2020年1月4日土曜日

エウメニデス57号転載 対談 詩の持つ言葉の力と未来に向けて 






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2018728日(土)佐久平交流センター音楽室
エウメニデス第五七号朗読座談会
第二部 対談 詩の持つ言葉の力と未来に向けて



松尾真由美+小島きみ子

  



小島  第二部は松尾真由美さんと小島きみ子のトークとして、「詩の持つ言葉の力と未来に向けて」ということで行います。
 松尾さんとは、 彼女の発行していた雑誌『ぷあぞん』の読者として知り合いました。 今日は私が一月三十一日に発行した『僕らの「罪と/秘密」の金属でできた本』への感想やこの詩集の解説などを述べながら、現代詩の言葉の持つ力と未来に向けて、話していきたいと思います。私の詩集は、第一部の生野さんの朗読の時にも述べましたが、添田馨さんの『「非=(非族) 』という詩集発行の、対談で語られていたことに、共感したことも制作の動機の一つです。「僕らの「罪と/秘密」」というタイトルの詩は、『詩と思想』の原稿依頼に応じて書いたものです。秘密保護法案が成立したときの特集の巻頭詩として作った詩です。それを改稿しました。しばらくの間、私は、社会言語背景の言葉を使って詩をつくるのが目標の一つでした。 それらを組み合わせて物語の中の物語の詩をリアルな現実と結びつけて、社会言語をどうやって 作品の中で、詩語として成立させていくかが私の課題でした。そういう目標があったので『非=(非族) 』はとても 衝撃的な詩集でした。詩集制作については、エウメニデスの詩人の京谷裕彰さんに解説の協力を頂きました。制作日程として、とても忙しい仕事で小笠原鳥類さんに相談して 表紙はひと月の間に描いてくださってこの詩集が完成しました。これまで私は、詩集と同時に詩論集を発行してきました。今回の第四詩集は詩の中に詩論が含まれています。行分け詩と 散文詩をうまく繋げて、自分がいま感じていることが 詩の言葉になっていけばいいなと思いました。 リアルな現実のなかにあって、ファンタジーと社会言語を同時に進行させて行く方法というのを、その文体を考えているところです。今日来ていただく予定だった池田康氏が 発行している『みらいらん』で「(月見草の、草の家で)」 という連載詩を書いていますが、これは社会言語とファンタジーを 融合させた、未来に向けた詩というのを実験しています。
では、「 分かる詩・分からない詩・分かりやすい詩・分かりにくい詩 」ということについて、第一部での朗読作品の感想のなかでも、私の問いかけについて、かなり答えも出ていますが、私との付き合いも 長い松尾真由美さんに、私の詩集『僕らの「罪と/秘密」の 金属でできた本』の感想とともに、このテーマをお話しいただきたいと思います。

松尾 一般に分かる詩・分からない詩、詩について分かる・分からないということが言われますが、私が詩を読むときは、面白い・面白くないの観点で読んでいて、小島さんのこの詩集はとても丁寧に書かれており、単純に分からないというのではないと思う。一般に分かる詩とは、作者の生活が見えるとか、そういう実感的なものを感じることで読者が安心し、そういうのが分かる詩と言われているのではないか。一方で、私の詩もそうでしょうが、いわゆる分からない詩を書く詩人も多いと思う。象徴的な話をしますが、私は学生のときからではなく大人になってから詩を始めて、当時、札幌で詩の合評会のようなものに出席したことがあります。その頃はまだ、まともに詩は書けてなかったんですが、出席者は年上の女性ばかり。その中で「子育てが終わって自分は寂しい」というような内容の詩作品が出されて、「分かるわー」と周りの人が言う。その分かるというのは作者の気持ちが分かるということでしょう。私は三十歳前で子供もいないし子育て云々というのも無縁だったけど、それを抜きにして、その作品はいいとは思わなかった。一種の共同体の言語というか、共同体が成立する場での共感として、分かる・分からないが言われているのかもしれない。そのとき、なんとなくこれは詩の読み方ではないのでないかと感じて、そこを辞めたんですが、やはりその考えでよかったと今でも思う。分からない詩とは、私の作品についても分からないと言われると、なんでかなと正直思ったりもしますけど、詩はエッセイではないので、散文の文脈のみで理解されなくていいわけです。それが分からなさの所以でしょうが、表現の飛躍などもあるものだし、詩の一番の特徴は言語の実験ができることで、そこが詩の面白さでもある。今日の広瀬さんの新しい作品のことを聞いて、詩はこんなこともできると嬉しかった。

