2013年7月11日木曜日

葦の荒地における読書ノート


『神の仮面 西洋神話の構造(上)(下)』 J.キャンベル著。山室静訳。(青土社)

  「葦の荒地における読書ノート」を読んでいると、2012年の夏はたいへんな日々であったことがしのばれます。39度の熱を出して市立病院の緊急外来へ続けて2日も通院したということ。途切れた文章でしたが、紛失したフォルダから救出したばかりなのです。なぜ、このノートが「葦の荒地」なのかというと、本屋へ本を買いに行く裏道が「葦の荒地」なのです。背丈を超える原野が、街中にあるということの奇異な風景を、楽しんでいたのですが、とうとう買い手がついて、葦は刈り取られ、火が放たれて、新しいマンションが建ったという、どこの街でもあるごく普通の出来事がここでもあったのです。そんな夏の読書でした。山室静(1906年(明治39年)12月15日 - 2000年(平成12年)3月23日)先生は詩人・文芸評論家・翻訳家であり、北欧文学の研究者で、トーベヤンソンの「ムーミン」を翻訳して日本に紹介されました。山室先生は長野県佐久市に縁があり、私は、先生の名前を冠した「第19回・山室静佐久文化賞」を2002年に受賞しました。山室先生の広範囲のお仕事を学ぶことは至難のことですが、2012年から少しずつお仕事の後を追っています。この大著を読み通すことも発熱の原因でした。2013年の夏に、リライトすることも夏の因果は巡るということでしょうか。



1)『ヨブ記』が示すもの
東洋と西洋の神話と祭式の境界はイランの台地である。東には、インドと極東との二つの精神的地域があり、西にはヨーロッパとレバント(小アジアの地中海沿岸地帯をさす)がある。東洋を通じて、存在の究極の根拠は思考、想像、定義を超えるという観念が優勢である。定義づけることができないのだ。そこで、神、人間或いは自然が善い、正しい、慈悲深い、或いは親切だと論じることは、問題に届かないのである。人は同様の適当さ、或いは不当さで、悪、不正、無慈悲さ、或いは悪意をもつものと論じえたろうから。すべてこのような神人同性的な叙述は絶対的に合理的な考察の彼方にある実際のエニグマ(謎)を遮閉するか仮面をかぶせるかするのだ。しかもこの見地によると、まさしくそのエニグマが、われわれ各人の、またあらゆる事物の存在の究極の根底なのである。かくて、東洋神話の最高の目的は、その神々やそれと結びついた祭式のどれをも実体的なものとして確立することではなく、それらを通してその彼方に行く経験、内在的でもあり超越的でもあり、しかもそのどちらでもなく、ないでもない、かの存在通の存在との同一性を提示することなのだ。『知るとは知ることではなく、知らないことが知ること(インドのケーナ・ウパニシャッド2章3節)『おお、なんじ、行ける者よ、なんじは行けるなり、彼方の岸に行ける者よ、彼方の岸から船出せる者よ、悟り!ようこそ!(般若波羅蜜多心経)』神話的思想と想像の西の系列では、人間だけが内部に向かって、ただ彼自身の被造物としての魂の経験をすることができるのだ。『ヨブ記』が示すように、彼はおのれが神の荘厳を見るところのものを前にして、自己の人間的判断を放棄するかもしれない。「見よ、わたしはまことに卑しい者です。あなたに何を答えられましょう?(ヨブ記40章2)」と。或いは他方で、彼はギリシャ人がするように神々の人格を審くかもしれない。*発達と伝播の新石器時代時代村落の段階において、あらゆる神話と礼拝の中心の姿は、生命の母で養育者で、また再生のための死者の受け取り手なる、物惜しみしない大地母神であった。彼女の礼拝の最初期(レバントでは紀元前7500年から3500年頃)では、このような母神は多くの人類学者が想像するごとく、ただ地方的な豊穣の女守護者とかんがえられたのかもしれない。青銅時代が週末に向かうにつれて、古い宇宙観と母神の神話は急激に変形されて説明しなおされて、おおまかにいえば抑圧されさえした。突然に侵入してきた父権的な戦士の部族によって。*母神:イヴ:皮を脱いで若さを取り戻す蛇の不思議な能力は、そのために世界を通じて生まれ変わりの神秘の師匠たる性格を得た。その天における徴が、満ちては欠け、その蔭を脱いではまた成長する月なのだ。月は生命を創造する子宮のリズムの、それと共にまた、それを通して存在が来たり去ったりする時間の主でまた尺度であり、誕生と同様にまた死の神秘の主なのである。蛇は死の果実のようにぶらさがる。




2)善と悪
近東の早期の神話組織では、後の聖書の厳格な父権的組織と対照的に、神聖は男性の姿に劣らず、女性の姿で表現されることができ、資格づける姿そのものは、究極は無限定な、あらゆる名と形を越えてしかも内在的な、原理の単なる仮面にすぎぬことを認識する。知恵(悟り)の実と不死の生命の実。つねに死にゆき、つねに復活したシュメルの神。月がその影をぬけだし、蛇がその皮を脱ぎ捨てるように、死んで宇宙の大母神の彼女の許に帰ることで、その神は再生する。ブッダの教義と伝説では、死からの解放の観念は1つの新しい心理学的説明を受けた。エデンの園では、主なる神はアダムが善悪を知る知恵の木の実を食べたと知ったときは蛇を呪い、天使に告げた。「見よ、人は善と悪を知ってわれらの一人のようになった。だから、いま、彼が手を伸ばして、またもや生命の木の実をとり、それを食べて永遠に生きることのないように」と。
「隣人を愛し、敵を憎め」マタイ伝5章43?48・敵を愛し迫害するもののために祈れ。このようにすれば、あなたは天にいます父の子となるであろう。キリスト教神話の起源はペルシャの影響による旧約聖書の思想からの発展として説明できるように見えるかもしれない。愛と、恐らくは特にユダヤ人という代わりの人類の観念の強調を除いて。


「神の似姿」として。
160P。もし「神の似姿」として作られたアダムとイヴが一緒に現れたのならその時は神は単に男性ではなく、二重性を超えた両性具有者だったはずだ。その場合はなぜ神は男性形で礼拝されるのと同様に本来は女性として礼拝されてはならなかったか。

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