2018年11月13日火曜日

噴水と私  《水の戯れ》


噴水と私




 ひと夏を、詩を書くために噴水の水を見飽きるほど見ていたことがある。それは、フランスの作曲家モーリス・ラヴェルがパリ音楽院在学中の一九〇一年に作曲したピアノ曲《水の戯れ》の煌く水を、詩で顕したいと思ったからだった。ラヴェルの曲では、「亡き王女のためのパヴァーヌ」も好きだけれども、ラヴェル独自の作風へと昇華するきっかけとなった作品といわれている《水の戯れ》をピアノ曲と、現実の水の戯れを、夏の詩の中に書いてみたいと思った。《水の戯れ》は、リストの「エステ荘の噴水」が、下敷きになっているといわれている。リストの「エステ荘の噴水」も聴いてみなくてはならない。そんなわけで、ある夏の夏休みは、ピアノ曲を聴きながら過ごした。ピアノという楽器の特徴と演奏法についての文献も読んでみた。ラヴェルはピアノがあまり上手くなかったとされているようだが、ピアニストになれるほどではなかったということであって、ピアノ演奏のレベルが低かったわけではないという。それで、とても興味深かったことは、「亡き王女のためのパヴァーヌ」は、弾きながら楽譜を書いているが、《水の戯れ》は、弾きながら書いていないということです。それは、弾きながら書くときに現われる手癖というものが無いということなのです。ピアノという楽器を弾きながら楽譜を書くことは、イメージを遠く飛ばすが、そういう部分がなく、単純な和声進行の部分が多い、けれども、噴水の水の上がるさま、落下するときの光の煌きは、単純な繰返しゆえに水の軽やかさが見事に表現されていると思う。





北八ヶ岳一帯に広がる原生林の中で、
湖沼の環境水の有機成分とトリハロメタン生成能の関係を調査するために、自然園へ出かける予定をたてていた。湖沼の色には「水そのものの色」と「見かけの色」とがある。保養地の山荘で聴くラヴェルの《水の戯れ》は明るすぎて私を少しだけ憂鬱にさせた。



調査のために、きみと暮らした、ひと夏のレモン色のキャロラインが咲く、
美術館のある村の噴水のあがる睡蓮の池は眩しかったね。Mixture of Visionにより睡蓮の形が立体的に見えてくるので、私たちは睡蓮が《水の戯れ》のように浮かびあがる瞬間。透明な光の表現の、混ざり合うColorの源泉へと思考を膨らませていったね。


 水面に照り返す青と緑と紫と桃色の混合する退廃的色彩は、
Ceci n'est pas une pipe)という題をつけたマグリットの意図からミシェル・フーコーが考察した、(類似)と(相似)の差異であり、写実は、翻訳ではなく、原典の捏造でもなく、ただひたすらに、噴水の《水の戯れ》の池におけるきみと私の、取り残された空の片隅の焼死した小鳥の、影のような雲の一片の、印象派のColorへのノスタルジャであり、(表象するもの)は(表象されたもの)と一致しない、という(This is not a Pipe)であったのか。


夏が過ぎて私は一人であの噴水のあがる美術館の睡蓮を見に行った、
あのときの、きみに出遭うわけもなく、とりとめのない夢の辺縁で聴いた《水の戯れ》を、詩の言葉に変換しようとして、きみの幻影を追っていた。湖沼の比吸光度は溶存有機物の特性を表す指標でもあり、キーワードは、トリハロメタン生成能、溶存有機物、臭素化物、UV吸光度、比吸光度だ。「水そのものの色」と「見かけの色」の(類似)と(相似)の差異は、より多い有機物、特に溶存有機物の蓄積を持つ水域についての特徴を知ることも必要で、ラヴェルの《水の戯れ》は、混ざり合うColorの、源泉を知ることでもあったのだった。

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。