2015年4月25日土曜日

四月の詩集と四月の詩誌10誌。

2015年7月のフラワーアートの作品展の作品を製作しつつ、お届けいただいた、詩集・詩誌を拝読しております。セレクトして紹介しています。ご了解くださいませ。

四月の詩集。
四月前半の三冊の詩集。画像の紹介で御礼とします。
内藤喜美子詩集『夢を買いに』著者七冊めの新詩集/井上摩耶詩集『闇の炎』1976年生まれの著者の第一詩集。神原良詩集『ある兄弟へのレクイエム』著者8冊めの新詩集。解説を含めて全141ページは、詩集としては大冊に入ります。じっくり書かれています。




四月中旬に読んだ詩集は、大原鮎美詩集『月光苑』(土曜美術社出版販売)。
701~900までの短詩です。さまざまな場面が次々と現われては消えていく、万華鏡のように照り返す詩句のナンバーは、人間が最後に開く「扉」に向かっているのかもしれません。言葉のスピードに酔う夜の始まりでありました。





四月後半は、白い詩集を二冊読んだ。生物の命が輝き動き出す、春の日に、眩しくて何も見えないように届けられた、白い紙の上の白い表紙。
白い詩集二冊。




①赤木三郎詩集『無伴奏』は、3月25日に発行された。
真っ白な詩集で、申し訳ないのですが、3月末は慌しくて見失っていました。タイトルだけでも色彩が施されていると良かったのにと思いました。 けれども、14P.に「夢見るロルカ」という作品があり、そうかそういうことかと頷きました。「フェデリコ・ガルシア・ロルカは 部屋から連行されるとき/白い服をえらんだ//(外はどんどん暗くなっていった)//ロルカがシャベルで 穴を/掘るとき服が汚れたが どう汚れたのか/少しもわからなかった//(ひどく暗い中で 銃のおとは 二回)//暗くても にじむ/血は よくわかった はずだ」血の色が、暗闇の中から届くには、白い服が必要だった。日本の現状にも、白い文字の『無伴奏』を届けたいということだろう。


②江口節詩集『果樹園まで』白い表紙の詩集。
タイトルが金色で、白い紙のうえで眩しい。プロフイールに「詩と思想」第10回新人賞。第24回富田砕花賞受賞とあります。ベテラン詩人。言葉への透徹した「眼」を感じる。この言葉しかないという言葉で、表現する対象へ迫っていく迫力を感じる。「ゆるぎなき言葉」で事物が表現された。真っ白な表紙にくるまれて。「柿」という作品。「硬い柿は籠に入れて/しばらく 眼にたべさせる/弾力が出るまで//舌はわがままで 偏狭で/十分に達した味わいしか/認めない//柿、と言うて/詩、と言うて」



四月の詩誌。            


                ココア共和国vol.17.


                              ガニメデ。モーアシビ。イリプス。

              個人誌。ピエ。              

               「junction94]。「独合点第122号」。「ル・ピュール20号」
               「潮流詩派創刊60年241号」「午前第7号」

1.『ココア共和国』vol.17
 清水哲男「愛について」は、最終の三行に激しく揺さぶれますね。「生涯の愛のかたちが消えていく・・・・・」そして1行空けて「そのときだな おそらくは/ぼくがとろりと死んでしまうのは。」
そして、金沢一志の論考「くさび形文字の詩 寺山修司とVOU」横書きで14Pもの労作です。引用詩、写真、資料も豊富でたいへん参考になるものです。


2.『モーアシビ』第30号。特別記念号。
 旺盛に書いている詩人たちの何人かに目がいくけれども、特に心がそこに止まったのは北爪満喜さんの「口を結んで」だった。「帰り道 口を結んで歩く/痛かった/暖かい内側の闇に まだ傷が光っている」 たぶん、あれは、初めての歴程セミナーの帰り。電車に乗るために一緒に走ったことがあった。今も「がんばれ」という彼女の澄んだ声が階段を上るときに聞こえるのだ。痛いとき。


3.『イリプス』no.15.
 作田教子「死有の視線」は、五連の詩篇。最初と終連が4行で、2連・4連が5行。中心の3連が8行。カッチリとした連の構成の中で言葉の視線が狙い定めた場所に到達する。「彼は燃え尽きるものの原型を/記憶にとどめている/灰のなかにも/息づくものの気配を嗅ぎ取る」


