2021年10月9日土曜日

横浜の詩人・下川敏明さんより詩集『楽園のふたり』をFB,で紹介して頂きました。

小島きみ子詩集『楽園のふたり』|下川敬明 「愛」をめぐる思弁と情感が波立ち、溶け合う。 大空の広やかさ――希望、理想、博愛――と 「わたしのなかのあなた」への秘めやかな囁き。 わたしとあなたは 一つの文字になって溶ける (「カロライナジャスミンの繁みで」冒頭部分) 他にも、「(声の影が、)」のかなしく美しい二重唱、 あるいは、 わたしたちは夫でも妻でもなく、ようやく晴れて、ただのなんでもないものだった。タンポポの種子とともに、わたしたちは無為な物として芽吹くのだろうか。 (「私たちは誰も愛さなかった」部分) 樹皮の内側をながれる樹液のように、言葉の皮膚をめくれば、作者の血と汗と涙が噴き出してくる。何と豊かなこと! 深謝いたします。

2021年8月25日水曜日

大阪の詩人・今野和代氏のFB.投稿記事転載しました。

小島きみ子詩集『楽園のふたり』| 対峙してくる世界をとらえ、そのざわめきを、怒りを、問いを、歓喜を、くきやかなメロディーラインにして放ってる。限りなく透きとおっていくシンフォニー ! 小島きみ子第5詩集『楽園のふたり』を今、読了。虚空と地上。沈黙と囁き。抱擁と喪失。色彩と陰影。邂逅と別れ。戦略と無垢。・・・それら極みから極みへの限りない往還が、伸びやかな空中ブランコの軌跡になって、私の前に広がっていく。 メジロのチュルチュルを、綱渡りする夢遊病者の喘ぎを、ゼラニウムが果てていくサヨナラの合図を、黒い蝉の嘆きの羽音を、遠い物語の水音を、聴くことのできる、何と研ぎ澄まされた柔らかな耳。 それぞれ固有のつましい暮らしの呼吸を終えて、いつか死んでしまう私。わたしたち。薔薇も蝉も蟻もハナミズキもキジバトも・・。父。母。夫。子供たち。恋人や弟や兄や妹や友たちの真あたらしい足音。別れ。怒り。嘆きやおののき。吐息。 単独者の通奏低音のような、自由な優しい魂の鼓動が、わたしの胸にも柔らかく響いて来ています。

2021年8月23日月曜日

詩集『楽園のふたり』柴田望(詩誌「フラジャイル」発行人) 批評文 転載しました。

柴田望 最近、YouTubeなどで「ツインレイ」という言葉をよく見かけます。都市伝説?のようなもの、「自分の魂の片割れ」という意味だそうで、サイレント期間と呼ばれる理不尽な一時的別離を経験したり、再会し統合(と呼ぶ)することで魂を成長させる、お互いに唯一の存在とのことです。身近な人との関りで、ある日ふとした瞬間に、一瞬にして蘇らせる前世の記憶……。  W・B・イェイツは結ばれることのなかった生涯の恋人モード・ゴンを、詩(『葦間の風』「エイ、心の薔薇を語る」など)の中で薔薇に喩えています。イェイツにとって「この世」で生きる目的は、過去世で関りのあった上述の「ツインレイ」のような、無二の存在と巡り会う、薔薇を探す旅でした。  小島きみ子さんの新詩集『楽園のふたり』を拝読させて戴き、第Ⅰ章に収められた「あなた」へ向けて、「あなた」について書かれた絶唱ともいえる作品群の行間から、今は語られない、たくさんの思い出の会話が交響曲のように聴こえてくるようです。「(あなた)と僕の内部にはいつも(交響詩)が存在する」(「(交響詩)のように」)、作品「(声の影が、)」は、此の世とあの世の声が平行して、一篇の詩の中で、一人の詩人の中で二人の詩人が、即興のインタープレイを展開しているような壮絶な緊張感です。前頁「カロライナジャスミンの繁みで」の最終連でオフィーリアの川の流れがえがかれていますが、水のイメージ、生と死の狭間から過去世の記憶が噴き出し、ある時止まる。「はなれて響き会う ⅷ噴水の時間が止まった時間のこと」は、「あっ という瞬間の」「水の煌めき」、詩句の響きから得られるビジョンが本当に美しく、この世のものとは思えないほどです。自然の理(ことわり)として諭される「苦しみのあとの安らぎのように」、命をもった詩の言葉に、深い安らぎを覚えています。  第Ⅱ章は、神話や聖書、哲学、現代の様々な問題など、詩の言語が豊かな学びへ読者を誘い、楽しませます。最後の詩、臨死体験のような「黄泉の國は此の世と瓜二つなのです」を読み、この詩集のⅠ章とⅡ章は、どちらかが黄泉の國であり、どちらかが此の世なのだろうか、それぞれに両方の要素があるのだろうかなど、空と海の境と通路を探すような、永久の謎に導かれ、あとがきの「詩の言葉にして振り返れば、苦しみすらも安らぎのように語ることができます。」という御言葉に、幸せと不幸、苦しみと安らぎ、希望と絶望、無理に二極化する必要はないのだと、気づかされ励まされるような深い希望を戴いております。貴重な学びの機会を賜り、心より感謝申し上げます。

