2017年1月8日日曜日

2016年12月~2017年1月に読んだ詩集・詩誌

★紹介はセレクトしております。ご了解ください。よろしくお願いします。









★「
hotel 第2章no.39」特集は、樹木・植物考。海埜今日子さんの作品「ヘビイチゴ」は、五連三十行の構成。その第一連に、「パパはもう死にたいよ、父がやさしく、わたしにつぶやいたから、ヘビイチゴを差し出す。かなしげに父はわらっている。どちらも、誰も、食べるつもりはなかったのだ。」父に差し出した毒苺の、娘と父の関係の甘く残酷なことよ。この世界は、だいたいが、気づかぬ毒を知ったとき、一人前の人間になっているものです。作品は、ヘビイチゴが、密集していた場所にまつわる記憶を順に探っていき、最終連では「写真が一枚もない。亡くなった父に会いたければ、鏡を見ればいい。しずかにわたしは、野原のようにわらうだろう。」と、終わるのです。この「ヘビイチゴ」の記憶のなかに、娘は父という〈他者〉を乗り越えて、私という〈自己〉に辿りついている。女性詩人が、男性の言説ではなく、自分自身の言葉と感覚で到達していく、〈他者〉の獲得とは、発話する〈主体〉の獲得でもあるのです。海埜今日子の作品の魅力です。

★神原芳之詩集『青山記』(本多企画)|この詩集は一九三一年東京生まれの著者初めての詩集。人生に遅いということはありません。自分の書いてきたことを振り返るのは、新しい境地を切り開くことであると思う。(本多企画)の詩集は、久し振りに読むのですが、落ち着いた造本です。それで、作品ですが、「少年の戦死」という戦時中の作品もありますが、「終末の景色」など、現在の自身の肉体の衰えを題材にしたものが幾つかあります。それらは、客観的でユーモアも感じる。実は、戦時中のことも客観的で、批判や動揺がない。現実と距離を置いて物事を観察するという、孤独な習慣が見についてしまったのかなという印象を持ちました。

★ツイッターのフォロワーである相澤歩(写真集:手作り本)さんの『眠る前になでる本(光に透ける魔法付き)』は、写真と言葉が、一枚づづのハトロン紙に印刷されて、二枚あわさると透けていたもの同志が重なりあう。写真の花たちがfantasyの世界へ誘う。繊細で、ゆるぎない探求の眼差しがあります。写真のなかで一番好きなページは薔薇のページです。夕暮れの闇のなかで、花はいっそう花びらの陰を美しく纏うのです。言葉が人に力を与えるのは、美しい感情に触れて、美しいということの意味を知ること、相澤さんの世界は知と愛に溢れています。薔薇の記憶が呼び冷まされます。私が、勤めを終えて、夕闇のころに帰宅すると、庭の薔薇が咲いている、そのことがどんなに私を励ましてくれたかしれません。花は環境が整うと咲く。より美しくたくさん咲かせるには、花の美しさがどういうものかを知っていないと、花をそれ以上の高みに育てることはできない。そして、彼女のいちばん美しいときを撮影することはできないと思うのです。

★広島県呉市在住の詩人・川野圭子さんの「グリフォン」三十九号が年末に届きました。定型封筒に二つ折り両面印刷の同人誌第39号。巻頭詩・川野圭子さんの「ハーメルンの笛吹き男」考。思考停止している日本の現在の社会状況が、批評されている。そして、詩とは別に挟まれていた彼女からのメッセージをシッカリ受け止めたいと思う。〈さりとて沈黙は愚を認めたことになる〉は、誌詩を編集発行する者の1人として、詩人として、詩の心を深めていきたい。

★「something24」(書肆侃侃房)。総勢二十九人の女性詩人が参加しています。松尾真由美作品「変動、氾濫、捨て去ることの」は、集中力を感じました。各連九行の百十七行十三連の迫力。十一連めの九行は、非常に躍動感があって好きです。「しれっとれれっとひぇっとよびびっとぐぐっとでれっとよ」で始まる、緊張をほどいたしなやかな、足取りで最終連の最終行「ながされた作物を取りもどす術はなくなにもかも腐っていき容赦ない純化だね捨てるものができること」で終わる。今までとは、雰囲気も対象も違うのですが、「変動、氾濫、捨て去ることの」の顛末をリズミカルに表現しています。松尾さんは、行が整っている行分け長篇詩です。長篇詩は、構成力と文体が整っていないと書く自分も息切れするし、読む側もついていけない。ついでに述べますと、散文詩はダラダラ書く詩ではありません。読ませるには、ぐいぐい引き込んでいく迫力が必要。迫力とは、しつこく述べますが、文体と構成です。私は、文体と構成を、長篇詩及び散文詩のコンポジションと考えています。松尾さんの散文、「鳥に寄せて」はブラックの鳥の画集について述べています。私も、持っています。そうか、なるほど、と納得。私も、鳥の詩を書くために購入したのでした。