4.『ガニメデ』vol.63.
 348ページの大冊。たなかあきみつさんの「ジェリー・ウルスマン」を読んで、「エドワード・ウェストン」を読んで、104P。望月遊馬さんの「秋の肖像」を読んだ。寂しい気品があってよいと思った。最初の、「ある秋の朝、/ソファに」の始まりも秋の花が香ってくるような始まりで、十月八日の朝もしっくりする。後半に、「人生などという大がかりなものを持ちだして/母の死を分析するような子どもには/なりたくないな/わたしは」とあり、落ち着いた静かな視線が「秋の肖像」にふさわしいと思った。



5.『ピエ』2014.12/vol.12
 札幌市在住の海東セラの個人誌。2014.12のものですが届いたのは先日。昨年、第一詩集を出したばかり。「ピエ」は創刊号から送られてきたと思う。とてもお洒落で、贅沢な個人誌。作品は「遊離基」一篇のみですが、完成度は非常に高いです。ただ、山括弧「〈」の使い方が少し甘い気がする。括弧内が散文調で、外した部分は行分けです。行分けの部分と、山括弧内の散文との使い分けの、語のリズムに、もう少し変化があってもいいと思います。


6.『junction 94』
 柴田三吉・草野信子氏の二人誌。 この雑誌に出遭ったのはいつだったろうか。私が『Eumenides』を創刊したころだったような気がする。草野さんは、名古屋で暮らしている。いつか、会いたいと思う。草野信子さんの「くつした」から。「たいてい/かたいつぽうだけ 落ちています/ひろって/ひいらぎなんてんの 枝にかけると/クリスマスの飾りみたいなくつした//(省略)若い母たちの/よろこびと 哀しみ/匂いたつ日々と 乳いろをした孤独//(後半省略)」


7.『独合点』第122号
 金井雄二氏の個人誌。エッセイ「シルカ」の7P上段に、私が考えている事にピッタリ符合する事が書かれている。「ぼくは最近、文学についての考え方が変わってきたのかもしれない。(・・・)つまり、詩も諸説も、つまり、メッセージはまったく必要ないのではないかということだ。極端に言えばストーリーがなくてもいいのだ。(・・・)意味を伝えたいのなら意味を書くな、と言ってもいい。そのほうが読み手の心を完全にとらえることができるのだ」


8.『潮流詩派』創刊60年。241号。
 1955年に創刊して60年を迎えた歴史の重みのある詩誌。故人の村田正夫の詩篇「表現の自由な風」は、憲法第21条、表現の自由を読み解いていく。扉詩は、神谷毅の「辺野古への襲来」、沖縄の民意が踏みにじられている懸案事項について、訴えが表現されている。現在の状況詩だと思う。翻訳詩は「エミリィ・ディキンスン」の中田紀子訳。ブックレビューは山本聖子、ブックスは鈴木茂夫、マガジンは勝嶋啓太、書評は冨上芳秀、麻生直子氏。石毛拓郎のエッセイの64P,「芭蕉の「あはれ」の革新」興味深く読んだ。「つまり、〈あるがままの本当らしい自然=人工自然〉だと思う者は、疎外が〈疎外の自覚も、疎外する〉という法則どおりに二重に疎外されているのだ」



9.『午前』第7号
 布川鴇が編集発行する詩誌。十人の詩人がそれぞれの詩を書き、神品芳夫・平林敏彦・田中清光がエッセイを執筆している。敗戦後より70年、日本の文学のなかの詩というジャンルにおいて、重きをなす詩人たちの作品だと思う。尾花仙朔の「密林そして幻」より第1連。「ある日/浜辺に上がった魚を小枝に刺した三人の兵が/密林に向かって行った/地雷はなかった/火をおこし魚を焼き額を寄せて貪り食った/だが飢えは日ごとにつのり/狼牙のごとく襲いかかった」


10.『ル・ピュール』20号
 創刊して十年ということです。ページュの表紙にフランス語の「ル・ピュール」のデザイン文字。15人の詩人が作品を執筆しています。たなかあきみつさんの作品より。「(その画面上で泣き叫ぶ幼子の涎は・・・・・)」よくわからないことばが、よくわからない風景をつぎつぎとつなげていくが、「わからないことが好きな詩」です。どこかで聞いたことがある名詞だなと思ったらそれ「サヴィニオ」は、画家のキリコの実弟で、彼が音楽家で作家であったことを知るという不明なことであった。詩を読むおもしろさと楽しみ広がる。その詩を3行取り出してみる。イサドラの名が出てくるのは、サヴィニオの著書「人々よ、あなたの物語を語れ」よりの引用があるということである。これもまた、きょうみ深く、この詩篇から、イサドラのことを、この書物のことへの想像が始る。

