2015年4月25日土曜日

四月の詩集と四月の詩誌10誌。

2015年7月のフラワーアートの作品展の作品を製作しつつ、お届けいただいた、詩集・詩誌を拝読しております。セレクトして紹介しています。ご了解くださいませ。

四月の詩集。
四月前半の三冊の詩集。画像の紹介で御礼とします。
内藤喜美子詩集『夢を買いに』著者七冊めの新詩集/井上摩耶詩集『闇の炎』1976年生まれの著者の第一詩集。神原良詩集『ある兄弟へのレクイエム』著者8冊めの新詩集。解説を含めて全141ページは、詩集としては大冊に入ります。じっくり書かれています。




四月中旬に読んだ詩集は、大原鮎美詩集『月光苑』(土曜美術社出版販売)。
701~900までの短詩です。さまざまな場面が次々と現われては消えていく、万華鏡のように照り返す詩句のナンバーは、人間が最後に開く「扉」に向かっているのかもしれません。言葉のスピードに酔う夜の始まりでありました。





四月後半は、白い詩集を二冊読んだ。生物の命が輝き動き出す、春の日に、眩しくて何も見えないように届けられた、白い紙の上の白い表紙。
白い詩集二冊。




①赤木三郎詩集『無伴奏』は、3月25日に発行された。
真っ白な詩集で、申し訳ないのですが、3月末は慌しくて見失っていました。タイトルだけでも色彩が施されていると良かったのにと思いました。 けれども、14P.に「夢見るロルカ」という作品があり、そうかそういうことかと頷きました。「フェデリコ・ガルシア・ロルカは 部屋から連行されるとき/白い服をえらんだ//(外はどんどん暗くなっていった)//ロルカがシャベルで 穴を/掘るとき服が汚れたが どう汚れたのか/少しもわからなかった//(ひどく暗い中で 銃のおとは 二回)//暗くても にじむ/血は よくわかった はずだ」血の色が、暗闇の中から届くには、白い服が必要だった。日本の現状にも、白い文字の『無伴奏』を届けたいということだろう。


②江口節詩集『果樹園まで』白い表紙の詩集。
タイトルが金色で、白い紙のうえで眩しい。プロフイールに「詩と思想」第10回新人賞。第24回富田砕花賞受賞とあります。ベテラン詩人。言葉への透徹した「眼」を感じる。この言葉しかないという言葉で、表現する対象へ迫っていく迫力を感じる。「ゆるぎなき言葉」で事物が表現された。真っ白な表紙にくるまれて。「柿」という作品。「硬い柿は籠に入れて/しばらく 眼にたべさせる/弾力が出るまで//舌はわがままで 偏狭で/十分に達した味わいしか/認めない//柿、と言うて/詩、と言うて」



四月の詩誌。            


                ココア共和国vol.17.


                              ガニメデ。モーアシビ。イリプス。

              個人誌。ピエ。              

               「junction94]。「独合点第122号」。「ル・ピュール20号」
               「潮流詩派創刊60年241号」「午前第7号」

1.『ココア共和国』vol.17
 清水哲男「愛について」は、最終の三行に激しく揺さぶれますね。「生涯の愛のかたちが消えていく・・・・・」そして1行空けて「そのときだな おそらくは/ぼくがとろりと死んでしまうのは。」
そして、金沢一志の論考「くさび形文字の詩 寺山修司とVOU」横書きで14Pもの労作です。引用詩、写真、資料も豊富でたいへん参考になるものです。


2.『モーアシビ』第30号。特別記念号。
 旺盛に書いている詩人たちの何人かに目がいくけれども、特に心がそこに止まったのは北爪満喜さんの「口を結んで」だった。「帰り道 口を結んで歩く/痛かった/暖かい内側の闇に まだ傷が光っている」 たぶん、あれは、初めての歴程セミナーの帰り。電車に乗るために一緒に走ったことがあった。今も「がんばれ」という彼女の澄んだ声が階段を上るときに聞こえるのだ。痛いとき。


3.『イリプス』no.15.
 作田教子「死有の視線」は、五連の詩篇。最初と終連が4行で、2連・4連が5行。中心の3連が8行。カッチリとした連の構成の中で言葉の視線が狙い定めた場所に到達する。「彼は燃え尽きるものの原型を/記憶にとどめている/灰のなかにも/息づくものの気配を嗅ぎ取る」


4.『ガニメデ』vol.63.
 348ページの大冊。たなかあきみつさんの「ジェリー・ウルスマン」を読んで、「エドワード・ウェストン」を読んで、104P。望月遊馬さんの「秋の肖像」を読んだ。寂しい気品があってよいと思った。最初の、「ある秋の朝、/ソファに」の始まりも秋の花が香ってくるような始まりで、十月八日の朝もしっくりする。後半に、「人生などという大がかりなものを持ちだして/母の死を分析するような子どもには/なりたくないな/わたしは」とあり、落ち着いた静かな視線が「秋の肖像」にふさわしいと思った。