★「ACT 仙台演劇研究会通信」Vol.413 201612月号。綴じられていない両面印刷の10Pの折込紙のような通信。2014年のどこかの月から送られてくるようになった。発行者の丹野文夫さんという詩人を私は知らない。そして仙台演劇研究会も知らない。が、この通信は毎月発行していることと、ビデオギャラリー、ミュージック・プロムナード、月評という詩誌論説まで、豊かな執筆者を集合させていることが凄いなと思っている。十二月号は、巻頭詩が良い。いままで、読んできたなかで、今号の巻頭詩が、私の好みとして、印象に残るものだった。田中眞人さんの「あなたの声をさがし」から全行。〈あなたの声をさがし。/モクマオウの枝ぶりが深い海の底でゆれている。/夢は。/血を流し。/南の島を沈めた。Patience.パシャーンス。/苦しげに狂おしげに流れて巻くブルーの襞にうすずむ。/血をみながら海の懸崖を降りていく。/日々のノイズに被曝した眠りの耳穴を焦がしてくるので。/南の島へ逃れようとしたのだが。/眠りの海溝重たく。/マリンスノ―の紅い血がモクマオウの枝ぶりに降りつのって。/あなたの声が。/深い海の底からくちなわのように動きはじめた。/海の底は盛りあがって。/おおぅぅぅるぅう。青の魂が。/あなたの声が。噴き出してきて。〉

★海東セラの個人誌「ピエ」Vol.17.は、櫻井良子、松尾真由美、たなかあきみつをゲストに迎えての、散文詩的傾向の詩群の誌面構成となっている。挿画は本田征爾さん。北海道在住の海東セラ、櫻井良子、元北海道民の松尾真由美と、画家も北海道民と、北海道の力が集合している今号。たなかあきみつさんは、長く写真撮影に訪れているということ。個人誌が一人で詩を書くのではなくて、詩編も挿画もゲストを招くとき、誌面はそれを編集発行するものの「詩への意志」がより明晰になると思う。かつて、詩誌「エウメニデス」が個人誌であったきもそうだった。とても贅沢で豪華な雑誌になっている。頑張っているな、と思う。




2017/1月 後半の詩誌



①「ぱぴるす」(ぱぴるす同人会)vol.118|岩井昭詩集『ひるまです』の書評を松尾清明氏が書いている。書評の前文が「現代詩における感動」について述べていて、心を動かされた。詩人が書く詩集評は、詩論が述べれらることだと思う。引用と感想だけの文章は、紹介文であって、書評ではないと思う。私も、使い分けていこうと思った。
岩井昭さんの作品「とかげのかくれんぼ」を引用する。〈いし/くさ/つち/こかげ/ひかげ/とかげ/とけこんでしまって/うごかない/いしになる/くさになる/つちになる/ひるまの/えいえんの/かくれんぼ〉


②「孔雀船」(孔雀船社)vol89|この雑誌は総合詩誌の趣があって、中堅以上の先輩詩人の作品のほかに、小柳玲子さんの「詩人の散歩」は第35回となり、彼女の散文を読むのを楽しみとしています。FB.の友人文屋さんがお送りくださっています。感謝します。文屋順さんの作品は、40P「心の写真」。〈どんなに急いでも/そんなに違うわけでもないから/のんびり各駅停車の電車のように/こつこつと歩いていく/どこまで行っても/きちんとしたゴールが見えてこない/その曖昧さのまま私たちは/途中棄権をするのだが/いかに完全燃焼できるかだ〉

③「Oct」vol.4(カフェ・エクリ オクト)発行人は高谷和幸。編集人は大西隆志ほか|特集『画家の詩、詩人の絵』姫路展 シンポジウム|エッセイ・評論・レポート|特集/舞踏|詩・川柳|104P.
特集『画家の詩、詩人の絵』姫路展 シンポジウムには、エウメニデス同人の京谷裕彰さんも参加しています。図録の表紙画は、青木繁の「眼」(1904年制作)です。青木繁の作品は、なんと長野県東御市梅野記念絵画蔵です。私の暮らす佐久市より1つ向こうの町です。さて。『画家の詩、詩人の絵 絵は詩のごとく、詩は絵のごとく』は、地方巡回展でした。2016年の「エウメニデスⅢ」のテーマは「詩と美術」でした。今後も、詩人と美術家が越境しあう場所になるといいと思っています。2016・6・2にこの企画展を足利美術館で観ることができたのは、とても有意義なことでした。佐久から足利へ新幹線と在来線を使っての小さな旅は、久し振りにくつろいだ時間となったのです。姫路美術館から始まった、地方巡回の企画展のテーマが、詩誌「エウメニデス」の2016年のテーマ「詩と美術」に微妙に触れていたことは、詩と美術にとどまらないで越境していくことになるだろうと思います。それは、どういうことかと言うと、アートを創作する現場では、〈他者〉の存在に気づくからであると思います。内的自己(self)というとわかりやすいかもしれません。無意識に沈められたものを意識に呼び出して表現するとき、ペンを持つ手、絵筆を持つ手、楽器を演奏する手、楽譜を書く手。もろもろの〈手〉は、深層の他者が導く〈手〉という脳の心理ではないかと思います。シュルレアリスムの21世紀は、より広々と深くなっていくのかもしれません。









④「どうるかまら」(発行人。瀬崎祐)倉敷市の詩誌「どぅるかまら」21号。28P.より、瀬崎祐さんの新詩集『片耳の、芒』(思潮社)の書評を書きました。詩集をお読みいただくと同時に雑誌も手にとってお読みいただけると嬉しいです。この詩集は、表紙カバーの写真も瀬崎さんによるもので、チュニジアの(果て)の場所は、行った事もないのに見たことのある風景のような気がする場所でした。引き込まれ、読み解くことは、すでにこの詩の世界の住人でした。瀬崎さんの現代詩を読むことによって、(果てと永遠)の場所に焦がれる(愛)をも探求するきっかけになるでしょう。




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