「さてイサドラは皮膚呼吸で空気を吸い込むのと同じだけ空隙を吐きだす/サヴィニオによれば主人公は舞踏という空荷の《いかなる影も投影しない/この大理石の骨格、このパルテノンの影のもとで誕生すべき》任意の吊り手として/地中海における擬態能力のその飛跡には空気抵抗が少ない//」

註:アルベルト・サヴィニオ(Alberto Savinio、1891年8月25日 - 1952年5月5日)はイタリアの作家、劇作家、作曲家。 本名は Andrea Francesco Alberto de Chirico(アンドレア・フランチェスコ・アルベルト・デ・キリコ)wikiより


2015年4月11日土曜日

小島きみ子の「フラワーアートと現代詩」/「高原の朗読会」のお知らせ。

2015年7月16日から7月23日まで、長野県佐久穂町の黒澤酒造が経営する「くろさわギャラリー」で、小島きみ子の「フラワーアートと現代詩」展を開催します。
今回のテーマは『森の輝き/あるいは、森の悲しみ』です。森の木の実を扱った作品が中心になります。
               『森の輝き/あるいは、森の悲しみ』

 会期中の7月19日(日曜日)は、花の作品のあるギャラリーで、「高原の朗読会」を開催します。

★朗読参加者:一色真理・伊藤浩子・岡島弘子・大原鮎美(自由律俳句)・作田教子・澤田春江・生野毅・清水義博・中村みゆき(短歌)・中村良子・浜江順子・平野光子・柳沢澄・山嵜庸子。(あいうえお順・敬称略)
長野県佐久市の「佐久詩話の会」より参加するのは、塩塚加奈子・関口悦子・菊池かえ子・富田昌利。
*小島きみ子(詩)+百瀬雄太(ギター演奏)のコラボレーション。



・朗読会参加費1000円は当日の受付でお支払いください。
・一般の方は、入場料1000円です。
・長野県佐久穂町「くろさわギャラリー」アクセス
場所。〒384-0702 長野県南佐久郡佐久穂町穂積1400。
  電話:0267-88-3714
  アクセス方法, 【自動車】 ・上信越自動車道 佐久ICから国道141号経由で約40分
  ・中央自動車 道 須玉ICから国道141号経由で約70分
  【鉄道】 ・北陸新幹線佐久平駅下車、在来線乗換え。JR小海線小淵沢行き。八千穂駅下車。
        徒歩約5分。



★作品を制作中です。
 どうぞ、高原の夏を小海線の旅を楽しみながらいらしてくださいませ。

 アルストロメリア。
 長く咲いてくれます。

 

庭で、咲いているムスカリを使って。「BLUE」/ムスカリとムスカリのドライフラワー








 鉢植えで、部屋の中で育てていた「菫」でしたが、今は庭に出してあります。この菫の名前がわかりました。twitterのフォロワーさんの御蔭です。園芸種のパピリオナケア。アメリカスミレサイシンなどと呼ばれるらしい。「ビオラ・ソロリア・パピリオナケア」です。外来種のアメリカスミレが我家に来たのは、この鉢はミニシクラメンが咲いていた鉢ですが、今年は枯れてしまって3月に、菫の葉っぱが芽吹き始めました。そして、この可愛い菫が咲いてくれたのです。シクラメンを育てていた園芸農家さんの「土に零れた種」が来てくれたのではないでしょうか。それもなんとまあ、二年めの春にシクラメンの代わりに咲いてくれました。日本の菫ではありません。














「森の輝き/あるいは森の哀しみ」
作品1.









「森の輝き/あるいは森の哀しみ」
作品1.












作品2.








作品3.



作品4.








作品4の素材。
センニチコウ。











作品5.






詩篇つきで贈り物に。













作品に使う草花がようやく、咲き始めました。
スミレとビオラはたぶん、もっと咲くはずです。


上のスミレとは別の種類の外来種のスミレ。ビオラだと思います。
黄色い双葉は江戸朝顔の実生の種子が芽を出しています。





あちこちに紫のビオラが咲き始めています。



 3種類の小品は昨年製作したものです。草花は、こうした小品の材料になります。
ハナカンザシ。ビオラ。パンジーなど。






スノーボール、スイートアリッサム、デイジーレッド。







『マツボックリのグラデーション』

作品1






『マツボックリのグラデーション』
作品2.





『マツボックリのグラデーション』
作品3.