2021年6月19日土曜日

「山鳥の」花と斎藤秀雄さんの俳句とのコラボレーション

 「山鳥の」花と斎藤秀雄さんの俳句とのコラボレーション
額にいれました。


山頭火に「だまって あそぶ 鳥の一羽が 花の中」という句があります。私の誕生鳥ヤマドリと、春の押花額をいくつか制作してきました。ヤマドリは、春の季語。俳句をされている、斎藤秀雄さんの山鳥の句と押花を纏めました。4つ作っていただいたのですが、「山鳥が写真の枝を踏みにけり」「山鳥の廊下がうすく見えてくる」の句で、押花の画面を作りました。

斎藤秀雄さんの句「山鳥の」

山鳥の目の高さから生まれくる

山鳥の深さの闇へ手を入れる

山鳥が写真の枝を踏みにけり

山鳥の廊下がうすく見えてくる

2021年6月1日火曜日

花と短詩のコラボレーション

 
春の思いでの、Pansy押花、Viola押花の作品と、twitter.のお友達、天野行雄さん、斎藤秀雄さん、白島真さん、鳥見 徒躬於さんと「花と短詩・俳句」のコラボレーションをしました。お立寄りください。


高原より
●スミレ熱強の狂熱のスミレ咲く小径を  スミレの名を呼びながら  独り歩いて来た

●高原の湖の岸辺にはハルリンドウが咲いていた  水面に鳥影の行方を映す  水鏡の人のペルソナ
●ビオラソロリア  アロエの鉢に混ざって発芽して雪の日も咲き続けた  あなたが此の場所に居たので  憎しみと悲しみの純愛の愛の変容を知った  最後の春だったBlue.と名乗った人よ

●押花の作品とコラボレーションしました。
規定は、百文字程度。4行程度で。
個展会場が見つかれば、テキストも飾りたいので、短めの詩、俳句をお願いしました。

1番の押花赤い部屋のヤマドリ。

2番桃色と黄色の部屋のヤマドリ。

3番橙色と黄色の部屋のヤマドリ。


●ヤマドリは5月1日生まれの私の誕生鳥です。ハンコをtwitterのフォロワーさんに制作していただきました。花の中にいる、鳥のイメージで押花を制作しています。本当は個展を開きたいのですが、web.で公開しつつ、先ず詩と歌とコラボします。押花には、小島きみ子の作品タイトルを付けていますが、自由に変えてください。

1番 赤い部屋のヤマドリ

2番。桃色と黄色の部屋のヤマドリ。

3番。橙色と黄色の部屋のヤマドリ。


●天野行雄さん
3番のフラワーアートとのコラボレーション
水源より

物言わぬひとつの地平にボクを関連づける
森の水源から所有の徴を載せた笹舟を放つ
不思議を負うヤマドリはパンジーを届けに来たよ
空といのちを飾るものたちを繕って土曜日を流れる

●斎藤秀雄さん
3番のフラワーアートとのコラボレーション
「山鳥の」   


山鳥の目の高さから生まれくる

山鳥の深さの闇へ手を入れる

山鳥が写真の枝を踏みにけり

山鳥の廊下がうすく見えてくる



白島真さん
1番のフラワーアート作品とのコラボレーション

「赤い部屋のヤマドリ」

花びらを吸うと憶いだす
生と死のうらおもて ひりひり
大勢のなかの二人きり
ヤマドリが歌う誕生歌 
花のふくらみからこぼれ落ちる 
しらしら



●鳥見 徒躬於さん
1番「赤い部屋のヤマドリ」


あの山鳥の尾羽のやうにわたくしの命もまた果テがないやうな氣がしてゐた若き日日にはただ鳥影を追ふのみのゆふぐれもあつた橋の上から川明りのなか塒に急ぐ鳥鳥のその黑い姿を數えてゐた鳥鳥はたれかのいのちの姿だと思うた