5.『ピエ』2014.12/vol.12
 札幌市在住の海東セラの個人誌。2014.12のものですが届いたのは先日。昨年、第一詩集を出したばかり。「ピエ」は創刊号から送られてきたと思う。とてもお洒落で、贅沢な個人誌。作品は「遊離基」一篇のみですが、完成度は非常に高いです。ただ、山括弧「〈」の使い方が少し甘い気がする。括弧内が散文調で、外した部分は行分けです。行分けの部分と、山括弧内の散文との使い分けの、語のリズムに、もう少し変化があってもいいと思います。


6.『junction 94』
 柴田三吉・草野信子氏の二人誌。 この雑誌に出遭ったのはいつだったろうか。私が『Eumenides』を創刊したころだったような気がする。草野さんは、名古屋で暮らしている。いつか、会いたいと思う。草野信子さんの「くつした」から。「たいてい/かたいつぽうだけ 落ちています/ひろって/ひいらぎなんてんの 枝にかけると/クリスマスの飾りみたいなくつした//(省略)若い母たちの/よろこびと 哀しみ/匂いたつ日々と 乳いろをした孤独//(後半省略)」


7.『独合点』第122号
 金井雄二氏の個人誌。エッセイ「シルカ」の7P上段に、私が考えている事にピッタリ符合する事が書かれている。「ぼくは最近、文学についての考え方が変わってきたのかもしれない。(・・・)つまり、詩も諸説も、つまり、メッセージはまったく必要ないのではないかということだ。極端に言えばストーリーがなくてもいいのだ。(・・・)意味を伝えたいのなら意味を書くな、と言ってもいい。そのほうが読み手の心を完全にとらえることができるのだ」


8.『潮流詩派』創刊60年。241号。
 1955年に創刊して60年を迎えた歴史の重みのある詩誌。故人の村田正夫の詩篇「表現の自由な風」は、憲法第21条、表現の自由を読み解いていく。扉詩は、神谷毅の「辺野古への襲来」、沖縄の民意が踏みにじられている懸案事項について、訴えが表現されている。現在の状況詩だと思う。翻訳詩は「エミリィ・ディキンスン」の中田紀子訳。ブックレビューは山本聖子、ブックスは鈴木茂夫、マガジンは勝嶋啓太、書評は冨上芳秀、麻生直子氏。石毛拓郎のエッセイの64P,「芭蕉の「あはれ」の革新」興味深く読んだ。「つまり、〈あるがままの本当らしい自然=人工自然〉だと思う者は、疎外が〈疎外の自覚も、疎外する〉という法則どおりに二重に疎外されているのだ」



9.『午前』第7号
 布川鴇が編集発行する詩誌。十人の詩人がそれぞれの詩を書き、神品芳夫・平林敏彦・田中清光がエッセイを執筆している。敗戦後より70年、日本の文学のなかの詩というジャンルにおいて、重きをなす詩人たちの作品だと思う。尾花仙朔の「密林そして幻」より第1連。「ある日/浜辺に上がった魚を小枝に刺した三人の兵が/密林に向かって行った/地雷はなかった/火をおこし魚を焼き額を寄せて貪り食った/だが飢えは日ごとにつのり/狼牙のごとく襲いかかった」


10.『ル・ピュール』20号
 創刊して十年ということです。ページュの表紙にフランス語の「ル・ピュール」のデザイン文字。15人の詩人が作品を執筆しています。たなかあきみつさんの作品より。「(その画面上で泣き叫ぶ幼子の涎は・・・・・)」よくわからないことばが、よくわからない風景をつぎつぎとつなげていくが、「わからないことが好きな詩」です。どこかで聞いたことがある名詞だなと思ったらそれ「サヴィニオ」は、画家のキリコの実弟で、彼が音楽家で作家であったことを知るという不明なことであった。詩を読むおもしろさと楽しみ広がる。その詩を3行取り出してみる。イサドラの名が出てくるのは、サヴィニオの著書「人々よ、あなたの物語を語れ」よりの引用があるということである。これもまた、きょうみ深く、この詩篇から、イサドラのことを、この書物のことへの想像が始る。

「さてイサドラは皮膚呼吸で空気を吸い込むのと同じだけ空隙を吐きだす/サヴィニオによれば主人公は舞踏という空荷の《いかなる影も投影しない/この大理石の骨格、このパルテノンの影のもとで誕生すべき》任意の吊り手として/地中海における擬態能力のその飛跡には空気抵抗が少ない//」

註:アルベルト・サヴィニオ(Alberto Savinio、1891年8月25日 - 1952年5月5日)はイタリアの作家、劇作家、作曲家。 本名は Andrea Francesco Alberto de Chirico(アンドレア・フランチェスコ・アルベルト・デ・キリコ)wikiより