小島  私は行分け詩も散文詩も書いていて、散文詩では、詩で書ける物語を書きたい と思っています。生野さんが広瀬さんの詩についておっしゃったように、 詩の物語の中では、過去の経験を未来の言葉で書くことができるという思いがあります。 散文詩では物語の詩を書きたいと考えています。 それは過去の経験が、現在をつきぬけて未来に至る、そういう言葉を獲得したい。

松尾  小島さんの詩がそれほど分からない詩ではないというのは、詩の中に物語があって、流れの中にたとえば姉とか兄とか、ある主体がちゃんと出てくることで成り立っているから。あ、ここは飛んでいて面白いなと思わせる箇所もある。詩的という意味で。いまひとつ気になるのは、社会言語という定義。その意味するところを小島さんに訊きたい。

小島  社会言語は、言語学の中に社会言語という分野があります。私が詩で述べるときは、言語学での社会言語ではありません。「詩と労働」ということで捉えています。この概念はとても 難しいです。本を読んでいたときに初めて知りました。三十代後半から四十代前半は割と 詩のコンクールに応募していました。労働者文学賞というのが あってそこに応募した作品は佳作に入賞しました。今もある賞ですが、当時は、賞金はなかったが、今はあるみたいです。その時に書いた詩は『dying summer という詩集に入っています。コンポスト工場で事務をしていた事を素材としています。コンポストというのは、 家庭から集められた生ゴミを堆肥、肥料にする事で、その工場が隣市にあり、そこでアルバイトで働いていました。仕事内容は、収集車が生ゴミを運んでくるのを、車ごと重量を計り 行きと帰りの差でゴミの重量が判り、それにより手数料を徴収する というものでした。その仕事に三ヶ月行った経験を詩にしたものです。そのときに社会言語を背景にした詩というのを意識しました。 社会言語というのは、社会体験、例えば主婦の家庭生活の体験ではなく、 労働の中での体験です。体験に知識が加わったものが、社会的背景の言語の詩ということになります。
松尾 ああ、働く人ということ。

小島  そう、そういった労働者の体験から詩の言葉を見つけていくということ。 自分が実際に労働するときの言葉であり、また働いている人を 見つめるなかで見いだされる言葉です。日本の国で、高プロ法などが成立していくときにも、現在は 自分は給与を貰う仕事はしていなくて、家庭の仕事をしているだけですが、そういう法律などを通じても働く人々を凝視していきたい。それが社会的言語を背景にした詩を書くということです。

松尾  でもそれをファンタジーと一緒にするのは大変。

小島  それが私の詩法の一つで、第三詩集の中でも、それはそのときは働いていたから試みられていたものです。 自分が働いているその職業のなかで詩の言葉をみつけていくのが私の詩の詩法としてありました。社会福祉事務所で十年ほど働いてその時は、男女雇用機会均等法が成立する前でしたので、女性相談・家庭相談を担当していました。さまざまな女性の悩みを聴くのですが、その相手は離婚者、四十歳以上の独身、十五歳以上で中卒学歴者の女性の職業相談、家庭の主婦の子育ての悩みなどの家庭相談を担当していました。十年のキャリアの中で、研修でカウンセリング技術も身に着け、ソーシャルワークをしていました。その中で社会的言語というか、 労働者の労働生活の中にある言葉から詩の言葉を発見していく、というのがとても重要でした。そうしないとその人の悩み自体がわからない。詩の感受性で、カウンセリングにおいてその人の発する言葉を受け止める。 ケースワークでも同様ですが、これは詩を書こうという力がとてもよく働きました。

松尾 やはり衝撃的な経験がせまってくるというか。

小島  その人が発する苦悩についてほんとうに傾聴する、聴くに徹する。 カウンセリングは教育効果があるといわれていますが、相談者の進むべき道が 自分で分かるまで導いていく。そういう中でその人の体全体から、労働全体から発せられる言葉の なかに詩の言葉を発見する、私の詩の感受性でその人を導いていく、そういうとなんかえらそうな言葉ですが、その人が自分の内心の声に気づいていくということです。

松尾  そうやって自分がそうだったと気づくということは、詩人が自分の詩の言葉を出すことによって自分に気づいていくというのと同じ作用がある。

小島  自分の自己が形成されていかないと歩むべき道が判らない。 詩もただ日常を書いているのでは、私からすると詩ではない。 別次元の作者の内的自己というか、内心に出会わないものは私からすると現代詩ではない。 ソーシャルワークでもその人が内側の自己に気づいていくようになれば 生きて行かれる。結果的に仕事も見つかり、子育てもうまくいく。
松尾  この詩集にも出ているスーパーのレジのことも?

