2013年7月12日金曜日

ブルーベリーの実が熟すころ






cellの外は、台風の風に煽られた時間が、吹き飛ばされながら、野原の樹木に巻きつこうとしている。 桜の花が咲いて、しだれ柳の芽が吹いて、ヒマワリが太陽の方向をグルグルと回ってゆく。夏の盛りだっただろうか。青いコットンのブラウスを着た女性が小川を飛び越えて、野原のクヌギの木の下へ行こうとしている。あの女性はたぶん、私だったと思う。

         
彼女は昨夜、子どもを産んだばかりで八時間の安静時間が過ぎたので、ゆっくりと素足をベッドの下におろしてみる。ベビーベッドでは、彼女の長男が親指をしゃぶりながら眠っている。壁には祝福の黄色のドライフラワーが飾ってある。東の窓は幸運がやってくる場所だ。

きれいなドライフラワーたち。覚えておくのよ、坊や。あなたはわたしたちの愛だけから生まれたピュアな子ども。あなたの誕生を祝福するためにこの壁は黄色のバラでママが作ったのよ。

彼女は、部屋の中をゆっくりと歩いてこれからの生活に不必要な思い出を忘れてゆく。そのたびにどんどんスリムになって腹部から大腿部にかけての妊娠線の跡さえも消えた。シャワーを浴びながら自分のからだを丁寧に調べる。

どこも傷んでいない?

ええ、だいじょうぶそうよ。うまくいったわ。そうね。うまくやったわね。これからどうする?きまっているわ。子どもを育てるのよ。そう、それがいいわ。私も経験したのよ。子どもを育てるってとてもステキなことだったわ。よろこびと悲しみとスリルに満ちていて。緊張と憂鬱と倦怠と、はげしいフラストレーションの毎日。それは失望と希望の谷と丘を経験することだった。あなたの種子がどんな未来を持って生まれてきたかによって異なるとは思うけれど。多分あなたは、テンションの高い瞬間を経験するわ。そしてそれが何度も繰り返される。生命が危機的状況のとき、私たちは単体で卵を産むことができる。このcellで生まれたこと自体が、すでに、この子の運命を決定的なものにしてはいるけれど。一度、破壊された後の世界に生まれたということは、使命(ミッション)のほうから、この子の人生に問いかけてくるのだから。大丈夫。生きていける。私が守ってあげる。あなたたちを殺して食べようとする動物はここにはいないわ。

彼女はゆっくりとベッドに戻る。

まだ、少し足がひきつれるわね。羊水のゆれる音が聞こえなくなったのは、少し寂しいけれど。からだはかるくなったし、また、もとのように活動的になれる。私のなかに別の人格がいなくなった奇妙な爽快感。これってなんだろう。私から続いている肉の塊が私の外に出て、私以外の生命として存在するなんて。彼は私であったのに、今は彼でしかない。

坊や。何か喋ってごらん。だれにも遠慮はいらないから。 (本来、子どもは生まれたときから言葉を話すことができる。それは音声ではなくタッチで始まる。ママとベビーが指と指を重ねて話すのだ。右手と左手のすべての指のタッチで始まる。もし、それができない状況下であれば、目を見つめればいい。)

ママ、ぼくはだれの子どもなの?

私と私のママの子どもよ。それと忘れてしまった思い出。心配しないで。私たちはいつもあなたを見守っているわ。ここでは、みんなそうやってピュアな種子として生まれ続けるの。死も新しい種子を誕生させる通過儀礼の意味があるわ。

ママたちの子ども?
そうよ。安心した?
安心したよ。ここで生まれて良かったよ。ぼくもきっとうまくやれる。ぼくの未来には、ママの忘れた思い出が少しだけ含まれているようだ。ぼくは水の中で息をすることができる。鳥と空を飛ぶことも。ああ、そしてこれはぼくの過去?ぼくは落ち葉のように枯れて朽ち果て土の下に埋もれる。どういうことなんだ?ぼくの土の上にママが見えるよ。ああ、ママがぼくのうえに倒れる。緑の木?ぼくは木のなかにいる。木の枝の上にも。ぼくは飛んでいく。だれ?ぼくを草の上に倒すのは。ぼくを水のなかへ連れて行くのは。ママ、これがママの思い出なの?ママ!

ぼくは遠くへは行かない。ぼくは仮想と呼ばれたcellの窓から出て行き、無常の記憶の現実のドアへ戻ってくる。ぼくはぼくの望みのように生きて終わる。きっと戻ってくるよ。ママのそばへ。しずかにそっとブルーベリーの実が熟すころに。ママ、ぼくは行かなくちゃ。野原のクヌギの木の下で、ぼくを待っている人がいるんだ。ぼくが生まれる前からぼくに与えられていた使命だから。ぼくの生まれて来た意味がそこから始まるんだ。ぼくの未来のすべて。ぼくがママの長男であったことの使命だ。ここを出て行くということが。この黄色のバラの窓はひとつのcellなんだ。ぼくたちは固有の環境だけれど、連鎖している。さよなら。ママ、また会えるよ。この季節、ブルーベリーの季節に必ず戻って来るよ。

彼女の長男は東の窓から飛び立ち、水の中に魚の影を映し、再び雲の上にたち、鳥の形の声で鳴き、クヌギの木の下で一人の女性と出会った。彼らは懐かしい記憶に木の葉のように体を揺すった。二人はもはや、自分がだれであるのかさえも忘れた。今、二つの魂がひとつのものになろうしていた。(やがて、そのときがみちた)彼らは枯れて朽ち果て、土の中に埋もれ、一粒の種子を残した。  高原から運ばれて来る真っ青な空の深い吐息に乗って、季節の小鳥たちが集まって来る。ブルーベリーの実が熟したのだ! cellが一斉に開かれている。

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