2016年3月7日月曜日

小島きみ子第1詩集『Dying Summer』






小島きみ子第1詩集『Dying Summer』所収

冬の図書館で
 
あなたの「故郷」はどこですか?   えっ? あなたの「故郷」です。 この街ですけれど。 そんなはずはない。あなたは、ぜったいに私と同じ「故郷」の人だと思っていたのに。 どうしてそんなふうに思ったのですか? この冬の間、あなたは土曜日の午後と、日曜日の朝に、この図書館にやって来て、『普遍的無意識論』と『メタモルフォーゼ論』を読んでいた。 どうしてそんなことを知っているのですか? あなたをずっと見ていたからです。そして、それは私が書いた本なのです。私は私が書いた本をこの図書館へ寄贈したのです。ですが、この五年間、一人も読んでくれなかった。それらの本はH大で教えていたころに書いたのです。だから、私はあなたが『H』から来た人だと確信して、いつかあなたと話をしたいと、あなたが来るのをずっと待っていたんです。そして今日、あなたは私の机にやって来た。


老人は、「記憶」について語った。遠い北国の「故郷」について。そして何故、この街に住むようになったかについて。わたしを待っていた本当の理由について。
あなたは、現在の現代詩を美しいと思いますか。私は、とてもじゃないが読めない。美しい「故郷」が見えない詩なんて詩じゃないですよ。現実の世界で絶望しているのに、詩を読んで再び絶望させられるのが、現代詩ですよ。あなたはどう思うのですか?私は先月、新しい本を出しました。それを『H』に住む友人に送ろうと思って手紙を書いたのですが、どうしても思い出せない事柄があるのです。毎日、ここへ来て調べているのですが、見つからないのです。あの詩の一行が誰の言葉であるのか。あなたなら知っている、そう思ってずっと待っていたんです。あなたを。


「故郷」は傷心を癒してくれるものだと思いますが、それは果たして『美』と呼んでいいものなのでしょうか。あなたが美しいと思うものを、私が美しいとは思わないことはいくつもあるはずです。あなたのように分別のある方なら、そのような簡単な事柄は、すでにお分かりのはずでしょう。 あなたには、「故郷」が無いからそんな風に言うのです。「故郷」と郷土は違うのです。現在の居場所は「故郷」ではないのです。失われた居場所、生まれた土地で死ねない、その切なさが「故郷」なのです。私の命を両手で包んでくれる仄かなあたたかい、雪解けの小川の水の音。あの音こそが「故郷」の「記憶」なのです。
ああ、わかりましたよ。わたしも知っていますよ。人生は坂道を登る靴底の石ころのようなものだ、だったかな。サン= テグジュペリの本のなかへ「シオカラトンボ」を閉じ込めたのはあなただったのですね。ほら、ここにある。 トンボのシッポのページにね。あなたの名前が、書いてあるでしょう。『存在は裸形をおそれ、記憶の幻影を創作することを要求する』(・・・・) *って。




 
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註記 *「存在は裸形をおそれて、幻影をまとうのだ」(市川浩・「精神 としての身体」の扉の言葉) *「存在とは、われわれが経験しようとすれば、「創作する」こと を要求する。」(メルロ= ポンティ) *「精神の身体は、さまざまな『思い出』とか、獲得した観念とか 名前とか『期待』といったものの広さないし量である。おおざっ ぱにいえば、この身体は「記憶」=「期待」のシステムによって かたちづくられている。」(ヴァレリーの「精神の身体」に見ら れる言葉) *「精神の完成は精神が何であるかを、つまり精神の実体を完全に 知ることであるから、この知は精神が自分のなかに行くことであ り、そのとき精神は自らの定住をすて自らの精神を『思い出』に 委ねるのである。」(ヘーゲル「精神現象学」の「絶対知」の章) 
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 冬の図書館で、M市が「故郷」であるという老紳士に出会った。私を「詩歌」の書架の前に連れて行き、詩集を開いては、次々と質問を重ねた。彼は、寒冷なT地方を訪れた「漂白」の詩人に興味を持っていたが、私は興味がなかった。また、「美」という指向対象についても、対象に同化できなければ、その物の本質はわからない。死んでいるものにだって美しい瞬間がある。  S図書館のサン= テグジュペリの「母への手紙」のあるページには、シオカラトンボが閉じ込められている。トンボは腐敗しているが、とても美しい想像を駆り立てられる。発見してから七年経つが、トンボは未だに本のなかに存在している。『存在とは、記憶の幻影を創作することを好む』のだ。







しまわれた、愛


不思議ね  いつもそうなのだけれど 薔薇はお気に入りのものの中にいる  写真の背景 スカーフやハンカチ イヤリングやブローチ 初めて自分でオーダーしたワンピースの柄  子どもの入学祝いにも薔薇を植えた  その薔薇で作ったポプリがわたしを深く眠らせる  深く深く心の深奥へと

会えたよろこび  幼い日のわたしたち  どうして夢でしか会えないのか  あなたは空気のように私をつつんでいる  掌だと思うのだけれど  暖かい掌がわたしの心をつつんでいる  薔薇の香りがする  わたしが育った家の庭に咲いていたピンクの薔薇  あの花の香りだと思う あの薔薇はどこへしまわれたのだろう  どこにもない  白百合も蘭も  れんげつつじも
 

どこへしまわれたのだろう  あなたも どこへしまわれたのだろう どこにもいない
不思議ね  わたしの子どもと あなたは おない年になってしまった  その時も今も 同じようにあなたはわたしの心をつつんでいる  あなたは 幼いまま 空気のようなあなたでいる  どこかへしまわれてしまったあなたの顔を見ようと  掌の 気配のする場所を 尋ねて行く


その記憶の最後に 辿り着く場所には 小川の 忘れな草の 上を水色の ゼフィルスが飛んでいる わたしは 幼い 心のままに そこにいる  わたしは そこにいる自分が  誰なのかも 知っている どうしてそこにいるのかも知っている  とても 暖かくて 幸せで わたしは 満足している  しまわれてしまったものが そこにはあるからだ



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