2015年4月11日土曜日

小島きみ子の「フラワーアートと現代詩」/「高原の朗読会」のお知らせ。

2015年7月16日から7月23日まで、長野県佐久穂町の黒澤酒造が経営する「くろさわギャラリー」で、小島きみ子の「フラワーアートと現代詩」展を開催します。
今回のテーマは『森の輝き/あるいは、森の悲しみ』です。森の木の実を扱った作品が中心になります。
               『森の輝き/あるいは、森の悲しみ』

 会期中の7月19日(日曜日)は、花の作品のあるギャラリーで、「高原の朗読会」を開催します。

★朗読参加者:一色真理・伊藤浩子・岡島弘子・大原鮎美(自由律俳句)・作田教子・澤田春江・生野毅・清水義博・中村みゆき(短歌)・中村良子・浜江順子・平野光子・柳沢澄・山嵜庸子。(あいうえお順・敬称略)
長野県佐久市の「佐久詩話の会」より参加するのは、塩塚加奈子・関口悦子・菊池かえ子・富田昌利。
*小島きみ子(詩)+百瀬雄太(ギター演奏)のコラボレーション。



・朗読会参加費1000円は当日の受付でお支払いください。
・一般の方は、入場料1000円です。
・長野県佐久穂町「くろさわギャラリー」アクセス
場所。〒384-0702 長野県南佐久郡佐久穂町穂積1400。
  電話:0267-88-3714
  アクセス方法, 【自動車】 ・上信越自動車道 佐久ICから国道141号経由で約40分
  ・中央自動車 道 須玉ICから国道141号経由で約70分
  【鉄道】 ・北陸新幹線佐久平駅下車、在来線乗換え。JR小海線小淵沢行き。八千穂駅下車。
        徒歩約5分。



★作品を制作中です。
 どうぞ、高原の夏を小海線の旅を楽しみながらいらしてくださいませ。

 アルストロメリア。
 長く咲いてくれます。

 

庭で、咲いているムスカリを使って。「BLUE」/ムスカリとムスカリのドライフラワー








 鉢植えで、部屋の中で育てていた「菫」でしたが、今は庭に出してあります。この菫の名前がわかりました。twitterのフォロワーさんの御蔭です。園芸種のパピリオナケア。アメリカスミレサイシンなどと呼ばれるらしい。「ビオラ・ソロリア・パピリオナケア」です。外来種のアメリカスミレが我家に来たのは、この鉢はミニシクラメンが咲いていた鉢ですが、今年は枯れてしまって3月に、菫の葉っぱが芽吹き始めました。そして、この可愛い菫が咲いてくれたのです。シクラメンを育てていた園芸農家さんの「土に零れた種」が来てくれたのではないでしょうか。それもなんとまあ、二年めの春にシクラメンの代わりに咲いてくれました。日本の菫ではありません。














「森の輝き/あるいは森の哀しみ」
作品1.









「森の輝き/あるいは森の哀しみ」
作品1.












作品2.








作品3.



作品4.








作品4の素材。
センニチコウ。











作品5.






詩篇つきで贈り物に。













作品に使う草花がようやく、咲き始めました。
スミレとビオラはたぶん、もっと咲くはずです。


上のスミレとは別の種類の外来種のスミレ。ビオラだと思います。
黄色い双葉は江戸朝顔の実生の種子が芽を出しています。





あちこちに紫のビオラが咲き始めています。



 3種類の小品は昨年製作したものです。草花は、こうした小品の材料になります。
ハナカンザシ。ビオラ。パンジーなど。






スノーボール、スイートアリッサム、デイジーレッド。







『マツボックリのグラデーション』

作品1






『マツボックリのグラデーション』
作品2.





『マツボックリのグラデーション』
作品3.












『春の森』



『湖の岸辺では』





2015年4月5日日曜日

三月の詩集紹介












1.市川篤詩集『滅びの風』私家版。
長野県伊那市在住の詩人。市川さんとは、長野県詩人協会の「長野県詩人賞」の選考委員を一緒に2年間務めた。委員のなかで一番若年の私が、選考委員長を務めたが、忌憚のない意見を交し合えた、よい仲間だった。
 今回の詩集タイトルの「滅びの風」は、栗本薫が1988年11月に発行した短編集で、栗本のファンである市川篤は、この短編集のイメージを元に詩作して、この詩集をまとめた。社会悪を淡々と書いている。

 「フクシマの向こうに」の後半に「恐竜たちには巨大隕石が滅びを与えたが/愚かな人間たちには目には/見えない死が/静かな滅びを連れてくる/のではないか/フクシマの向こうから」