『春の森』



『湖の岸辺では』





2015年4月5日日曜日

三月の詩集紹介












1.市川篤詩集『滅びの風』私家版。
長野県伊那市在住の詩人。市川さんとは、長野県詩人協会の「長野県詩人賞」の選考委員を一緒に2年間務めた。委員のなかで一番若年の私が、選考委員長を務めたが、忌憚のない意見を交し合えた、よい仲間だった。
 今回の詩集タイトルの「滅びの風」は、栗本薫が1988年11月に発行した短編集で、栗本のファンである市川篤は、この短編集のイメージを元に詩作して、この詩集をまとめた。社会悪を淡々と書いている。

 「フクシマの向こうに」の後半に「恐竜たちには巨大隕石が滅びを与えたが/愚かな人間たちには目には/見えない死が/静かな滅びを連れてくる/のではないか/フクシマの向こうから」


2.若見政宏詩集『汽笛がきこえた街』土曜美術社出版販売
 若見さんは、名古屋市在住の方で、現在は廃刊となった渡辺正也氏の「石の詩」会で書いていたと思う。あとがきによると、1960年代の港湾と街を扱った詩集とのこと。後半に「この詩集は手放しの思い出となりえない。当時の課題(戦争の遺産)が今も宿題とし残されている。と述懐するように、66Pの「沈黙」という作品は、港湾労働組合会議のことがテーマになっている。

「感動ではない/拒絶ではない/不可能なのだ」それらの感情のなかに「誠実な沈黙がある」。日本の社会と真正面から向かい合った骨格のしっかりした誠実な詩の言葉がある。


3.魚本藤子詩集『くだものを買いに』土曜美術社出版販売
 奥付を見ると、魚本さんは、山口県下関市在住の詩人で、四冊めの詩集になる。「100人の詩人、百冊の詩集」企画本。この方の作品は初めて読むが、「千年樹」の会員。二十五篇の作品を2章に分けて所収する。取扱う題材や物事が、いわゆる日常生活の断片から掬い取られている。けれども、この人の視線は、テーブルから鉛筆が転げ落ちるその下は「断崖絶壁」の異界なのだ。

 巻頭から二番めに配された「えんぴつ」も「絶対絶命の危機/風が吹けば落ちてしまう」のだ。2章の初めに「点のようなもの」という作品がある。これは、大きな比喩に充ちていて、実力を感じさせる。表現対象の輪郭をわざと明確にせずに、気配を漂わせて、坂道を往復する。なかなかおもしろく、方法を持っている。

「いくつもの点とすれちがい/少しさざ波を立てながら/日々は過ぎる」と淡々と書きながら、この「点」を散らばせているのだ。


4.中西衛詩集『波濤』竹林館
 京都府在住で「PO」の同人。栞分を左子真由美氏が書いているが、あたたかくやさしい。聖母マリアのようだ。人を見つめる、育てるとはこういう眼差しかと学んだ。わたしも「気配」というものを詩の言葉の大切な要素と考えているが、左子真由美さんもそのように考える人だ。帯文から。「静寂の中にかすかな動きを感じとる、それはそこにないものの気配かもしれないし、または、ないように見えて本当は在るものの佇まいかもしれない。」

 「古い頭」という作品から。
「とっても軽くて 重い/空気のようで まったく見えない/わたしにとって/なんなのか答えようがない/計器でも計りようがない/近くにあるみたいなんだが/気にしたこともない/おおきすぎるのか/遥かにとおく/春の野原に舞う蝶のように/まぶしいらしい/声かけられても/返答に困る/結構なことでと言うしかない/]


5. 『金堀則夫詩集』新・日本現代詩文庫/土曜美術社出版販売
  解説は、一九七九年に書かれた小野十三郎の跋文。その真ん中どころに「金堀則夫は、詩を書くことによって自らを解放する」とある。そうだな、詩を書く事は解放だと思う。現在は21世紀であるけれども、この跋文で書かれていることの状況は、いまも繋がっている「われわれは大阪の辺境に定住しているのである。漂泊者の眼ではなく、定住者の眼を持ち続けて、のしかかる状況をも変えていこう。重い石塊を空中に蹴上げよう。」とある。
 また、岡本勝人の解説では、これまでに発行された詩集タイトルの独特な響きについて言及している。「詩人の地名にたいする思いは尋常ではなく、その存在意義と深く結びついている。なぜならば、これらはすべて、まぎれもなく交野という土地の風土と歴史と名にかかわっているからだ」とある。