2番 「桃色と黄色の部屋のヤマドリ」 1行3文字詩

よるの

はての

とりの

こゑを

ひるの

すゑの

とりの

それに

かさね

あはせ

われの

なかに

つもる

こゑの

いみを

さとる


2021年3月25日木曜日

カボチャンの大冒険|詩人とは言語の巨人になることです。

 


 子どもたちが小さかったころ、上の子が7歳くらいで下の子が保育園へ行っていたころ、とにかくこの二人を早く寝かしつけないと自分の勉強どころではなくて、空想御伽噺を作っては寝かしつけた。タイトルは「カボチャンの大冒険」。スイカなのだけれど、名前はカボチャンで、宇宙で生まれたカボチャンが何故か日本の山の谷から転がり落ちてきてさまざまな地球的経験をして宇宙へ帰るというお話。子どもたちには結構受けて、話しているうちに自分も一緒に寝てしまうこともしばしばだった。

 言葉のセンスというものが、どのように作られるかは、幼児教育に多いに係ってくるものです。朝はこの二人にご飯を食べさせながら、「じゃ、お母さんはお仕事に行ってきますからね。」だった。そんなで、二人は、これから地球における「カボチャンの大冒険」が始まるのだ。 

 さて、「詩人」とはどういう人をいうのでしょう。
そして「詩」とはどういうものでしょうか。言語活動とはどのようなことをいうのでしょうか。どのような言語を選び取って社会活動をしていくか、どのような色彩言語を身に纏って自分をデザインしていくか、言語の輪郭とは人間の衷なる輪郭にほかならない。言語の外に立って言語の内を覗くとは、言語の無意識を意識に反転させることで、この現代の社会環境の社会言語の背景を表層の実相を纏いながら、深層のペルソナとどのようにレンジさせていくか。その言語の力を技として身につけたものが「詩人」と呼ばれるものに成っていくのだろう。詩人とは、言語の巨人になることだ。と、思うのです。自分ではとうていなれない大きな虚像を言っておきましょう。

2021年2月9日火曜日

2016年11月「詩素」1号(創刊号)より転載 三冊の詩集書評 小島きみ子

 








集評             小島きみ子

 

(1)現代詩文庫223『水田宗子詩集』(思潮社)

水田宗子さんを始めて知ったのは『エドガー・アラン・ポオの世界 罪と夢(1982年/南雲堂)』を読んでだった。この本を契機にポオの探求をして、エッセイを書いたことを懐かしく思う。その次に読んだのは、『鏡の中の錯乱 シルヴィア・プラス詩選・水田宗子訳(1981年/静地社)』だった。

現代詩文庫223『水田宗子詩集』所収の作品「女の欲望」の中に〈女は成熟した舌である〉というフレーズがある。〈舌〉とは「言語」の意味であろう。この一行においても、表現者の創造世界を窺い知ることができる。「女の欲望」は、作品創造の(他者)である(幻想の母)を越えていると思う。男性の言説ではなく女性の言説の始まりがある。

詩集の表紙に始まって、表紙裏から扉にかけての詩の強さは、命の力強さであって、「生む」ということや「有る」ということを、自我を確立し解明していくフェミニズム文学批評者の姿勢がある。人間の存在を考えるとき、命が「有る」という方向から考えると、生まれたものが有るのだし、生きて成っていくのだし、それだけで「有る」ということは充ちている。

 

小枝のように真っすぐで細い/太古のペニスが/想像の小窗を貫くとき/両翼を押し当てて/かがみこんだわたしの脳裡から/何滴の血が/底無しの大地へ滴り落ちたであろうか/やがて季節が変わり/嘴も神話も生まぬ/わたしの暗闇のなかへ/雄鶏の叫びの記憶にかわる/何をむかえ入れるのだろうか

 

後半に評論があり、「山姥の夢 序論として」と、作品論・詩人論に「対話 やわらかいフェミニズムへ」で大庭みな子氏との対論があって、水田さんはアメリカ文学が好きになったのは「フォークナーからだった」と述べている。近代文学における、作家の自我について、水田さんが述べていることはとても興味深いし、シャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』の批評も興味深かった。

 

(2)現代詩文庫230『広瀬大志 詩集』(思潮社)