2.若見政宏詩集『汽笛がきこえた街』土曜美術社出版販売
 若見さんは、名古屋市在住の方で、現在は廃刊となった渡辺正也氏の「石の詩」会で書いていたと思う。あとがきによると、1960年代の港湾と街を扱った詩集とのこと。後半に「この詩集は手放しの思い出となりえない。当時の課題(戦争の遺産)が今も宿題とし残されている。と述懐するように、66Pの「沈黙」という作品は、港湾労働組合会議のことがテーマになっている。

「感動ではない/拒絶ではない/不可能なのだ」それらの感情のなかに「誠実な沈黙がある」。日本の社会と真正面から向かい合った骨格のしっかりした誠実な詩の言葉がある。


3.魚本藤子詩集『くだものを買いに』土曜美術社出版販売
 奥付を見ると、魚本さんは、山口県下関市在住の詩人で、四冊めの詩集になる。「100人の詩人、百冊の詩集」企画本。この方の作品は初めて読むが、「千年樹」の会員。二十五篇の作品を2章に分けて所収する。取扱う題材や物事が、いわゆる日常生活の断片から掬い取られている。けれども、この人の視線は、テーブルから鉛筆が転げ落ちるその下は「断崖絶壁」の異界なのだ。

 巻頭から二番めに配された「えんぴつ」も「絶対絶命の危機/風が吹けば落ちてしまう」のだ。2章の初めに「点のようなもの」という作品がある。これは、大きな比喩に充ちていて、実力を感じさせる。表現対象の輪郭をわざと明確にせずに、気配を漂わせて、坂道を往復する。なかなかおもしろく、方法を持っている。

「いくつもの点とすれちがい/少しさざ波を立てながら/日々は過ぎる」と淡々と書きながら、この「点」を散らばせているのだ。


4.中西衛詩集『波濤』竹林館
 京都府在住で「PO」の同人。栞分を左子真由美氏が書いているが、あたたかくやさしい。聖母マリアのようだ。人を見つめる、育てるとはこういう眼差しかと学んだ。わたしも「気配」というものを詩の言葉の大切な要素と考えているが、左子真由美さんもそのように考える人だ。帯文から。「静寂の中にかすかな動きを感じとる、それはそこにないものの気配かもしれないし、または、ないように見えて本当は在るものの佇まいかもしれない。」

 「古い頭」という作品から。
「とっても軽くて 重い/空気のようで まったく見えない/わたしにとって/なんなのか答えようがない/計器でも計りようがない/近くにあるみたいなんだが/気にしたこともない/おおきすぎるのか/遥かにとおく/春の野原に舞う蝶のように/まぶしいらしい/声かけられても/返答に困る/結構なことでと言うしかない/]


5. 『金堀則夫詩集』新・日本現代詩文庫/土曜美術社出版販売
  解説は、一九七九年に書かれた小野十三郎の跋文。その真ん中どころに「金堀則夫は、詩を書くことによって自らを解放する」とある。そうだな、詩を書く事は解放だと思う。現在は21世紀であるけれども、この跋文で書かれていることの状況は、いまも繋がっている「われわれは大阪の辺境に定住しているのである。漂泊者の眼ではなく、定住者の眼を持ち続けて、のしかかる状況をも変えていこう。重い石塊を空中に蹴上げよう。」とある。
 また、岡本勝人の解説では、これまでに発行された詩集タイトルの独特な響きについて言及している。「詩人の地名にたいする思いは尋常ではなく、その存在意義と深く結びついている。なぜならば、これらはすべて、まぎれもなく交野という土地の風土と歴史と名にかかわっているからだ」とある。

 まったく、そのとおりなので、今回の現代詩文庫から76P.の「制裁」を引用する。
「空爆が/一つの国に降り注ぐ/破壊が破壊をよぶ/人のいのち/鉄の極みは/爆破する//(省略)鉄の破壊が/その破壊を破壊し/また/つぎの武力をつくる/人の刃/人間は まだ/鉄鏃を/うちつづけている//」

 長野県でも縄文時代の刀剣が発見されてTV.で見たばかりですが、「鉄」は支配者しか手にすることができなかった。その朝鮮半島から渡った鉄の塊のツルギは、人を怖れさせ、支配する手段に使われた。そのことに、21世紀に至っても、「鉄は武器」。「鉄の破壊が/その破壊を破壊し」続けるのだ。人は人を破壊し続けて、滅んでいくのだろう。いのち、が誕生したその長い時間を遡って滅んでいくのだ。それでいい。




6.八潮れん詩集『ル・鳩 良い子ぶる』思潮社
 八潮れんさんには、2011年に拙詩集『その人の唇を襲った火は』の出版記念会が杉並区の角川庭園・角川幻戯山房であったとき、初めてお会いした。跋文を書いていただいた野村喜和夫さんの講演のあと、懇親会にまで同行してくれて、いろいろなお話のなかで、フランス語が話せる彼女は、「フランスの男性はすてきですよ」と言って笑ったのが印象深かった。そして、寄寓にも彼女は長野市出身であった。

