2020年2月6日木曜日

詩集『僕らの、「罪と/秘密」の金属でできた本』

  FBF.の京谷裕彰さんのウォールの記事をコピーしました。詩集『僕らの、「罪と/秘密」の金属でできた本』(20181月。私家版)について。

 ちょうど2年前の今頃、小島きみ子さんが詩集『僕らの、「罪と/秘密」の金属でできた本』を刊行され、小笠原鳥類さんが表紙装画を、私が解説を担当しました。
実はこの二週間ほど、折に触れてこの詩集を読み返していたのですが、時代の節目感が強まっているいま、あらためてその射程の広さ、思想の深遠さに感じ入る時間を過ごしました。
ありがたいことにいろいろな方々からご好評いただいた私の解説、「潜在意識、あるいは創造性の源へ」は2017年の秋、ちょうど『現代詩手帖』の2回連載「詩、そして形而上学」と同時並行で執筆していました。
そのタイミングでなければ、このような解説はおそらく書けなかったのではないか、そんなふうに思っています。
刊行時にはブログにて冒頭部分を引用紹介したことがありましたが、末尾部分の一節を(長いですが)ここに貼り付けてみます。
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  詩集『僕らの罪と秘密の金属でできた本』は、極めて主知的なスタイルであるといえるが、その主知性はどこまでも潜在意識の内奥、すなわち〈実存〉に根ざしたものであり、単なる悟性(記号的理性、記号を操作する力)のレベルで捉えられるものではない。深層にあるものと、表層にあるものとが、つねに往還しているからである。
 このスタイルは、実は人間のプリミティブな発話における、自然なあり方に近いともいえまいか。私たちは論理的な話であっても、発話し、話を組みたててゆくとき、決して意識の表層にあるものだけで語ってなどいない。つねに、意識の表層にあるものや表層を刺激する事物が、深層にあるものを喚び醒ますように、交わるように往還することで語りの流れが成立している。
  これは、意識するとしないとに関わらず、誰もが日常において行っている営みではないか。実践などという大袈裟な言葉が不似合いなほど自然な。だが、敢えてこのような方法が採用されていることの意義をほどいてゆくと、無意識、あるいは潜在意識という暗がりの領域と、意識的な思惟との間の豊穣な関係、その様相や論理を解することができる。詩集をひもとく読者が、詩語に、詩行に、そして余白にかける言葉や、言葉ならざる意識のひとつひとつが、その通路を開き、明らかならしめる鍵になるだろう。この無限ともいえるゆたかさは、指し示された方向、つまり広大無辺な言葉の彼方、そして言葉のこちら側、すなわち私たち読者が根ざす世界の無限のゆたかさに由来する。ここにあるのは、存在への信頼、そして愛なのだ。
  そうしてシュルレアリスムという思想、その源、すべての創造性の源としての潜在意識へと志向する視座が、はっきりと姿を現す。
十九世紀末に宣告された伝統的西洋形而上学の終焉(「神の死」)後、多くの思想家達によって追究されてきた様々な形而上学上の問題への、通路が拓かれる。無限に拓かれるべき真の形而上学への径として。
・・・                                   京谷裕彰 2020/02/05 Face Book記事



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