小島 それは第五六号で書いたケー子のこと? あれは北海道の杉中昌樹さんの依頼で、草間弥生の詩論と、現代美術と現代詩を結合した作品を書いてと求められて書いたものです。私は現代美術というと、松本出身の草間彌生しか思い浮かばず、前半は草間彌生のことを 詩論で書いて、後半は多重人格障害のケー子のことを結合させて書いきました。社会福祉事務所の十年はよい社会経験でした。 芸術の創造現実が発見されないと、自分以外の自分を創作できないというのがあります。
 『僕らの「罪と/秘密」の金属でできた本』の最後の作品もまた、詩論で書く詩になっています。その夏はラカンを読んでいて、ラカンにおける他者ということを考えて書いたのです。ラカンはフロイトの弟子ですが、自分のなかの自己と他者をどのように発見していくか、 どのように他者を知って作品に書くかが、私の目指す詩法です。その結果私の詩の中に哲学者や心理学者の名前がでてくるのは仕方が無いことで 考えている過程が詩になっているのです。

松尾  いや、むしろそれは小島さんの個性というか、作品の中で他にそのように溶け込ませて書いている詩人はいないのでいいんじゃないかと思う。

小島  ヨーロッパの哲学者や文学者や心理学者の名前をその文脈の中で書いたときは、その人のことを考えているので、自分にとってはレモンスカッシュやチョコレートパフェと同じ。 その程度のことに過ぎない。それで小島の詩は駄目という人はそれまでです。 逆にそれを面白いと思ってくれる人は、そのさきに進んでいくことができますね。
トークの課題の 三番目のユーモアのある詩ない詩ということでは、面白いというのは興味深いという意味ですが、 今日の第一部の「第五六号テキスト朗読」の感想等内容は深くて、結局、イデオロギーをそのまま作品の中で書いては駄目で、 では、どうしたらいいのかというと ユーモアで書くしかないと思い、トークのテーマの一つにしました。 この会場にきて、ああこれは「道化る」ということだと気づいた。松尾さんはどう考えられますか?

松尾  私も「エウメニデス」に出している作品では割とふざけてます。ふざけるうちに皮肉るも入って楽しんでる。ユーモアのある詩ということでは笑わせてくれる詩も好きで、けたけた笑って読むこともあって、ユーモアのある詩というのはありだと思います。

小島  詩集タイトルを、度忘れしましたが、ある詩人の最新の詩集にはアイロニーを感じました。アイロニーはイロニーですが、哲学用語でのソクラテスの弁証法を意味する言葉です。 自分の身の近くにあることを書いているが、道化のように、わざと演じて居る部分が見えて、本来の現代詩の姿であると思いました。言葉は道化を演じているが、社会にするどい批評を行っていると思いました。まさにここには、知者が愚者を装うアイロニーが存在します。私には私の文体と詩法があるので、こういうふうにはできませんが、これもひとつの現代詩の方法だと感心しました。この時代、正義に価値が無くなっている時代に、現代詩の方法として面白かった。
 散文詩について私の第三詩集「その人の唇を襲った火は」、シェイクスピアの作品が面白いと思い、そんなことをやりたいなと思っていました。物語の中に物語を導入してどんどんその中へ引き込んでいく。私にこだわりがあるのは、ファンタジーの世界へみんなを連れて行きたいというのがあります。 ある賞の選考委員の言葉で、本賞は詩でしか書けない言葉による作品を対象とする、現代詩の実験的な前衛的な詩集は選の対象外とすると言っていてとてもびっくりしました。

松尾  ああそれは分かりにくい詩は嫌いだったということでしょうね。

小島  詩でしか書けないものということについて、松尾さんはどう考えていますか?

