2013年7月21日日曜日

7月前半の詩誌の紹介

詩誌のご恵送ありがとうございます。7月前半は少し体調を崩してしまって、読んで書いてブログに纏めるという作業ができませんでした。7月前半の詩誌をセレクトして、4誌について感想を述べつつ紹介をします。



1.黒崎立体さんの個人詩誌「終わりのはじまり」。これは表現の発表媒体がセブンイレブンの「ネットプリント」です。プリントできる日に外出できなかったので、ご本から送っていただいて手許にあります。PC.からファイルを登録すると、ファイルに「予約番号」がつけられ、この番号を店内にあるコピー機に入力するとファイルをプリントアウトできるというもの。初めて接する仕組みです。それで、作品ですが、痛々しいと感じる部分が「詩になっている」とすれば、詩人の感情や感性は、極めて病的な危機的なものの上に存在するのか、などと思う。精神の危機的状況を創造することは、詩に限らず文学作品には必要な事と思ってはいる。「とぶ」という作品のなかで(水が、不足するとささくれが できます。)というフレーズがある。この(ささくれ)が、彼女を詩人にしている。作品は、小学校低学年と思われる少女が「おしっこ」を教室でもらしてしまったときのことを書いている。着替えを持ってきた母に「帰ろう」と繰り返される声が、大人になった今も、何かの疵がぱっくり開くように繰り返される。この痛みは、「ふれるものをうつくしく見るとき、」へ、と変換されていく。それが現在の彼女の立ち位置だろうと思う。
★ここにある「痛み」は、実はとても大人の感覚なのです。だからこそ、現在の彼女が「ふれるものを」詩にすることができるのです。それで、この痛みは、「サクラコいずビューテイフルと愉快な仲間たち7号の小林坩堝さんの作品「砂漠」の2に似ているように思う。坩堝さんの作品は、けがをして血を流しているのに「保健室」へ行かないでいて結局、家へ帰るのだが、これも子どもの強情やいじっぱりではなくて、「デリケートな」感性があるのです。子どもの悲しみを、理解するとは、「子どもという小さな人」を尊重することだと二人の詩を読んで思ったのです。



2.詩誌「ひょうたん50(2013・7・16発行) 」 長田典子さんのプリシラ・ベッカーの翻訳詩と自作詩をまず読む。自作詩「空は細長く」というタイトルが生まれ育った村暮らしの幼年時代へ遡る梯子段みたいで素敵だ。少女の感性がまた凄い。「こんなにきれいなものをみつけたよ!」と両手いっぱいに乗せて寝起きの祖母に見せたものが何と「これが山羊のうんこだなんて」だったのだ。最終連が感傷的ではなくて、実に爽やかだ。それは、「朝露に濡れた叢の中に光輝く黒いもの」が〈きれい〉という価値が彼女のなかで少しも揺らいでいないからだ。引用する。「あのころ/空は細長く/幼かったわたしは/友だちと遊びすぎて遅くなると/覆いかぶさってくる漆黒の森の真上に開いた/藍色に曲がりくねる空をなぞるように見上げながら//」


 3.高塚健太郎さんからお送りいただいた詩誌「サクラコいずビューテイフルと愉快な仲間たち7(2013・6・30発行)」 より。高塚健太郎、小林坩堝さんの作品を紹介します。
高塚健太郎さんの「memories」は8つの散文詩を、あなたとの春の夜の夢という序文で書きだしていく。高塚さんの詩で時々感じるのは、女性の動きを繊細に見ているという感じを感じさせる。最初の「肺姉妹」で「息の揺れは、その美しさの妹となる」で、全ては「息」が流れていく。以前、別の詩篇で「いきすだま」という言葉が出てきたが、「息」が描かれるとき、霊気なようなものがこちらに流れてくる。最後の「ブラジリア」の「永い世代の後に革命が起こっても、それらの、花園、血液の季節、嵐が丘、という名だけは残される」が妙に生臭く記憶に残ったのは、ここで「血」が扱われているからだろう。息と血の流れが、こちらがわで書いている詩人と女性(と)の息で語られるという、春の夜の夢八夜。
 次に、ヒラッと捲ったら「あたしのこと、愛してる?」「愛してるよ、もちろん」そして男女は性交した。//誰だろうと思ったら坩堝さんの「砂漠」という作品だった。この「砂漠」は#1?#5まであるのだけれど、坩堝さんはとてもおもしろくて個性的だと思う。ここでも、知っているとか知らないとかの経験の知を超えて、子どもの心を大人の眼差しで知っている。自分のなかの子どもの心を遡って書いてはいない。子どものときから、大人の心を持っていたのかもしれない。#2が好きだった。


4.1971年7月20日創刊の詩誌「孔雀船」82号。

 巻頭は海埜今日子さんの「うつつゆめ」。ますます自由で、ひらがな文字に託したたおやかな感情は「そらゆくゆめの、なんて、しじまよ」夏の夜の夢よ。と思う。


  「児童文学とポエジー」の連載で『「夕鶴」と〈罪と罰〉』を藤田晴央さんが、亡くなられた奥様と木下順二の「夕鶴」のつうのことに絡めて書いておられます。奥様は中学三年生のときに「つう」を演じているとのことでした。「見るなのタブー」とは、世界各地の神話や民話に見られるモチーフの一つ...で、何かをしている所を「見てはいけない」とタブーが課せられたにも拘らず、それを見てしまったために悲劇が訪れるというものです。または決して見てはいけないと言われた物を見てしまったために恐ろしい目に遭うという類型パターンを持ちます。「見るなの禁止」とも言います。民話の類型としては禁室型(きんしつがた)とも言います。藤田さんの考察は、「夕鶴」における「見るなのタブー」は、与ひょうに下った〈罪と罰〉という見解でした。

  文屋順さんの「内なるものに/」は、とてもナイーブな作品でした。 ご自身の「内なるもの」と「失われた人たちの鎮魂」への衷なる思いが重なっていると思いました。
 
 この雑誌で楽しみなのは、小柳玲子さんの「詩人の散歩道」。今回は「エドゥアール・マネを巡って」。マネの弟と結婚したベルト・モリゾは私もファン。小柳さんが5P.の文章のなかで、最後にこのモリゾに触れている。モリゾは、19世紀印象派の女性画家。「すみれのブーケをつけたベルト・モリゾ(1872年)」は、優雅で優しくて、ただそれだけではない知性の眼をした肖像画です。そして、モリゾの絵は、画布に置かれた絵具の色彩が対象のそのものの存在感を現しているといつも思う。彼女の絵で好きなのは、ブージヴァルの庭のウジェーヌ・マネと娘(田舎にて) (Eugène Manet et sa fille au jardin) 1881年)
パリ郊外セーヌ河沿いのブージヴァルのプランセス通り4番地に借りた別荘の庭で、街の模型で遊ぶ娘ジュリーと、それを見守る夫ウジェーヌ・マネの姿が描かれている。愛する家族の姿を愛をこめて描くことができて、それが見る人に喜びを与えることができるなんて、芸術にとって幸福な事だと思う。
 

 

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