 さて、詩集を読む。フランス語と日本語が、自由に飛び交う。踊っているという感じがする。言葉同士が響きあい踊っている。わたしは、詩を書く初めから詩らしいものを書いてはいなかったので、「詩とはなにか」を知るために、詩人や文芸評論家が書いた「詩論・詩人論」を読んできたように思う。それで、いつも詩集とエッセイ集を同時に発行してきた。つまり、詩とはなにかよりも「言葉とはなにか」のほうに興味があった。それで、詩の言葉について考えてきたので、今回の「八潮れん詩集はおもしろい」と思った。

 詩集の扉に「とおく離れていても」とある。この言葉が、複雑な詩集構成のコンポジションと、絡まった糸を解いてゆくだろう。 私のパソコンは、フランス語を入力できないので引用はしないが、ヴェルレエヌやボードレールのフランス詩が原語で書かれている。それらの、阿部良雄など有名な日本語の翻訳詩がある。そして、八潮さんの耳と感受性が聞き分けるフランス語の語音から、imageされた日本語の語音で書かれた八潮れん詩がある。

 当然ながら、言葉は、意味のまえに、言語学でいうところの「音素」でできている。言葉の存在を眼の前に取り出して見せることはできないけれど、意味ではなく、言葉の音素によって喚起された感情を表現することはできる。「感じとる」ということは、意味を離れた言葉の、小鳥のさえずりのようなもので、フランス語原詩の日本語訳と、八潮れん音響詩の、この3種類の詩が、同時に「言葉として響きあう」詩集であると思う。縺れあいながら、言葉というものはなんとエロチックなものだろうと感じた。春のやわらかな雨の日曜日だった。(2015/4/5)



7.南原充士詩集『思い出せない日の翌日』水仁社
 詩集の奥付に「本冊には関係者用の特別居そう版がある」と書かれていて、どんな異相版なのだろうかと興味深い。昨年、発行した『永遠の散歩者』英和対照詩集だった。

 今回の『思い出せない日の翌日』は、穏やかな日の始まりが、思いもしないドンデン返しに陥るという内容の作品が多いと感じる。穏やかさのドンデン返しは、あるいはこれは、死後の世界ではないかと、思うほどの静寂が漲っている。寂しさといってもよく、現実からやがて来る未来を見通したときに、感じる静けさのように思う。静かな寂しさは失望や絶望が含まれていますが、その感情が書かせるものがあるし、失うということが近づくのは、永遠なのだと気がつくだろう。

 18P.に「翌日」という作品がある。
「いつのことか思い出せないが/浅い眠りから目覚めるたびに/ああたかなからだが手に触れた/何層もの夢が入れ替わり//呼吸のリズムが乱れて/深すぎる淵へ落ち込んだ時/目覚まし時計がけたたましく鳴って/もうろうとした自分に追いやられた//気がかりな空模様が予報通りなら/移りゆく天気図のような冷たい雨が/あらゆる生物を濡らすだろう// 何日も混濁し続ける意識の奥で/昨日出会ったカモメが/今日見かけたカモメと同一かどうか//」


























2015年3月23日月曜日

小笠原鳥類著『夢と幻想と出鱈目の生物学評論集』について

小笠原鳥類著・『夢と幻想と出鱈目の生物学評論集』(発行者は榎本櫻湖さん。)





 これは、『評論集』という『詩集』と受け止めるのでしょうか。
詩誌『ガニメデ』に書かれていたときは、詩としてであったと記憶するので、詩なのだと思う、ということで読んでいこう。感想というものは、なんであろうと、読んだ私の感想に間違いない。つまり、形態がなんであろうと、小笠原鳥類さんの詩の幻想と夢の言葉への感想になる。

 26P.からの「ヘッセのヴァイオリンの詩を読み、鳥は木に蝟集する虫を喰う」は、ヘッセの全集が発行されたときに書かれたと記憶する。これを読んで、ヘッセ全集の「詩篇」を注文したと思う。『・・・生物学評論集』とあるので、全篇生物について書かれています。鳥類さんの詩は、意識が意識するものへどんどん飛び移っていくのだと思う。飛び移りながら、人間をいっとき離れて、擬態している。夢と幻想とは、どこが違うかといえば、眠っている脳と目覚めている脳の違いだろうか。彼の夢と幻想のなかでの「飛び移り方」は、ひどくのんきで、陽気な散歩のようにも思える。そうか、そうだったのか、辞典を読みながらの幻想もあって、人は「いかなるときも夢と幻想の生物」なのだわ、と思った。