松尾  時空を飛べること、というのが一番大切。小島さんも言われましたが、過去が現在になっていくそれを詩の言語はやってくれる。そこからまた先に進み、現実に自分がやったこと、やらなかったことではなくて、詩の中で進んでいって自分が何を感じていたかを気づかされるのだと思う。書いてから気づく自分というものがある。たとえばエッセイを書くとすると頭の中でこう書いてと考えるし、小説でも組み立てて書くという感じですが、詩はそれらと違う。ある種の勘で言葉を連ねていくことが許される。私も行分け詩も散文詩も書きますが、やはり、散文詩の長いものになると理詰めになる傾向がある。

小島  松尾さんの最近のエウメニデスに発表してくださる詩は、読んでいると言葉のスピードが速いと思う、自分のスピードで読むのだがとても速い。言語の間隔がとても速い。

松尾   スピード出してというか、早いのがいいと思ってやってきたけど、のりすぎでこれはちょっといいのかなと・・・・・・。

小島 読者としてはとても面白いと思う。雑誌はいろいろな人の作品が読めるのがよいのだけれど、ただエウメニデスは同人誌ではなくて、私が考えていること、やってみたいことをすでにやられている、興味深い詩人たちに集まってもらっている。みんな違うわけで、雑誌を開くと色んな詩があって面白い。私の感覚で集まった詩人たちに自由にやってもらう。それこそがエウメニデスだという雰囲気が外に伝わっていくと良いと思う。現代詩を書く人と現代詩を読む人を広げ、現代詩を支えて貰いたい。そして、書くことと、こうして朗読されるのが同時に行われるのはとても重要なこと。書いているだけでは駄目、そして朗読しているだけでは駄目、 言葉というのは、今日のなごしさんのように、身体言語もあるし、音楽や絵画のなかにも感じるということは言語で感じている、あらゆる表現は最終的には言語で感じとられるものだ。ただ言葉でわからない部分は音楽で感じる、絵画で感じる、そして体全体でダンスのようのパフォーマンスで感じるというのがあって、それら全部がエウメニデスのテキストと、このような朗読会で感じとっていただくのがよいと思う。参加者も自分の詩と詩論を深めてくださることが大事で、今日もその観点で話しています。

松尾さんの作品も普通の人からは分かりづらい。言葉よりもっと深い言語のなかに身を沈めていくと言語の肉体というのがある。言語のエロスという、官能的なものを感じる。 言葉が好き、言葉に恋愛する、言語のエロスに出会うことは、苦しみと同時に言語の官能性に出会うというのが現代詩を書く醍醐味。そこに現代詩を書く悦楽があります。その悦楽のないものは作品としてまだまだ駄目だと思う。松尾さんの詩集はとても普通に読むには難しいが、言葉の中に身を沈めていくと最後に松尾真由美を離れて、言語のエロス、言語の官能性自体に出会える。そこが松尾さんの詩の特徴だと考えています。
それでは、現代社会と現代詩、現代詩の始まりと現在の現代詩ということについて ですが、現代詩というのが戦後の現代詩を先行した集団というのが平林敏彦さんの集団がありましたが、まずは戦後現代詩は、第二次大戦の戦争の反省から芸術運動が始まっているところに立ち返るべき だといつも感じています。

松尾  戦後詩ということ?

小島  そうです。戦後詩があって現代詩が始まってきているので、人間の命の尊重や戦争と平和、人間の愛の尊さを考えているというのが、それが核心にあって表現していくのが大切だと思う。その核心、土台さえあればあとはいろいろ自由にやっていいのではないか。いろいろな表現方法があっていいと思うが松尾さんのお考えはいかがですか?

松尾 私はもっと大雑把で必然的に作りたい書きたいように書けばいいと思ってます。ただそれのみでやり続けることはできないわけで、ちゃんと色んなことを詩の中に入れ込んでいく作業は必要でしょう。戦後詩といえば鮎川信夫が思い浮かぶのですが、実際にいま、野沢啓さんが新しい個人誌で鮎川信夫について連載していて、鮎川についてまた新しい視点で書いているのは面白いと思う。こういうことは踏まえるべきことと思いますが、現在の葛藤の方が書き手にとっては喫緊の問題であり、書くときの現場はもっと切羽詰まっているのではと思う。

小島  松尾さんから書くときの現場は切羽詰まっていると言われたが、私も同じ事を感じます。一つの作品を書くときは私も現実世界では常軌を逸してしまっており、怪我をしたりする。仕事しているときは、車を運転しているときはできるだけ詩のことは考えないようにしていました。風景みてふと思いつく言葉は、車止めて書いたりもした。 浮かんだ言葉を無意識の中に沈めて行って、さあ詩を書くぞというときに自由自在に意識に変換できるような技術を身に着けたいと思って、自動筆記も訓練しました。いつも机に向かって書いていることはできないので、感じたものを感覚として無意識の中に沈めていって紙とペンを持って、書けるときになったら意識に呼び起こせるということです。

