2013年5月23日木曜日

連詩・六月のまなざし


私のことを、詩人野村喜和夫氏は「高地の詩人」と第3詩集『その人の唇を襲った火は』の跋文で書いてくださいました。第1詩集に、原点があるのですが、1本の木のようで在りたいと思っています。去年美しい樹形の「ヤマボウシ」に出会いました。今年も咲いています。

詩集『Dying  Summer』より。連詩・六月のまなざし
 

 

 

(1)みどりの手

 

六月の
トウカエデの並木を行くと
みどりの手がわたしを連れて行く
彼女たちの葉叢のなかへ

 

わたしに触れる指は最初、彼女たちだった
そして
わたしの指に触れる唇は、彼らになった
無邪気にたわむれていたかと思うと
はげしい息を、肩にふきかけてくる
いくつも、いくつもの唇
鉄琴の音がひびくようにつづく唇のあと

 

ああ、なんてかわいいひとたち
見て
爪がみどりいろになっている
指からみどりの滴がたれて・・・・・
わたしは食べられたのか
わたしが食べてしまったのか
わたしが見えないので
わたしはわたしの影を探す
わたしの(かたち)を知りたいから

 

見えるのは、みどりいろだけ
わたしはみどりいろの声でたずねる
どうしてわたしを連れてきたの
(あなたのいえだから
その声はなつかしい匂いがした
わたしは悲しみと喜びが入りまじって
なつかしい夢をつぎつぎと見る
(わすれないで わすれないで
(あなたは森の子どもだった わすれないで

 

 

(2)木の声

 

わたしが、傷を負った者であるとき。
木は光の手でわたしを取り囲み、
癒しつづける。
樹液を濃くしながら、
森の木は全体で呼吸して命を支えている。

 

つらい出来事も、
わたしを育んでくれた木の下に立てば、
すべては夢であったかと思うように優しく苦く、
新しい光の陰になって過ぎる。

 

森の命は、
この、朽ちた葉の下に積み重ねられた死の上に立ち。
いずれ、この身も森を支える土になる。

 

わたしが辿り着く、時間の重さ。
森の木は、
傷ついて帰って来るもののために、
静かに、光の交信を始めている。

 

(3)魂のうえに降りそそぐもの

 

 詩を書くということはどういうことなのかと、プラタナスの木を見つめながら考えていると、緑の葉の重なりはわたしの疲労や緊張をほぐしながら、ついには「みどりの木になることだ!」とわたしの手を強く握りしめてくる。六月の樹木の緑は<異界>からの呼び声のように美しい。カエデやシラカバ、ポプラ、プラタナスの緑がこんなに深く柔らかく盛り上がった木だとは知らなかった。

 

 木はふしぎな生き物だと感じている。木になった木と、人になった木があるのではないか、と感じている。緑の木を見つめていると癒されて、わたしのなかに木の電流が入ってくるように感じる。それはわたしを存在せしめたもの祖先が地面に還り、木を育ててきたからではないか。人の命も、野生の命も、その命、ひとつだけでは生きてはこれなかった。心があるということ、命があるということを切り離すことはできないように、「存在する」ということは、自分以外の存在と関係しあって生きるということなのだから。

 

 野生に含まれた命が主体であるとき、意識のなかにある自己の主体も、非自己の他者の主体も、孤立してあるのではなく、コミュニケーションによって存在する主体であるはずだ。自己と非自己の環境が身体の表面空間を越えるとき、閃光のようにひとつになるもの、それが詩語の息だろう。コミュニケーションによって生き生きと関係しあう、主体と客体の融合のありようとして、詩はある。

 現在、わたしたちが生きている現代社会は癒されることのない心を見続ける時代なのだろう。偏差値と物質だけに価値があった時代の閉塞感は、少年たちの日本語の語法を人間関係を忌避させながら変質させた。社会的エリートのモラルハザードの現実の中で、間接体験しか持たない言葉は生きる力にはなり得ない。

 

 自己の闇に立ち向かうとき、世界の問いに応答するとき、詩よ、魂のうえに降りそそぐ熱い息となれ。六月の緑よ、わたしの血に深く混ざれ。そして、物語を蘇生させる力となれ。

 

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