2021年2月9日火曜日

2016年11月「詩素」1号(創刊号)より転載 三冊の詩集書評 小島きみ子

 








集評             小島きみ子

 

(1)現代詩文庫223『水田宗子詩集』(思潮社)

水田宗子さんを始めて知ったのは『エドガー・アラン・ポオの世界 罪と夢(1982年/南雲堂)』を読んでだった。この本を契機にポオの探求をして、エッセイを書いたことを懐かしく思う。その次に読んだのは、『鏡の中の錯乱 シルヴィア・プラス詩選・水田宗子訳(1981年/静地社)』だった。

現代詩文庫223『水田宗子詩集』所収の作品「女の欲望」の中に〈女は成熟した舌である〉というフレーズがある。〈舌〉とは「言語」の意味であろう。この一行においても、表現者の創造世界を窺い知ることができる。「女の欲望」は、作品創造の(他者)である(幻想の母)を越えていると思う。男性の言説ではなく女性の言説の始まりがある。

詩集の表紙に始まって、表紙裏から扉にかけての詩の強さは、命の力強さであって、「生む」ということや「有る」ということを、自我を確立し解明していくフェミニズム文学批評者の姿勢がある。人間の存在を考えるとき、命が「有る」という方向から考えると、生まれたものが有るのだし、生きて成っていくのだし、それだけで「有る」ということは充ちている。

 

小枝のように真っすぐで細い/太古のペニスが/想像の小窗を貫くとき/両翼を押し当てて/かがみこんだわたしの脳裡から/何滴の血が/底無しの大地へ滴り落ちたであろうか/やがて季節が変わり/嘴も神話も生まぬ/わたしの暗闇のなかへ/雄鶏の叫びの記憶にかわる/何をむかえ入れるのだろうか

 

後半に評論があり、「山姥の夢 序論として」と、作品論・詩人論に「対話 やわらかいフェミニズムへ」で大庭みな子氏との対論があって、水田さんはアメリカ文学が好きになったのは「フォークナーからだった」と述べている。近代文学における、作家の自我について、水田さんが述べていることはとても興味深いし、シャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』の批評も興味深かった。

 

(2)現代詩文庫230『広瀬大志 詩集』(思潮社)

広瀬大志さんに、2016724のエウメニデス朗読座談会で、連載のミステリ作品の背景を語っていただいた。父上が亡くなったとき、初めてその書斎に入って鉱物の蒐集品を知ったという。なんだかゾクッとした。ミステリとは、知らない領地に足を踏み込む事です。そのミステリの世界に棲んでいる複雑な恐怖の実体は、肉体の外にあるのです。詩集の帯に書かれた〈詩のモダンホラー〉を探索してみたいと思います。表紙には、「死んでるのか? 」「それ以上よ」とあり、現代という時代の極悪非情そのままにカッコよすぎる。

.作品「メルトダウン紀」の一行目に〈体質は肉体の外にある〉とあります。強い断定の一行目。さらに〈風景は必ず/詩に忘却される思考を/たどって死ぬ〉と。これは長い詩ですが、詩行をたどると、おそらく〈結果の原因は/過去にはない〉のであって、〈たどって死ぬ〉しかありません。強い死が迫ってくるのです。「メルトダウン紀」の恐怖に耐えられますか? この詩は、2011311以前の2003年に発行された詩集『髑髏譜』に所収されているのです。

「実体」では、〈ただ現象だけが救済されていくだろう〉と一行目から、どうだ、これでもかと情け容赦なく、恐怖に追い込んでいく言葉の速さ。〈精神よ、空爆は人を殺す〉人間は情けない弱いものですから、「参りました」と言いたくなってしまうところですが、〈生きて行く者と死に行く者の表情を輝かせよ。/記憶は実体を観測する装置であり、それを見つけるこ/とができる。/言葉の図形は、此岸にとどまり続けるだろう。/「私という」実体のために〉この詩句には非情な現代においてなお、強靭な生きることへの意思の喚起があります。死んでいる以上にしたたかに、「アニーバーサリー」では、〈善か悪かは悪が決める〉のです。なぜならニーチェが「ツァラトゥストラ」で述べているように《最高の悪は最高の善の一端である》であるからです。

最後に、コクゾウムシの歴史を研究し探求した散文『ぬきてらしる』は傑作だと思う。人間という種族の精神に飛び移った〈ぬきてらしる〉の内的環境世界が、広瀬大志という詩人の口を借りて述べられたのです。


(3)坂多瑩子詩集『こんなもん』(生き事書店)

 

坂多瑩子さんの『こんなもん』は、非日常が表紙画より始まります。ペーパーバックスの装幀は高橋千尋さん。表と裏に絵があります。小豆色の地色に白抜きの絵が描かれています。布に『こんなもん』とタイトルを持った手。上半身が消えていて、胴から下の裸体のお腹の中から十二匹の魚の頭が飛び出ています。左隅には、蛙に変身したオカッパ頭の女性。この蛙のことは、詩集の最後から二番目の作品「従姉」に、変身のなりゆきが書かれています。裏にも別の作品と重なる絵があります。

 

表の絵と作品について述べます。従姉は頭がよくて、かわいいと近所のじいさんばあさんに言われていたが、ほんとうはそうじゃない。ということで、卵アレルギーの〈あたし〉は卵を食べたら、足にぶつぶつができはじめて、〈あたしはどんどん醜くなって/蛙みたいといわれて/蛙になった少女に/ごきげんよう/そういって/従姉は/かわいいまんま/野原のむこうを/ひかりのように飛んでいる/ごきげんよう/ごきげんよう〉は、従姉へのジェラシーかとも思われますが、ユーモアでかわします。でもブラックですね。年上の従姉はすでにあちらの世界へ飛び立ったのですね。〈ひかりのように飛んでいる/ごきげんよう/ごきげんよう〉と。〈あたし〉は、表紙画の隅でカエルに変身して『こんなもん』を造りましたよ。という声が聴こえてきます。

 

二十六篇の作品群は軽妙な言葉使いで〈あたし〉によって語られます。言葉の連結にスピード感があり、造本とともに、とても個性的な詩集です。