2014年12月1日月曜日

平林敏彦詩集『ツィゴイネルワイゼンの水邊』(思潮社)について

★書評
詩集『ツィゴイネルワイゼンの水邊』(思潮社)について
                    小島きみ子

 九十歳になる著者の新詩集。あとがきの一行目に「歳をとらねば若くはなれない」というピカソの言葉を引いてくるあたりが、平林敏彦の老いが成熟した「若さ」がある。みずみずしい詩への挑戦と意欲が窺える。平林敏彦の詩活動については、三浦雅士の栞文が詳しく述べている。今回所収の詩篇で、「冥い海」に「兵」が登場するのは、二十一歳のときに兵士だったそのときの感情と記憶が、現在も存在しているということである。どんな戦争も人殺しの戦争は、人間の魂を破壊する。戦後から一筋に、作品において「兵士」を追及するのは、人間と戦争が戦後から現在に至るまで、詩のテーマの核に存在するからだ。
 以前、私の散文への感想として、「メランコリーは詩のテーマ」という意味の手紙を頂戴したことがある。暗鬱(メランコリア)とは十九世紀ヨーロッパの芸術の主題だったと思う。現在の日本を覆っているものも、この黒い胆汁の暗鬱の空気である。それ故にそれぞれが「詩とはなにか」を問うことから再び書きはじめていくのが、詩人たちの課題であるかもしれない。

「いったい/詩とは何なのか/人目をしのび/あたかも罪でも犯すように/書かねばならぬ その危うさ/あるいは意味不明としか言いようのない事を/書いては消し やぶりすて/名聞名利とはるかに遠く離れた寒い場所で/死に至るまで「幸福」より」
平林敏彦の境地に達してもなお、「いったい/詩とは何なのか」と問わせる、「詩」というものの広大な時間と空間が、存在するということ。その前で、平林敏彦は「詩という儚いもの」を武器のように携えて、人間の愚かさ故に、終わらない戦争と戦ってきた一人の二十一歳の「兵士」のままの心であり続けている。「兵士」とは「詩人」であることを決意したものであるからだ。










★平林敏彦・出版記念会のこと

 2014年11月3日(祝日)に、横浜市在住の詩人・平林敏彦氏の新・詩集『ツィゴイネルワイゼンの水邊』の出版記念会が、「アルカデイア市ヶ谷私学会館」でありました。
 平林さんは、長野県松本市に10年間、横浜市から移住されて、青猫座という座長として出版活動や、朗読、地元テレビなどにも出演されて、地元の詩人たちと交流をされました。
 この会では、逢いたいと思っていた人々に逢えて楽しい会でした。


 新・詩集のことは栞の三浦雅士氏の文章に「憂愁」という言葉が使われている。日本文学の歴史に根ざしたものということです。萩原朔太郎がフランス詩の影響を受けて発見した「憂鬱」とは区別されるべき「憂愁」への言及は思いがけずに新しい。横浜育ちのお洒落で都会的なセンスが光る平林敏彦の詩篇において、しかも90歳での新・詩集で「憂愁」が戦後詩の系譜ではなくて、日本古来の「愁い」に根ざした「死への想い」である。というところへは、老いてますます若い平林敏彦ならではの境地であろう。現代詩の歴史のなかで、三浦雅士の平林敏彦への「憂愁の詩人」という賛辞はとても新鮮に思う。








 以下は、「ツィゴイネルワイゼン」の素晴らしいバイオリン演奏と、それに聴き入る平林敏彦氏。















挨拶する平林敏彦氏。








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