★ここからの感想は、二回目の記事なので部分的に重複するが仕方が無いのです。

小笠原鳥類さんの詩集『夢と幻想と出鱈目の生物学評論集』を読みながらいろいろ考えていたら、高塚謙太郎さんがweb公開の『詩客』で、書評を書いている。同じように思うところがいろいろあった。鳥類さんは「エウメニデス」に何回かゲストで来ていただいたり、表紙画も描いていただいている。こちらのアドレスで、『エウメニデス』に寄稿していただいたときの作品「魚の化石、恐竜の化石」のPDF.が読めます。(*注。無断転載は禁じます。)海の生物と楽器と、図鑑が出てきます。http://jarry.sakura.ne.jp/eu/eumenides35ogasawara-sakananokaseki.pdf
2,009年『エウメニデス』35号の表紙画は小笠原鳥類さん。
2011年はいろいろなことがあった。鳥類さんのご家族も被災されて安否の確認が長くできなかった。詩集発行のこともそんな中で延期されて、今回を迎えたのではないかと思う。違っていたらすみません。生物学評論集なのだから、生物事典を見ることが好きなのだなと思う。生物を見ながら、楽器のことが書かれているのは、彼自身が楽器を演奏するからなのだろう。楽器というものの形状も、海の生物も、彼の目によって憑依する。憑依する目かと思う。そこに留まらず、どんどん意識が流動していくという意味で、つぎつぎと標的に乗り移る、奇天烈な生物の目だと思う。ああ、タイトルが「コマイの干物は宇宙から来た、ああ。」だった。10P.を割いている。最後の「『丸山薫全集』の動物のいる瞬間を集める」の作品が、前半の事典評論とは少し趣が違うなと感じる。21Pもある。丸山薫全集は読んでないが、部分的に知っている詩もある。丸山薫について「詩の、動物の目のような動物の名前と出会おうとする。」で始まる。全集1.と全集2.があることも知った。それから、書き直すことが多いので、全集と他の場所での発表とは違うものもあることも。私もこのごろは、書き直し書き直し、もっとも表現したかった「なまな感情」へといきたいので。丸山薫については、なかなか懇切丁寧な解説で、興味深い。ここでの鳥類さんの目は、憑依しないで落ち着いている。なかなか興味深い、夢と幻想の、生物の目になる流動する意識の表出だった。言葉が生物の形で漂流していた。

この記事を書き終えて、鳥類さんにメールで、このブログ記事の確認をしたのは、ジュリアンポリアンサが咲き零れる日曜日の夜だった。


2015年3月20日金曜日

2015年3月の詩誌紹介


2月後半から、3月後半までにお送りいただいた詩誌の紹介をしていきます。
これから届くものも、順次書いていきます。











1.『K Y O 峡 第7号』詩と批評の現在へ。
 北川透さん編集製作の〈ひとり雑誌〉です。「吉本隆明の詩と思想」評論代7回目。
26ページに「広島の原爆ドーム」のことが書かれています。60年代に原爆ドームの建物の傷みがひどくなって、永久保存のプランが持ち上がったとき、市民の間から「取り壊せ」という声が持ち上がったという。原水爆禁止世界大会のことも噂に聞いて知ってはいたが、それ以上には知らなかったことが、書かれていてきょうみ深い。なぜ、原水爆禁止運動は分裂したのか、当時の社会党と共産党のことも「そういうことか」とわかった。私は広島の八月に行った事もないし、行く予定も無いが、そのとき二十一歳の私の女友達はたったひとりで、「折鶴」を持って出かけた。「暑かった、疲れた」と言ったきり、何も語らなかった。…・『K Y O. 峡』まだ、全部読んでいない。

2.『雨期 64号』
 所沢在住の須永紀子さんの編集発行。詩とessayの雑誌。4P.に原口哲也さんの「みっつのソネット」がある。私は、こういう詩は好きなので、引用してみます。3つのうちの2つめの冒頭。〈…Mignonn,allons voir si la rose〉薔薇を見にいきましょう お嬢さん/きのうはあなたのペチコートの下に ひそんでいた蔓と蕾が/ふたりの背丈を超え 建築の壁面を這い登って上空へ届き/雲のようにたれこめて 天をおおいつくしていないかどうか。」

3.『歴程 no.592』特集 2014年歴程祭〈未来を語れ〉
 2014年の「歴程賞」は高橋順子さんの『海へ(書肆山田)』だった。あとがきの「鬼区」を読むと、「三好達治賞」とのダブル受賞。9名の選考委員で、選考委員長は野村喜和夫氏。それで、お祝いの言葉やら挨拶は省略するとして、40 P.に、鈴村和成さんの「方麻痺だってね」がある。「方麻痺だってね。/顔半分が黒かった。/直列だったよ。//左側が黒く塗られてたっけね。/荒い粒子だったな。/へろへろ笑っているやつ。平板なやつ。あいまいなことを垂れ流すやつ。」