広瀬大志さんに、2016724のエウメニデス朗読座談会で、連載のミステリ作品の背景を語っていただいた。父上が亡くなったとき、初めてその書斎に入って鉱物の蒐集品を知ったという。なんだかゾクッとした。ミステリとは、知らない領地に足を踏み込む事です。そのミステリの世界に棲んでいる複雑な恐怖の実体は、肉体の外にあるのです。詩集の帯に書かれた〈詩のモダンホラー〉を探索してみたいと思います。表紙には、「死んでるのか? 」「それ以上よ」とあり、現代という時代の極悪非情そのままにカッコよすぎる。

.作品「メルトダウン紀」の一行目に〈体質は肉体の外にある〉とあります。強い断定の一行目。さらに〈風景は必ず/詩に忘却される思考を/たどって死ぬ〉と。これは長い詩ですが、詩行をたどると、おそらく〈結果の原因は/過去にはない〉のであって、〈たどって死ぬ〉しかありません。強い死が迫ってくるのです。「メルトダウン紀」の恐怖に耐えられますか? この詩は、2011311以前の2003年に発行された詩集『髑髏譜』に所収されているのです。

「実体」では、〈ただ現象だけが救済されていくだろう〉と一行目から、どうだ、これでもかと情け容赦なく、恐怖に追い込んでいく言葉の速さ。〈精神よ、空爆は人を殺す〉人間は情けない弱いものですから、「参りました」と言いたくなってしまうところですが、〈生きて行く者と死に行く者の表情を輝かせよ。/記憶は実体を観測する装置であり、それを見つけるこ/とができる。/言葉の図形は、此岸にとどまり続けるだろう。/「私という」実体のために〉この詩句には非情な現代においてなお、強靭な生きることへの意思の喚起があります。死んでいる以上にしたたかに、「アニーバーサリー」では、〈善か悪かは悪が決める〉のです。なぜならニーチェが「ツァラトゥストラ」で述べているように《最高の悪は最高の善の一端である》であるからです。

最後に、コクゾウムシの歴史を研究し探求した散文『ぬきてらしる』は傑作だと思う。人間という種族の精神に飛び移った〈ぬきてらしる〉の内的環境世界が、広瀬大志という詩人の口を借りて述べられたのです。


(3)坂多瑩子詩集『こんなもん』(生き事書店)

 

坂多瑩子さんの『こんなもん』は、非日常が表紙画より始まります。ペーパーバックスの装幀は高橋千尋さん。表と裏に絵があります。小豆色の地色に白抜きの絵が描かれています。布に『こんなもん』とタイトルを持った手。上半身が消えていて、胴から下の裸体のお腹の中から十二匹の魚の頭が飛び出ています。左隅には、蛙に変身したオカッパ頭の女性。この蛙のことは、詩集の最後から二番目の作品「従姉」に、変身のなりゆきが書かれています。裏にも別の作品と重なる絵があります。

 

表の絵と作品について述べます。従姉は頭がよくて、かわいいと近所のじいさんばあさんに言われていたが、ほんとうはそうじゃない。ということで、卵アレルギーの〈あたし〉は卵を食べたら、足にぶつぶつができはじめて、〈あたしはどんどん醜くなって/蛙みたいといわれて/蛙になった少女に/ごきげんよう/そういって/従姉は/かわいいまんま/野原のむこうを/ひかりのように飛んでいる/ごきげんよう/ごきげんよう〉は、従姉へのジェラシーかとも思われますが、ユーモアでかわします。でもブラックですね。年上の従姉はすでにあちらの世界へ飛び立ったのですね。〈ひかりのように飛んでいる/ごきげんよう/ごきげんよう〉と。〈あたし〉は、表紙画の隅でカエルに変身して『こんなもん』を造りましたよ。という声が聴こえてきます。

 

二十六篇の作品群は軽妙な言葉使いで〈あたし〉によって語られます。言葉の連結にスピード感があり、造本とともに、とても個性的な詩集です。

 

 

 

 


2021年1月6日水曜日

詩 ひそやかな星のように

 2011年に詩集を発行した翌年に発行された、鈴木ユリイカさん責任編集の雑誌です。2021年1月6日に、201316日のFB.記事の1つとして「思い出」が送信されてきたので、ブログに作品を公開します。雑誌は、バックナンバーがあればアマゾンで購入できます。

鈴木ユリイカさんが詩誌『somethinng16』http://www.kankanbou.com/books/poetry/something/something16
の「
something blue 」で小島きみ子の作品「ひそやかな星のように」について「いのちは星のように」という文章を書いてくださいました。手にとっていただける機会がありましたら、読んでいただけると嬉しいです。






