井昭さん等七人の詩誌。岩井昭さんの「なみきくん」にノスタルジイを感じた。

現代詩図鑑 第十一巻・第一号 二〇一三年冬号(ダニエル社・真神博・七〇〇円)一一〇ページ。この詩誌は同人誌ではなく、季刊でその都度の会費制による発行。今回の参加者は、二八名。巻頭の書評は海埜今日子さん。榎本櫻湖さんの作品「それを指でたどって」は、行替えや、文頭の文字下げもなく四角の箱型文字の模様で始まり終わる。北欧と思われる風景から。フィヨルドの北端から川を溯って国境を跨ぐと、つまりその辺りの地図を眺めていて、で一行目が始まる散文詩で、今まで見知っている櫻湖さんとは違っていて、静かな内面に向かいつつある言葉のエネルギーとこの地図旅行による詩法が、果たす言葉の行方を想像した。今度は何をしようとしていますか、櫻湖さん。次の散文詩は倉田良成さんの「三叉路」。倉田さんの散文詩も書き出しの行頭が一文字下げで、あとは行替え無しで一気に最終行まで突き進む。こちらは、自分が見知った中華街の雑踏のなかの、三叉路までの意識を飛ばして行く歩行。現実にその場所を歩いているわけではなく意識が流動する。三叉路を中心に巡る意識。戻れない現実の自分の恐怖が最後に現れる。この二つの散文詩のおもしろさは、経験のない想像の地への意識のめぐらし方、経験して知っている地への意識の流れ。最後には、「ここ」へ意識を戻して来なくてはならないのですが、後者の方が難しいのです。

まどえふ 第二〇号(水出みどり)一四ページ。女性六人の詩誌。巻頭作品は、橋場仁奈さんの「ぼうし」。面白い作品なのだけれども行間と文字間が空きすぎていて、とても読みづらいと感じる。行分け詩だとあまり気にならないが、散文詩だと間延びして、文字が飛び散っていくと感じたがどうでしょうか。

折々の no.28(松尾静明)一四人の同人中、男性が二名。全員が行分けの詩を書く。後半に「連弾」という小文のページがある。松尾静明さんが、詩人が書いた短冊について書かれているのが興味深い。

花 第五六号(中野区 菊田守七〇〇円)四三人の同人という大所帯。白い表紙に「花」の文字のシンプルさ。一段組と二段組を用いて後書まで七六ページ。
Hotel第2章no.31(hotelの会五〇〇円)一四人の同人。奥付まで三四ページ。福田拓也さんの「列島がなおかつ波にさらされる岩場として・・・・・・」に注目した。海埜今日子さんの柴田千晶詩集への書評に共感をもって読んだ。

独合点第115号(金井雄二 二〇〇円)「水にうつる雲」という散文を金井さんが書いている。相模川のウォーキングコースについて。阿部昭の小説「水にうつる雲」という小説の舞台と同じ場所であるということで、小説の内容とウォーキングが重なっていく。川べりの散歩は「詩想」が生まれる場所です。

すぴんくすvol18.(海埜今日子 二五〇円)一二ページ。ゲストの田野倉康一さんの「生き急ぐ死者たち」の最終行おやすみ こどもたち だからもう おとうさんは帰らない は、私も眠っている子どもたちにそう言って消えていくだろう、と思った。海埜今日子さんが後書で「幼年ホテル」という言葉を使っている。詩情に満ちていて詩が生まれる「幼年ホテル」だ。誰もがそんなホテルに憧れる。

Down Beat no.2(柴田千晶 五〇〇円)七人の同人。柴田千晶さんの「あした葉クッキー」がおもしろい。閉めきったままの雨戸が一気に開けられ、死体はようやく春の死者となる。というところ。日本のもう一つの現実。人間の関係が壊れたのです。関係を拒否する人もいるので複雑な現代社会です。

ぶーわー30号(近藤久也)オレンジ色のA四の色画紙を二つ折りにした個人誌。ゲストは蜂飼耳さん。近藤さんと一篇ずつの詩。裏表紙に、中沢新一の「アースダイバー」についての二三行の散文は狭いスペースによく纏まっています。無駄のない紙面の使い方でした。