4.『環 第152号』
 名古屋市の若山紀子さんが編集・発行する雑誌。12P.から、若山さんの「地の底で」
「白い障子に/陽の蔭がさしてきて//わたしの魂が/すこしうごきだす//ゆうべの考えが素通りして/まっしろになった朝//胸にもやもやするものが/くすぶっていて//哀しみが落ちてくる//知らないところで人が消える/人が囚われる」

5.『折々の NO.34』
 発行人は松尾静明さんですが、編集は同人6名。3P.万亀佳子さんの「戻る」「あなたなんか嫌いと言う/私もそうよと言えばよかった/女の置いていったフルーツゼリーは/やっぱり傷んでいた/製造年月日も確かめずに食べたのは/まだ言葉に未練があったのだ/その夜から蛇苺の目をした猛禽が/胃の腑を掴んでは/私を食いちぎろうとする」

6.『まどえふ 第24号』
 札幌の水出みどりさんが編集発行する季刊誌の春号。女性だけの雑誌で、読むたびにそれぞれにそれなりに、それぞれの個性が固定していると思う。悪い事ではありません。詩を書く事は楽しみです。詩を趣味として楽しむことは、生活を潤滑させるのですから。

7.『藍玉 20号』
 愛知県に暮らす、男性二人が編集発行する「二人誌」。編集する水野忠政さんの「お馬鹿さん」11P.から。「考えたことはあるんですか//(死ぬことは)/地球が止まってしまうこと/なんですよ//止まってしまって/待っていても/何も来ない//今日も来ない/明日も来ない」当然のことですが、考えたことありますか?当然のことが無くなることは恐怖です。死は絶望ですし、恐怖ですが、当然のことが消えるのです。

8.『ガーネット VOL.75』
 この雑誌からは、H氏賞が二人出ているな、などと思いながら読む。A4版、後書きまで72P.です。嵯峨恵子さんが「定年」という詩を書いている。彼女と私は同年なので、定年が近い。石垣りんさんの詩を引用している。石垣さんの詩、上手いなあと思う。「ある日/会社がいった。/あしたからこなくていいよ」で始まり、嵯峨さんの個人的見解へと進められていく。最後のほうに、「私は会社にも仕事にも期待したことがない/仕事を生甲斐にはしなかった/わからんなあ/辞められるならいつでも辞める/周囲で男性社員でもそういう社員が少なくない/今や」で終わる。「辞められるならいつでも辞める」のであるが、それができないのは、労働者として当然で、生きてはゆけないし、創作活動もできません。

9.『ぽとり 第37号』
 和歌山県にお住まいの武西良和さんの個人詩誌。季刊誌ということです。昨年からお送り頂いています。特集は「白について」で、詩と万葉集の解説から構成する「白」について。〈オピニオントーク⑧〉に書かれていることがとても興味深い。「谷川雁が詩を書くことを止めたのは、「行動で書かれた詩」を発見したからではなかったか。行動の詩こそ必要だと。」なるほどと思う。私は、「詩は行為することだ」と思っている。だから、感性とか感受性とかいうものをあまり信用しない。それらは、未熟な時代の思考を支えるかもしれないが、長続きはしない。詩は言葉という素材を用いた藝術表現であるとすれば、藝術では暮らしていけない。労働によって行為しなくてはならない。行為とは民のなかへ出て行く肉体労働であると思う。言葉を行為する。失望とゼツボウの繰返しの中で。言葉の背後に思想を持たない言葉は、行為することができない。私は、ある新聞記者にいわれたことがある。「現代詩は、現代詩を書いている団体の自己満足にすぎない。わたし達には届いていない」。現代詩の現代とは、戦後の戦争の反省の上に立つ言葉だ。口語自由詩をもって現代詩とはいわない。雑誌の内容とはかなり、逸れたが、谷川雁の『農村と詩』についても書かれているので。

10.『4 B. 9号』
 1枚の厚手のA4の色上質紙・裏表印刷を三つ折にした詩誌。坂多栄子・中井ひさ子・福原恒雄・南川隆雄の4人の同人誌。4人とも同じような時代を生きてきた人々ではないかと思う。長く人間を生きてきて現実を見渡すと、すでに異界の入り口がぽっかり開いているのではないかと思わせる作品。幻影でもなんでもなく、老いると見えてくる現実のなかの現実を超えている異界。ではないのかと思う。見えるということは、現実の上に創造が被さることだと思う。福原恒雄の作品冒頭部分。「一人の部屋で/一人/であのじいさまが死んだ」とは、未知なる時間の自分自身のことであるだろう。