 まったく、そのとおりなので、今回の現代詩文庫から76P.の「制裁」を引用する。
「空爆が/一つの国に降り注ぐ/破壊が破壊をよぶ/人のいのち/鉄の極みは/爆破する//(省略)鉄の破壊が/その破壊を破壊し/また/つぎの武力をつくる/人の刃/人間は まだ/鉄鏃を/うちつづけている//」

 長野県でも縄文時代の刀剣が発見されてTV.で見たばかりですが、「鉄」は支配者しか手にすることができなかった。その朝鮮半島から渡った鉄の塊のツルギは、人を怖れさせ、支配する手段に使われた。そのことに、21世紀に至っても、「鉄は武器」。「鉄の破壊が/その破壊を破壊し」続けるのだ。人は人を破壊し続けて、滅んでいくのだろう。いのち、が誕生したその長い時間を遡って滅んでいくのだ。それでいい。




6.八潮れん詩集『ル・鳩 良い子ぶる』思潮社
 八潮れんさんには、2011年に拙詩集『その人の唇を襲った火は』の出版記念会が杉並区の角川庭園・角川幻戯山房であったとき、初めてお会いした。跋文を書いていただいた野村喜和夫さんの講演のあと、懇親会にまで同行してくれて、いろいろなお話のなかで、フランス語が話せる彼女は、「フランスの男性はすてきですよ」と言って笑ったのが印象深かった。そして、寄寓にも彼女は長野市出身であった。

 さて、詩集を読む。フランス語と日本語が、自由に飛び交う。踊っているという感じがする。言葉同士が響きあい踊っている。わたしは、詩を書く初めから詩らしいものを書いてはいなかったので、「詩とはなにか」を知るために、詩人や文芸評論家が書いた「詩論・詩人論」を読んできたように思う。それで、いつも詩集とエッセイ集を同時に発行してきた。つまり、詩とはなにかよりも「言葉とはなにか」のほうに興味があった。それで、詩の言葉について考えてきたので、今回の「八潮れん詩集はおもしろい」と思った。

 詩集の扉に「とおく離れていても」とある。この言葉が、複雑な詩集構成のコンポジションと、絡まった糸を解いてゆくだろう。 私のパソコンは、フランス語を入力できないので引用はしないが、ヴェルレエヌやボードレールのフランス詩が原語で書かれている。それらの、阿部良雄など有名な日本語の翻訳詩がある。そして、八潮さんの耳と感受性が聞き分けるフランス語の語音から、imageされた日本語の語音で書かれた八潮れん詩がある。

 当然ながら、言葉は、意味のまえに、言語学でいうところの「音素」でできている。言葉の存在を眼の前に取り出して見せることはできないけれど、意味ではなく、言葉の音素によって喚起された感情を表現することはできる。「感じとる」ということは、意味を離れた言葉の、小鳥のさえずりのようなもので、フランス語原詩の日本語訳と、八潮れん音響詩の、この3種類の詩が、同時に「言葉として響きあう」詩集であると思う。縺れあいながら、言葉というものはなんとエロチックなものだろうと感じた。春のやわらかな雨の日曜日だった。(2015/4/5)



7.南原充士詩集『思い出せない日の翌日』水仁社
 詩集の奥付に「本冊には関係者用の特別居そう版がある」と書かれていて、どんな異相版なのだろうかと興味深い。昨年、発行した『永遠の散歩者』英和対照詩集だった。

 今回の『思い出せない日の翌日』は、穏やかな日の始まりが、思いもしないドンデン返しに陥るという内容の作品が多いと感じる。穏やかさのドンデン返しは、あるいはこれは、死後の世界ではないかと、思うほどの静寂が漲っている。寂しさといってもよく、現実からやがて来る未来を見通したときに、感じる静けさのように思う。静かな寂しさは失望や絶望が含まれていますが、その感情が書かせるものがあるし、失うということが近づくのは、永遠なのだと気がつくだろう。

 18P.に「翌日」という作品がある。
「いつのことか思い出せないが/浅い眠りから目覚めるたびに/ああたかなからだが手に触れた/何層もの夢が入れ替わり//呼吸のリズムが乱れて/深すぎる淵へ落ち込んだ時/目覚まし時計がけたたましく鳴って/もうろうとした自分に追いやられた//気がかりな空模様が予報通りなら/移りゆく天気図のような冷たい雨が/あらゆる生物を濡らすだろう// 何日も混濁し続ける意識の奥で/昨日出会ったカモメが/今日見かけたカモメと同一かどうか//」