2016年11月29日火曜日

美しいということが、

作品には著作権があります。



美しいということが、
そこにとどまっている何かではなくて、もう終わってしまったものを、もう一度同じようにではなくて、まったく違う形で、わたしの思いが結晶したものとして、あらたに其処に存在させること。わたしの花は、フラワーアートになるために種を蒔かれ、育てられ、摘まれて、乾燥して、フラワーアートに生まれ変ります。花は自然のなかで生まれましたが、私の部屋で作られた花は、「花物語の花」です。




























「蝶番」






















2016年11月10日木曜日

カニエ・ナハ詩集『馬引く男』






  扉に、萩原朔太郎の「猫の死骸」からの引用テキストの捩りとして「あなた いつも遅いのね」と。
「猫の死骸」の副題は〈ula と呼べる女に〉で、〈「あなた いつも遲いのねえ。」/ぼくらは過去もない 未來もない/さうして現實のものから消えてしまつた…………/浦!/このへんてこに見える景色のなかへ/泥猫の死骸を埋めておやりよ。〉とつづくのである。

 朔太郎の「猫の死骸」からの浦の言葉を捩ったのは何故か。ここで特に気をつけて記憶に留めておきたいのは〈ぼくらは過去もない 未來もない/さうして現實のものから消えてしまつた…………〉という現実を超えてゆく現実が強化された超現実だろう。



 詩集は、第一部と第二部に分かれていて、タイトルが奥付の手前のページにほんの小さなメモのようにある。作品本文は、右頁が余白で左頁も二行から始まる。その本文の二行が、もしかしてタイトル?と思わせるように。第一部は「馬」という作品と「島」という作品がほぼ交互に配置されていて、「馬」を引く男の馬は〈我=self〉であるだろう。一部の最後の作品は「浦」で、当然それは朔太郎での浦の言葉〈「あなた いつも遲いのねえ。」〉で、始まるのだ。〈我〉を引く私にとっての「浦」とは、いかなる存在であろうか。 


  自己のなかに〈馬〉という自我が存在する。扉詩の「馬」は、寂しくて悲しくて、人の世の終わりはこのようにやってくるのだと、疑似体験するがいいだろう。
 何度も何度も自己の内部の〈我〉を引いて、〈馬〉を鎮めて生きていくのだ。すでに死んでいる死後の世界が再び開かれて、止まった心臓をゆるやかに動かす動作が展開される。詩を書くという行為によって、作品を持って現実世界を〈問う〉のだと思う。それでいい。死後の世界とは、作品では「島」だと思う。「島」という作品も四篇ある。一部での最後の八十九頁に配置されている「島」を引用する。地球防衛軍のような印象を持つが、〈加害の歴史について/(省略)/今から、そこへ向かう〉とは、決然とした意志です。
〈皮膚を外れた私〉とは、〈馬=我〉の外部の自己の現実へ向かうのであろうと推測する。


〈皮膚を外れた私が/剥がれた/残りの裾をつかむ/持ち上げられた、手の/感覚は今でも残っていて/5月に入隊した、/子供たちは折り畳まれて/服は、染み付いた/それらを思い出し、/しばらくの間、/ただそれだけの皮膚、/炎で白く、/非常に多くの/失われたことを不思議に思い/8月には、/発熱し、満たされない影を/持って、忘れていた/最も古い地獄へと/加害の歴史について/耳があっても、話に行くために/目が見えても、/誰かに聞くために/今から、そこへ向かう〉

手強い詩集でした。なぜなら、初めから終わりまで、いま見えている世界を超えて行こうとする、この現実を強化するための言葉で書かれた、どこを切り取っても核心であったからです。