松尾  訓練していたんだ。

小島  さあ書くぞとなったら集中すると、十行くらいは書ける。それを残しておいてどんどん書き足していくわけです。それは、できちゃったというのではなくて、無意識のものを呼び起こす訓練でやっている。

松尾  やはり詩を書いているときは自動筆記のようなことはやるものでしょう。

小島  私が、職業を持っているときはとても忙しかったので、詩を書いていくには必要があってその訓練をしていました。

松尾 無意識は創造に関わってくる。絶対に必要なことになる。

小島  私は、自己と非自己ということが去年くらいからやっと判ってきました。非自己というときの非は、否定でなくて超越ということであり本当の自己ということ。日本語では私と我と区別がつかないが、ヨーロッパ哲学と通底するとところは、自己を超越していく本当の自己、それから自我、という第三の自己。自分の中の他者性とも通底していて、非自己は自己がないのではなくて本当の自己という意味です。

松尾 詩を書く意味からすると、自己は作者であり、非自己は主体だと思う。

小島 そうそう。詩の作品の中で主体が発話するというのは非自己が作品の中にあるということ。作品の中で主体が発話しているかどうかは、とても重要なことで、その作品を読んだときに、自己を超越した自己、これが感じられるというのは作品として普遍ということだと思う。日本語として壊れているとしても、未来世界が書かれているような、広瀬さんの今回の第56号の作品も、SF的な世界で日本語にルビのカタカナが振られていて、現代の日本語とはかけ離れた未来の言葉で書かれている。

松尾  広瀬さんが昔書いた作品で、メルトダウンメルトダウンがいっぱい出てきたのがあって、東北の震災の前ですよね、予言的で怖いと思った。

小島  ビジョンという言葉は幻想ということですが、折口信夫の全集のどこかに、詩はビジョンに到達しないと駄目と書いてあったと思います。折口は古代研究やノート篇に面白い事が書かれています。もしかすると、全集の綴じ込みの会報であったかもしれません。きょうは、何度も同じ事を述べますが、過去の経験や記憶が現実を突き抜けて、未来に到達する、ということが、作品の中で主体が発話していることなのだと思う。
ユーモアのある詩、分からない詩について、そこらへんを見抜いて行きたいし、そのあたりを書いて行きたい。また、それだけではやっていかれないので、同時に散文詩では物語を書いていきたいです。読んだときは、面白かったと言われながらも人類が滅んだ未来が予感させられるものを書きたい。作品の中で主体が発話していけたらいいなと思うがこれについて松尾さんのお考えはどうですか?

松尾  未来について? ここまで少子化が進むと日本語が危ないという気がしてます。
随分前、このままでは若手が育たないという感覚があって、たとえば鳥類くんが投稿していたあたりの頃だと思うけど、わりとみんな、上の者が下の者を大事にしようと接するようになって、それまではひとつ若い世代になると分からないといって突き放す感じだった。十年スパンくらいで。そういうのがなくなったから、いま、若い人は割合自由にやっている雰囲気があると思う。あと、詩が読まれるようにとか詩を広めたいというのは、やはり読者人口の全体数が減ってしまうと厳しい。未来については分からないところもあるし、自分の詩が未来に対応できているかどうか以前の問題として、現時点で書いているものについてもそれほど自信があるわけではないというのがあって・・・。

小島  私は、詩を書くことに疲れてしまって、失望が多くて、でも、池田康氏の『詩素』や『みらいらん』はとても意欲的であり、そこに作品を載せてくださり、そこの作品読むと、私もがんばりたいという気持ち湧いてきます。
今回の朗読座談会第一部では、生野毅さんも長い作品を書かれているとのことで、私も頑張ろうと思います。広瀬さんの連載詩、未来詩についても、さらに私も頑張ろうという気持ちになりました。きょう、なごしいずみさんが踊ったダンスは鳥肌が立ちました。様々なところに、現代詩は連動していると思った。第五六号の渡辺めぐみさんの作品は、おだやかで優しい言葉で書かれているが、いつも倫理観が問われる、それが現代詩の魅力だと思います。詩の未来に向けて、これも励まされることの一つです。現代詩はいろいろのことができるというのを示したいです。それが私の感じる、詩の持つ言葉の力と、未来に向けて、ということです。

松尾  それは同じように思う、詩は色んなことが、何でもできると思います。

小島  では、そんなところで終わりにしたいと思います。長時間ありがとうございました。[拍手]


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