2020年4月15日水曜日

「鳥や」エウメニデス44号より。









「鳥や」小島きみ子 エウメニデス44号より。

 鳥の羽、探しています 
        

鳥の羽、探しています。 渡り鳥の水鳥は、 鳥インフルエンザが怖いので、 日本に居る鳥の羽がいいのです。 鳥の羽を見つけたい理由があります。 私が書いた詩を引用しておきます。『表現の最後の目的は、 行為することだ、という考えにたどり着いたとき 絶望したのです。もう生きている何の意味もない。そのとき、わたしのセーターの胸に鳥の羽が刺さっていたのです。あのときの白い鳥の羽が手に入ったら、絶食して死んでもいいとさえ思うのです。』ダウンジャケットを作るためにどれだけの水鳥が、羽を毟られていると思いますか? そんなことにいちいち驚いていては生きてはいけませんよ。だって、あの白い羽毛は天使の羽ですからね。


 鳥や    
         

鳥の羽、というのは落ちているようでいてありません。カラスとかキジバトの羽はたまに落ちているのですが。いろいろな鳥の羽を木片に射したインスタレーションを見てから、鳥の羽、見つけたいのです。小鳥を売っている店とかに行くと、その辺に落ちていないかな、と思うのですが。どうでしょうか。
在来線に乗っていて、何気に外をみると田圃のなかに「鳥や」の看板がありました。ほんとうにびっくりして、「あー あの彼女の家だ」と思ったのは、職場に訪問してくる「生協」の貴金属販売員の女性のことです。真珠のイヤリングが欲しかったので買ったのでした。
そのとき、「わたしの家は 鳥や です」と言ったのです。どういういきさつで、そのような会話をしたのか記憶にありませんが、「鳥やって何」と聞くと「インコを孵して売っているのよ」と答えたのです。「へーそんな職業知らなかった」と思っていたのです。
それで、あれは、県境の都市で詩のイベントがあり、久しぶりに高原のハイブリットカーに乗車したところ、「鳥や」と書いた看板が線路に向かって、掲げられていたのです。小さな駅で降りて、畦道を歩いたとしても、あの家には、行きつくことができません。私は、当時の職場を去りましたし、あの場所がどこだったのかもわかりません。
あの日、黄金色の田圃のなかに「鳥や」の看板が確かにあったのです。「鳥はいらないのですが、鳥の羽だけください」なんて、そんなのありかな、と考えていたのです。それにもっと重要なことは、あのとき買ったはずの真珠のイヤリング、どこを探しても無いのです。だからと言って、夢であるわけがありません。




Face Bookより、7年前の投稿のお知らせがあって、北川透さんがエウメニデス44号の小島きみ子「鳥や」について感想を述べてくださっています。懐かしく嬉しいです。シェアの機能が無いので、コピーして貼ります。この頃は、北川透さんもポストされていましたね。海峡通信は、コピーしたのかもしれません。
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【海峡通信81】昨日、小島きみ子さんが送って下さった、詩誌「Eumenides44号が届きました。荒壁の前に、木の椅子4脚が並んでいる写真の表紙がいい。小島さんありがとう。発表されている小島さんの詩は、「鳥や」の飄飄としている感じが面白かった。詩の中で、「私」は鳥の羽を探している。在来線の電車に乗っていると、田んぼに「鳥や」の看板が立っていた。しかし、小さな駅で降りて畦道をたどっていっても、あの黄金色の看板の「鳥や」にたどり着けない。鳥はいらないのだけど、羽だけが欲しいという、「私」の気持ちには切なさがあります。以前に読んだ赤羽正春さんの『白鳥』という民俗学の本は、世界の「白鳥処女説話」の文化史を書いたものですが、それらの語りの中心には、共通する原型がある、と言います。天から白鳥が降りてきて、美しい処女になり代わり、水浴びをする。それを盗み見た男が、彼女の衣を隠してしまう。白い衣は白鳥の羽だから、もう、天に帰れない。……こんな話を原型とする羽衣伝説は、日本にもありますが、世界中にさまざまなバリエーションで存在している、という。昨夕、久しぶりに暖かくなって、海峡沿いの歩道を散歩しました。そして、しばらく見なかった白鷺が小魚を獲っているところを見つけました。海峡には白鳥は飛来して来ませんが、その積りで見れば、鷺も白鳥に見えないことはない???。でも彼女は夕食を獲りに来たので、水浴びをしませんでした。小魚で腹を満たした白鷺は、1枚の白い衣を残すことなく、遥か波間に飛んで行きました。小島さん。海峡の白い鳥も、岩場に羽を落とすような、ヘマはしないようですよ。遠景の写真でよく見えないかも知れません。


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エウメニデス44号より
作品  どの水音を遡ってここまできたか




「トリスタンとイゾルデ」を聴いている。
まだ咲かない櫻の木の下で別れた人たちのことを思いだす。
窓辺のゼラニュームが散っていく。
疲れた人が瞼を閉じるように。

どの水音を遡ってここまで来たか。
新しい物語を創らないと、
流されて行った人々の追憶のなかへ入ってゆけません。
愚かなあまりに愚かな人間は、
何度でも何度でも死んで赦しを請わなければ、
あなたがたの犠牲の意味を知ることなどできはしないのです。

ピーチピンクって言えばいいのか!
チェリーピンクって言えばいいのか!
灰色の大地で果敢に咲いていた桃の花桃の花。
昼間の明るすぎる陽ざしを突然に襲った。
チュルチュル、チュルチュルという水の音。

病室のカーテンの裾から細い足が出ている。
ジャン・コクトーの『怖るべき子供たち』の表紙カヴァーは、
池田満寿夫だったね、と、唐突に叔父が暗唱する。
「虚空のなかを綱渡りする夢遊病者、
すなわち、夢遊病者のように生と死のあいだを往き来する詩人である。」

桃の花にメジロが来ていたね。
チュルチュル、チュルチュルって。
あなたは鳥の真似をして口笛を吹きながら、
七階心臓外科病棟の廊下を歩いて行ったきりまだ帰って来ない。





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