11.『イリヤ 15号』
 尾崎まことさんが、年2回発行する雑誌。左子真由美・佐古祐二・尾崎まことの3人の雑誌。表紙は尾崎さんの写真ですが、Face bookでアップしている写真の一部かなと思ったが違うのかな。ハイヒールの足元の蔭が印象深い写真が雑誌の中にもある。佐古祐二さんの作品に「初めて」があります。「先生 まりやが俺のことずっとにらんでるから気味がわるい/そう じゃ 気をつけてみておくね/(なるほど まりやの視線の先にはたけしがいいつもいる)/たけしくんのことが気になるの?/(まりやはみるみる真っ赤になる)/中略。(後日 校庭で)/にらんでごめんね/あぁ/(それでも まりやはたけしのことを時どきにらんでしまっている)」ああ。そういうこと、あったような気がする。いつもなんでいじめられるかわからなかった。参観日のあと、その男の子のお母さんが母に言った。「家では、娘さんの名前ばかりいうんですよ」って。そういうことありますが、思ってもいない相手だとやはり「気味が悪い」のよね。これはどうしようもないのです。

12.『しばりふじ 参』
 広瀬大志・海埜今日子・伊藤浩子・相沢正一郎の四人の雑誌。表紙のしばり富士が粋ですね。三号だけに三つの富士がそそり立つ。この雑誌の世界は、魔界ではないが異界である。通常の思惑、日常の常識、非常識などという常識の世界を飛び越えている。四人の詩人の言葉がそれぞれに、「詩の言葉」として力強い。失望する現実のもろもろを「飛び越えて」いるのだ。


「あとがき」の広瀬大志さんの言葉に痺れた。全部は書かないが「詩は救済ではない。詩は同調ではない。詩は誠意ではない。詩は思想ではない。詩は意味ではない。詩は伝えではない。詩は役割ではない。詩は目的ではない。詩は理由ではない。詩は翻訳ではない。詩は羞恥ではない。以下省略。」広瀬大志よかった。

13.『そうかわせみ、Vol.13』
 この雑誌は、一色真理、相沢正一郎、伊藤浩子、岡島弘子の四人の雑誌。このごろの伊藤浩子さんの作品に注目しているのですが、ここでは、「秋の窪みを」という比較的普通な言葉が使われていて、読んでわかる作品。すぐれた詩は、現実の世界を予見するものだが、この三行にはギクッとした。「遠くの街では新しい市民が老いた兵士の首を掻き切ったと子どもたちがはやしたてている」と。詩の言葉は、あらゆる藝術の最前衛を行くものだ、と思う。2015年は、1月から人間が生きてゆくことに絶望するような事件が起きている。

14.『虚の筏 11』
 洪水企画の池田康さんが発行する、B4.裏表印刷の詩誌。八名の詩人が参加しているが、ここでも海埜今日子さんの平仮名詩が読める。彼女の旺盛な創作力に敬意を払う。昨年発行された詩集『かわほりさん』の書評でも書いたが、日本語の意味をズラすというような単純な段階ではなく、言葉が意味ではなく「おと」であったときの原始言語の感情で書いている。それを感情で受け止めるのが海埜今日子詩だたと思う。作品は「ひ、と。」

15.『ACT Vol 392』
 仙台演劇研究会の通信。通信ですが、なかなか内容のあるものです。B4,を中折にした簡易なものです。巻頭詩は、三林美晴「ディスティニーチャイルド」、ブックレビュー、アート・アトランダムではエルンストのエッセイが書かれている(!)、高橋英司氏の「和合亮一の詩」というエッセイもよい。ミュージックプロムナード、仙台演劇研究会の「珍しく良質なアメリカ映画」という映画評など、紙面構成や書き手を揃えていて、おもしろかった。

2015年3月18日水曜日

「美」とは、言葉が生まれる場処。


私は、樹木派なので、赤松のマツボックリがとても美しいと思っています。何を見ても「マツボックリの目」になってしまうのは、草間彌生が感じた水玉の模様と同じ心境かもしれない。マツボックリのグラデーションをお見せしたいと思います。




長野県松本市出身の藝術家・草間彌生の凛とした眼差し。









赤松の疎林。樹皮に光があったてフィトンチッドの香りもひきたちます。



採集したマツボックリを洗浄して、天日と室内で二週間乾燥させます。
68個あります。


セピアとグレイに分けてみます。



室内光の下で見てみます。
明るい場処へ。



マツボックリのセピア色のグラデーション。
自然の光線で見ると。
微妙な色の違い。
みんな違う。



明るいセピア色は、若いマツボックリ。
グレイのマツボックリは少し成熟している。
深い色をしています。


レイアウトしてみると
形状と色彩の美しさが際立ちます。










金色のヤイトバナの種子との組合せ。
其処に光がきています。
言葉が生まれます。
「美」とは、言葉が生まれる場処なのだと思います。




グレイのマツボックリと銀色のCedar Roseとの組合せ。























ドライフラワーの組合せ。ウスベニアオイ。薔薇2種類。ライムライト。Cedar Rose.








すくすく育つトウカエデの幼木。