*「ひそやかな星のように」

いつの間にか雨が止んで、灰色の岸辺では、春の初めに咲く花の木がそよぎ始めた。その蕾は次第に膨らんで、ひそやかな星のようだった。冬を連れ去っていく風の音を聞きながら、枯れ草の上を歩く時、白い雲に流された影を、私は、鳥が獲物を追う目になって、影のなかを見つめる。私たちは、見えるような愛を求めていたのか。空は、泣きじゃくる子の波打つ髪の毛のように揺れていた。

ふと、懐かしくて、影のなかに向かってなまえを呼ぶとき、きっと言うのだ。それも明るいきっぱりとした声で。(僕)はあなたの思う通りにはならない。(僕)は(僕)を守るよ。それでも、どうか元気でいてください。(僕のmama)と。私は、再び影のなかの、草の種のような、小鳥の目になって言うのだ。私の母へ。(mama私は、あなたの思う通りにはならない。それでもどうか元気でいてください)

かつての私たちが暮らした、キッズクラブのその家では、放課後の子どもたちが、ボランティアの青年と遊んでいた。黒い髪の少年たちのなかに、ブラウンの髪の少年が混ざっていて、彼は誰よりも速く野芝の上を、カラマツの木々の間を、走り抜けて行くのだった。その枯芝のなかに、小さな札と囲いがあった。「花の種が(芽)を出します。踏まないでください」私の影の上に重なる芽の、青い影を踏んだのはだれ。

森の小道を、別れてゆく人と散歩する。まだ花の咲かない桜の樹皮は、夕べの雨で濡れて、新しく生まれてきた子どものように、光った息をしていた。私たちは、樹にもたれて、苦しめられた仕事のいろいろなことを思い出す。あなたは、また再び言ったのだ。きっと戻ってくる、また一緒にやろうって。その時、つややかに光る木の枝を折るように、白い雲の間を渡って行ったのは小さな獣、それとも辛夷のはなびらだったのか。

2021年1月5日火曜日

松尾真由美 エッセイ| 詩と花が溶け合う場として|エウメニデス52号

 

詩誌「EumenidesⅢ」52号より|
松尾真由美さん寄稿のエッセイ。全文。20167月は、佐久市の古民家「花桃果」で、小島きみ子の個展「エデンの東」と朗読会。場所を移動して、午後から佐久平交流センターで再び朗読会と座談会。充実の1日でした。松尾真由美さんには、ピアノ演奏と詩の朗読。ありがとうございました。



松尾真由美 エッセイ| 詩と花が溶け合う場として

                              

 夏の盛りの七月二四日に長野県佐久平に行く。高原の風はたしかに涼やかで、晴れてはいても爽やかな空気が心地よく、避暑に来たようにも思えました。向かった先は古民家カフェ・ギャラリー「花桃果」。小島きみ子さんのフラワーアート「エデンの東」展が開催中。今回はエウメニデス五十号記念として執筆者たちが集まり、朗読なども行いましたが、私はフラワーアート展のことをご報告いたします。「花桃果」は古民家を改装しただけあって、高い天井や幅広い廊下、畳敷きの和室、カフェルームも古い簞笥やピアノがゆったりと置かれていて、建物の中では静かな時間が流れているようでした。


 その和室の一室でのフラワーアート展は独特な空間を作っていました。ドライフラワーが作品となって和室に飾られてあることがすでに私の目には特異なものとして映ったのです。異語と異語をつなげるような・・・・・・。詩の感覚です。そして、詩人のフラワーアートには詩の言葉が添えられています。あの和室には詩がたくさん詰めこまれていたということを改めて実感いたしますが、そこで、小島さんの花についてのお話から、手作りのドライフラワーは花びらを毎日裏返したり、木の実のひとつひとつを洗って干したりと、とても丹念で繊細な作業が必要であることを聞いて驚きました。飜って考えれば、小島きみ子という詩人は他者の詩の言葉に対しても同様で、時間をかけて丹念に向き合います。フラワーアートは花という素材を扱った作品ですが、詩の評論も詩の言葉という素材を扱った作品といえます。ドライフラワーには香りもある(蕾は香らないので作らないそうです)。そんなところにもこだわりを感じて、詩人小島きみ子の本質にある美学を思ったりいたしました。手を抜かずに向き合うことで花も詩ももっと美しくなる、そんな夢を見てもいいのかもしれません。





小島きみ子フラワーアート作品 エデンの東



小島きみ子フラワーアート作品 春のヴィーナス